「The World Until Yesterday」 第7章 コンストラクティブパラノイア その1 

The World Until Yesterday: What Can We Learn from Traditional Societies?

The World Until Yesterday: What Can We Learn from Traditional Societies?


第4部 危険と反応


第7章 コンストラクティブパラノイア


「コンストラクティブパラノイア」とは直訳すれば「建設的パラノイア」ということになるが,ここでは現代では基本的に病的で治すべき症状として捉えられている「パラノイア」が伝統社会ではある意味で適応的な生活態度であったということを表現している.
ダイアモンドはまずそれを感じた自分の経験を説明している.



<危険への態度>

私はニューギニアへの最初の訪問で,ある部落に滞在し鳥の調査をしていた.最初の1週間で低いところの調査を終え,300メーターばかり上ったところを次の調査地にした.そこで尾根が開けた美しい場所を見つけた.水場もそばにあり,尾根をあがってくるタカやアマツバメやオウムまで観察できる.私は美しい大木の根元にテントを立ててキャンプしようと提案した.しかし現地のガイドは大木が倒れてくるのをおそれてそれを拒否した.確かにその樹木は死んでいるが腐っているわけではないし,倒れるのはまだ何年も先だと説得したが無駄だった.結局私はひとりで大木の下で寝て彼らは十分離れた草地に寝ることになった.私は彼等の心配は大げさでばかげていると思っていた.しかしその後現地で一日一度は守の中で大木が倒れる音を聞くことになる.考えてみると彼等は生涯で何千回も森に泊まる.であれば死んだ大木のそばで寝るのは結構なリスクだということに気づいたのだ.
一回限りでは小さなリスクでも繰り返して行うことならば十分に注意すべきだ.私はこの態度に深く影響されるようになり,これを「建設的パラノイア」と名付けた.

ダイアモンドはアメリカに帰っても運転するときやはしごに登ったり滑りやすいところを歩くときには十分注意するようになったそうだ.そしてそのような態度を友人の多くは理解してくれなかったが,同じように繰り返しリスクをとる3人とはこの感覚をシェアすることができたと語っている.彼等は小型飛行機の操縦者,ロンドンの警官,渓流下りのガイドでそれぞれ不注意な行為で死んだ友人を持っていたのだそうだ.

ダイアモンドは,もちろん現代にもリスクはあるが伝統社会のものはいくつかの点で違いがあるとする.

  • リスクのタイプ:車,テロ,心臓発作 VS ライオン,敵性部族,倒木
  • 危険水準の高さ,現代の方がはるかに安全
  • 現代の危険の多くは後で修復できる,しかし伝統社会のそれはしばしば取り返しがつかない.森でひとりでいるときに足をくじけば,それは生死につながるのだ.


そして自身が経験した3つのリスクの逸話を語る.題して<一夜の訪問><ボートの事故><地面にあるただの棒きれ>

これはまだ私が現地事情をよく知らなかった最初の訪問時の出来事だ.そのときには気づかなかったが,私は生死の危険に直面していたのだと後から知った.

ある時に13人の現地ガイドとともに片道3日の離れた村を訪問することになった.
初日はまあままだったが,2日目は最悪の道行きになり,朝から雨が降る中をアップダウンを繰り返して森を縦断し,夕方には疲れ果ててキャンプを張り,私たちは眠りこけた.現地ガイドは大きな防水布を張り巡らせたテントで眠り,私はそこから数メートル離れたところにエウレカのポップテントを立てて眠った.
夜中に誰かの気配を感じた,誰かがテントの窓のすぐ先にいるのだ.ガイドの誰かが小便をするのだろうと思ったが,それなら場所が変だ.しかし私はあまりに眠かったので無視した,ガイドたちがなにやら騒いでいたが,静かにしてくれといってそのまま寝た.
翌日起きてみるとガイドたちは昨日誰か見知らぬ人を見たといった.彼は手をまっすぐ挙げて手首を下げてポーズを取り,そのまま消えたそうだ.私は気にもとめずに次の日の道行きではひとりで先行して目的に地に着いた.そこで10日間過ごし,帰りはガイドの薦めに従って別の道をとって帰った.
後から知ったことでは,恐らくその人は有名な狂人で,妻と8歳の息子を殺し,現地の人を何人か殺し,伝道師も殺そうとしたことがあるのだった.ポーズはヒクイドリのポーズで,そのときには魔法をかけようとしていたと思われる.西洋人である私に害意があったのかもしれない.現地の人々は彼を危険な魔法使いだと考えて決して近づかず関わるのを避けていたのだ.

要するに私はそれと気づかずに大きな危険と隣り合わせだったのだ.今なら私は最初に気づいたときにすぐガイドを大声で呼んだだろう.そして次の日は決してガイドから離れたりはしなかっただろう.しかしそのときは私はまだ建設的なパラノイア戦略を採ってはいなかったのだ.

ニューギニアインドネシア側の沖合20キロぐらいにある島から本土に戻ろうとしたときのこと
エンジン付きのカヌーにマリクと私とそのほかの4人の乗客と乗った.クルーは若者3人で,島を離れると波は高いのにフルスピードにした.どんどん水が入ってきて乗客は口々に「スピードを落とせ」とわめいたが彼等は知らん顔で,結局ボートは波につっこみ転覆してしまう.時刻は4時過ぎで日没まで2時半.
何とか幌の下から海面にでて,さらに転覆したカヌーに捕まるが,手で握るところも足場もなく,波と戦い続ける.日没までに助けがこなければ死は免れない状況だった.クルーは3つある救命具を自分たちで使い知らん顔.最終的に日没30分前にようやく別のカヌーに拾われ(そのときも最初の小さなカヌーには泳げない人優先で乗せたら後に転覆する),何とか助かる.

翌日同時刻に日没がどんなに速く来るのか屋根の上で見ていたら,本当に間一髪だったことを改めて知る.そしてあのいい加減なクルーの所業,かつ後悔も反省も謝罪もなかった(現地法では彼等の補償の義務はない)ことに腹を立てていた.
そこに現地の人が通りかかり,話をする,実は彼も前日その島から本土に帰ろうとしていたのだ.彼はまさにあのボートに乗ろうとしたのだが,船のエンジンが強力なこと,クルーが若くいい加減で生意気だったことからそれを避けて別の船にしたのだと語った.
私はショックを受けた.危険を回避することは可能だったのだ.愚かなのは私自身だったのだ.私は建設的なパラノイアを実践すべきだったのだ.

これは私が建設的パラノイアの重要性を理解してから生じた事件だ.
ニューギニアの低地地方には所々に弧峰がある.これは生物地理的には島と同じでとても興味深い.そのような弧峰の中でも特に孤立している山を調査する機会が訪れた.しかし半径25マイルには全く集落がない.この場合にはヘリコプターから着陸可能な場所を探して降り立つしかない.テストフライトで着陸可能な地滑り跡を見つけた.そして1年かけて準備した.
ここで問題なのは,近隣に全く部落がないために誰に許可を得ていいかわからないことだ.ニューギニアではすべての土地に誰かが権利を主張する.そして許可なく立ち入ることは御法度破りなのだ.そしてこの山は全く近くに知られている部族がいないために,もしだれかにで会えばそれはファーストコンタクトになる可能性があった.これはきわめて危険なことだ.
私は1年の間,もし出会ってしまったらどうしようかいろいろシミュレートしたがどれもうまく行きそうになかった.もう片方で,近隣25マイルに部落がなく,テストフライトでは全く小屋も見つからなかったのだから,誰も訪れない場所である可能性が極めて高いとも考えていた.
そして出発の日が来た,何度も空から観察し,何の人の痕跡もなかった.そしてより山頂に近い場所により小さな地滑り跡を見つけそこに現地の友達4人とともに降りたった.キャンプを整備し,調査し始めたが,全く人の気配はなく,大形の鳥は人をおそれない.そして珍しい山地の鳥が次々に現れ,独自の鳥相があることは明らかで,調査はまさにパラダイスだった.
そこで突然ガイドのグミニが若木のように地面から立ち上がる棒を見つけた.それには葉っぱがついていて芽吹いたばかりの若い樹木のようだった.しかしグミニはこれが人が刺したものだと言い張り,抜いてみた.確かに根はなかった.
私は身震いし首まで赤くなった.誰かいるのだ.しかし1年間夢見たパラダイスが始まったばかりですぐ(定期的に様子を見に来てくれるように手配した)飛行機にサインを送って撤収するのはパラノイアの行き過ぎにように思われた.そこで私たちは徹底的に注意深く行動することにした.できるだけ声を立てず,煮炊きも夜になってから行った.しかしその棒以外の人の兆候は何もないままだった.調査は順調で,大型のキノボリカンガルーもヒクイドリも人をおそれない.結局予定した19日間を終了して撤収したが,その棒の謎はわからなかった.
おそらくそれは樹上から落ちてきた折れた枝が偶然地面に刺さったのだろう.最初にニューギニアにきた頃であったならば,私はグミニの態度を笑い飛ばしただろう.でもこのときはよく理解できた,もしそれが本当に人の刺したものならば,それを無視することは重大な結果につながりかねないのだ.同行者と何時間か議論し,数日間非常に注意深く行動することにそれほどのコストはない.これはニューギニア人として適切な行動なのだ.


いずれもニューギニアならではの体験で迫力がある.2番目の話は特にいろいろ示唆に富んでいる.(ダイアモンドはそのボートの運賃が他に比べて安かったのかどうかは書いてくれていないが)ある意味自己責任の範囲の問題だろう.そして日本人だけでなく先進国に住んでいるとこのあたりは皆感覚が緩くなるのだろう.命がかかったものについてはもう少し注意を払った方がいいことがいろいろあるのではないかというのがダイアモンドの指摘したいポイントだろうと思われるが,なかなか説得的な例だ.