「Nature's Oracle」

 
本書は包括適応度理論などの提唱者であり,ダーウィン,フィッシャーとならび称される真に独創的でかつ偉大な進化学者ウィリアム・ドナルド・ハミルトン(1936−2000)の伝記である.著者は伝記作家ではなく,科学と社会の関わりを専門とする社会科学者・科学史家のウリカ・セーゲルストローレ.彼女は一般的には「社会生物学論争史: 誰もが真理を擁護していた」(原題「Defenders of the Truth: The Sociobiology Debate」)の著者として知られる.というわけで,単なる伝記ではなく,ある程度ハミルトンの提唱した進化理論にも光が当たった書物になっている.題名のNature's Oracleとは「自然の神託」というほどの意味だが,ハミルトンがほかの誰にもわからなかった自然の秘密を解き明かすための集中力,考察力などの才能とナチュラリストとしての心性を持ち,それを実践していったことを指している.
ハミルトンには自撰論文集「Narrow Roads of Gene Land 全3巻」があって,1,2巻にはそれぞれの論文の前に執筆当時の状況や考えなどを記したやや長めのエッセイがつけられている.本書はこの自伝的エッセイの補完としても意識されており,ある程度この中身について既知である読者を想定している.というわけで,ハミルトン理論を深く敬愛し,Narrow Roadsを読破している私にとっては読むしかない本の登場ということになる.


ハミルトンの両親はニュージーランドの出だそうだ.父親は陸軍関係の土木エンジニアで世界中を転勤し,「クルディスタンへの道」という著書もある.ハミルトン自身はエジプトのカイロにいるときに生まれている.とはいえ,本人は実際には英国のロンドン近郊,ケント州の自然豊かな家で少年時代を過ごす.ハミルトン家は子沢山で質素な暮らしぶりだったようだ.セーゲルストローレは,後のハミルトンに影響を与えたこととして,自然好きの母親とナチュラリストへの道,チョウ採集への没頭とその羽根の模様に絡むパターンへの興味,そして父親のエンジニアとしての問題解決方法あたりを特に強調している.
このエンジニア的手法というのはちょっと興味深いところだ.セーゲルストローレによるとそれはたとえば包括適応度理論の導出にみられる「遺伝効果を相加的なもののみ考える」「弱い淘汰条件を前提にする」などの「近似値が得られれば十分」というスタンスに表れると指摘している.これはメイナード=スミスやジョージ・プライスとの共通点でもあり,また数学的に純粋な当時の集団遺伝学者たちからなかなか理解されなかった背景というのが彼女の見立てだ.
また細かいところではダーウィニズムへの出会いはE. B. フォードのチョウの本の記述だとか,(割りと近くにある)ダーウィンのダウンハウスへ最初に行った印象は,「ああいうことは金持ちだからできるんだ」ということだったなども面白いところだ.


ハミルトンは著名なパブリックスクールであるトンブリッジ,そしてケンブリッジ大学に進む.
セーゲルストローレはトンブリッジのいかにも英国風のいろいろな風変わりな慣習を紹介していて面白い.中には学年によってどんな服装が許容されるかが決まっているなどどこかで聞いたような話もある.ハミルトンは特別成績がよい生徒というわけではなかったようだが,それはおそらくオリジナルなアイデアを出すタイプということもあったのだろう.テストには設問すべてには答えず,そのうちいくつかについて非常に詳しい回答をしたそうだ.短期兵役に志願して軍隊式の行動様式が性に合わなかった逸話も語られている.このあたりから後年のハミルトンらしさが現れるようになる.
ケンブリッジでは1,2年で動物学,植物学,生理学を学ぶ.このころ進化的な議論に興味を覚えるが,周り中はナイーブな「種のため議論」に染まっていて,すっかり飽きたところで図書館でフィッシャーの「自然淘汰の遺伝学的理論(1930)」に出会う.3年からは遺伝学を専攻し,この難解な書物をハミルトンは独習で読み解いていく.フィッシャーは引退後もケンブリッジに顔を出していて,ハミルトンは「お茶の時間」に接触にも成功するがあまり深い会話もできないうちにフィッシャーはオーストラリアに去ってしまう.片方でヒトの利他行動の進化を自分の研究テーマにしようとして*1人類学の履修も申し出るが,そのような選択はできないと遺伝学教室,人類学教室双方から拒否される.


卒業後望む職は得られないが,友人のコネを頼りLSE(London School of Economics and Political Science)に研究者として席を得る.そしてここで孤独に包括適応度理論を作り上げていくことになる.Narrow Roadsにおいては,この孤独は結構印象深く記述されていて,LSEでは机すらもらえず,ウォータールー駅のベンチで論文の原稿を書いた逸話とともに,利他行動の進化というテーマが周りから全く無視されていることについてのハミルトンの寂寥が浮かび上がってくるものになっている.セーゲルストローレは,この孤独感は確かにあっただろうが,実際にはハミルトンに机を渡そうとした努力もあったし,彼は友人や家族のサポートを受けていて印象ほど孤独ではなかったはずだと書いている.駅のベンチや2階建てバスの2階席はハミルトンが集中するのにちょうどいい環境だったということらしい.セーゲルストローレは,片方でハミルトンの「利他行動の遺伝学的な基礎理論を作りたい」というテーマが周りから冷淡に扱われたことについて別の見方を提示している.それはかつてナイーブに優生主義を唱えたが,ナチの所業に震撼して,ヒトの行動はすべて文化的に決まるという方向に転向した左派にとっては決して是認できない企画だったのだろうというものだ.


さてそうして書き上げたハミルトンの包括適応度理論についての論文「The Genetical Evolution of Social Behaviour, I and II」についてセーゲルストローレはその掲載までの経緯*2に加えて,学術的な意義についてもグラフェンの助けを借りながら解説してくれている.ここは私的には大変面白いところだった.

アラン・グラフェンによる論文の革新性についての解説

  • まずハミルトンは特定の血縁ペアについての利他行為の条件を個別に検討することから始めている
  • そしてそれを重ねることで,その遺伝的な条件は遺伝子頻度などの影響を受けず,単純に同祖的遺伝子を持つ確率(血縁度)のみに依存することを見いだす.
  • さらに,フィッシャーの基本定理を巧みに応用し,さらに適応度に与える影響を相加的だという前提を与えることにより個別の行動を血縁度で加重して足し合わすことを可能にし,すべての社会行動を一度に扱えるようにした,これは理論の定式化としては革新的なところだ
  • そしてそれにより個体が最大化すべき変数としての「包括適応度」を提示した.
  • この結果を得た後にこの血縁度はシューアル・ライトが定式化した近交係数「r」で近似できることに気づいたのだ.*3

セーゲルストローレによる補足解説

  • ハミルトンは相加性という前提の他,弱い淘汰条件という前提も最初から明確に意識している.そしてロバストな結果が得られる近似であればいいという割り切りはまさにエンジニア的だ.
  • ハミルトンは最初から利己的遺伝子視点を持ってすべてを演繹したわけではない.彼は心情的には全体主義的匂いのあるグループ淘汰が嫌いで,人間の自由に通じる個体淘汰的アイデアが好きだった.そして時に遺伝子視点を採っているが,それは法則導出のためのヒューリスティックスという扱いだった.
  • 利他行為がすべて血縁間で生じるわけではないことも当初から気づいていた.それは血縁認識メカニズムの考察に彼を向かわせ,後の「緑髭効果」につながることになる.
  • アリ・ハチなどの膜翅目昆虫の真社会性についての半倍数性からの説明は,論文上でも単に包括適応度の応用の一例に過ぎない扱いとなっている*4

セーゲルストローレは,利他行動の進化というテーマについてのハミルトンの心情について,「ハミルトンは『他者のための自殺』という概念にロマンティシズムを感じていた.それは全体主義への反抗,第二次世界大戦時のドイツへの抵抗,カレーの市民の逸話,そして『悪の中で善人が出現し,団結し,ついに悪を倒す』というイメージにつながっているようだ.」とも指摘している.このあたりも科学史家による伝記ならではの味があるところだ.


包括適応度理論の論文を投稿したあとハミルトンはブラジルに旅立つ.このような理論に集中したあとに自然のフィールドに出るというのはハミルトンの生涯で何度か繰り返されることになる.(セーゲルストローレはこれを『カフカモード』と『ベイツモード』の切替と呼んでいる)そこで社会性のハチやネジレバエなどを深く観察したあと,英国のインペリアルカレッジに遺伝学の職を得てハミルトンは腰を落ち着ける.老化の進化の数理生物学的議論(1966),局所配偶競争と性比(1967),近親交配がある場合やプライス則を利用した包括適応度理論の拡張とさらなる磨き上げ(1970,1971,1972),利己的群れの数理(1971),プライス則を入れ子状に適用することによるマルチレベル淘汰の数理的定式化(1975)などの様々な業績がこの時期に集中してなされている.
セーゲルストローレのこの頃のハミルトンにまつわる記述で目を引くのは,一つはプライスとの出会いとその悲劇(ハミルトンはプライスの死を自分の分身のような思考様式を持つ頭脳の死と受け止め,またもう少しケアしていれば自殺は避けられたのではないかと悩む),もうひとつは包括適応度理論の先取権をめぐるメイナード=スミスとの確執だ.
メイナード=スミスは最初にハミルトンに会ったときには彼のテーマに興味を示さなかった.また最初の論文の査読者であり,そしてそれが印刷に廻る直前の1964年にグループ淘汰を否定する論考を発表し,『血縁淘汰』という用語を作り,そこでホールデンとハミルトンを並べて引用していた.また1975年にはウィルソンの社会生物学の書評をニューサイエンティスト誌に寄稿し,そこで血縁淘汰のアイデアはホールデンがパブで封筒の裏に書き付けていたがそれを発展させて昆虫の社会性に応用したのがハミルトンだと書かれてあった.ハミルトンの目には,これは包括適応度理論の先取権を自分からホールデンに移そうという試みで,自分の業績を昆虫の社会性に矮小化させるものに見えたのだ.彼はニューサイエンティスト誌に投稿し,パブの話に証拠はあるのかと問いかけた.決定的な証拠は寄せられなかった.セーゲルストローレはこれを『メイナード=スミスパラノイア』と呼び,詳しく経緯を追っている.
私が読み取る限りハミルトンの論点は2つあり,「パブの話は捏造ではないのか」と「包括適応度理論の真の重要性は,それがまれな遺伝子でなくても適用できること,つまり遺伝子頻度に依存しないことの発見だ.そしてホールデンは全くそこに到達していない.」というものだ.この後者は先のグラフェンの解説にもあるが,実際にはあまり詳しく解説されることは少ないところだろう*5.この確執はその後5年近くも続き,ハミルトンとメイナード=スミスの率直な意見を記した手紙の交換*6を経ても解決しなかった.最終的にはパブの話が事実であるという新しい証言をハミルトンが得たことから捏造疑惑について謝罪し,メイナード=スミスも,ホールデンは決定的な一歩を踏み出しておらず業績はハミルトンのものだと重ねて表明し,さらに若き日の自分の態度に愚かしさに起因するミスがあったことも重ねて謝罪し,この確執は1980年に解決する.この2人に一時行き違いがあったという話は知らないわけではなかったが,ここまで深くこじれていた*7というのは驚きだった.
なおセーゲルストローレは科学史家としてなぜホールデンが最初のアイデアを進めなかったのかも考察している.トリヴァースのコメント「ホールデンは血縁認識できないことを前提に考えていたので,血縁者が小集団を作っているという例外的な状況でないと働かないと考えたのだろう.また血縁者びいきという政治的な含意も嫌ったのだろう」を紹介しつつ,実際にはこのアイデアは,ライトの「浮動」を応援する考察*8の一つにすぎず,利他行為の進化という文脈では考えていなかったのだとしている.


さて1976年,数々の業績にも関わらずハミルトンはインペリアルカレッジでの昇進を拒否される.セーゲルストローレはその原因について,ハミルトンは伝説になるほど教えベタだったこともあるが,動物行動学者たちは究極因以外にも興味があったのでハミルトンの重要性がなかなか浸透せず,集団遺伝学者はフィッシャーを理解し切れていない上にハミルトンのエンジニア的手法が数理的に受け入れにくかったため,大学の運営当局にはハミルトンの業績について賛否両論があって定め難かったためだろうと書いている.
いずれにせよハミルトンはこの決定に深く立腹し,辞職してアメリカに渡る.渡米当時の業績としてはロバート・メイと共著による分散に関するESS(1977),樹皮の下の昆虫に関する近親交配,分散,社会性,半倍数性にかかる深い論文(1978)などがある.
この頃アメリカでは社会生物学論争が勃発し,トリヴァースがハミルトン学説を推し進め,さらにドーキンスの「利己的遺伝子」の出版により,ハミルトンの業績から派生する新しい学問分野がまさに勃興しつつある最前線だった.
しかしハミルトン自身は社会生物学論争の中ではあまり表には出なかった*9.理由についてセーゲルストローレは批判者たちの目にはハミルトンはヒトに興味があるようには見えなかったのだろうと書いている.


ミシガン大学に腰を落ち着けたハミルトンは,性の問題に取り組む.なぜそもそもオスというものが存在するのか,それまでの説明は皆グループ淘汰的であり,ハミルトンはそれを個体淘汰的にも説明できなければならないことを認識する.これは今日,性の2倍のコストの問題,あるいは有性生殖の短期的な有利性の問題として知られる.環境変動では説明できないという結論を得たハミルトンはパラサイト耐性という可能性に気づく.一旦ハプロイド,2遺伝子座モデルである程度の結論を得るが,真にこれを証明するには多遺伝子座モデルが必要になる.
このころの業績としてはミショーとの共著で血縁度の様々な定義を整理したもの(1980),アクセルロッドと共著の繰り返し囚人ジレンマの進化ゲームに関する論文(1981),また有性生殖の問題に関連して性淘汰にかかるハミルトン=ズック仮説(1982)の提唱(この部分のセーゲルストローレの解説は有性生殖の問題と性淘汰の問題を明解に分離していなくてわかりにくい.)などがある.


ハミルトンの業績はついに英国においても誰も異存のないものとなり,サウスウッドはオックスフォードに魅力的なポストを用意してハミルトンを英国に呼び戻そうとする.女子学生の推薦状騒ぎ*10に端を発してアメリカの「政治的正しさ」感受性に嫌気がさしていたハミルトンはそれを受け入れ1984年にオックスフォードに移る.
ここでハミルトンは有性生殖の問題についての多遺伝子座モデルの構築に専念する.そしてアクセルロッドの手を借りて遺伝的アルゴリズムを利用したエージェントベースのシミュレーションモデルを組み立てる.これはホストとパラサイトの遺伝子動態と個体群動態を同時に見るもので,非平衡のダイナミクスを観察することができる.そして様々な試行錯誤のすえソフト淘汰*11を入れ込むことによりついに性の2倍のコストを乗り越えることに成功し,苦心の末論文を完成させる.ハミルトンはこの論文について生物学の大きな未解決問題を解決した画期的な論文と自信を持っていたがNatureには掲載を拒否される.セーゲルストローレはこの論文はあまりに多くを詰め込みすぎて野心的になり過ぎていたこと,当時の査読者がエージェントベースのシミュレーションモデルによる検証という方法論について懐疑的だったことが原因だったのだろうと推測している.ハミルトンはこの後また「ベイツモード」になりブラジルでいくつかの企画をスタートさせる.


90年代にハミルトンは数々の賞(特に大きいのはクラフォード賞と京都賞)に輝き,完全に世界に認められる.90年代の業績としてはバクテリアの分散戦略による雲の形成,対食植者へのシグナルとしての紅葉の説明などがある.また自撰論文集「Narrow Roads of Gene Land」の企画にも没頭する.この頃企画された敬愛するフィッシャーの「自然淘汰の遺伝学的理論」の完全版の裏表紙の推薦文を頼まれたことも大変嬉しかったようだ.
本書の最終部分では,セーゲルストローレはいくつかのエピソードを交え,ハミルトンの性格,研究スタイルの特徴,晩年の思想を紹介している.その中にはアスペルガーの傾向があったのではないかという指摘や,進化理論から見て人類のために不都合な真実があってもそれを社会に伝えるべきだという信念の説明がある.後者についてはNarrow Roadsの第2巻のエッセイにおいても顕著な特徴になっていて,特に「現代の医療制度は数世代のうちに人類のゲノムを大幅に劣化させる結果を招く」と警鐘を鳴らしているが,セーゲルストローレはさらに踏み込み,この背景にはこのような制度はいずれ人類の健康をより管理する体制に結びつき,全体主義的,超個体的になっていくのではないかという懸念があったのだと指摘している*12
そしてハミルトンがOPV(AIDSの原因はポリオワクチンの作成の際の製薬会社のやり方にあったのではないかという仮説)に深く関わったのは,当時ウィルスの異種感染の問題が軽視されていた中でこの調査を行うのはOPVの正否にかかわらず重要であるのに,資金源の製薬会社に配慮して無視することが許せなかったからだと説明されている.結局ハミルトンは特に「OPVが正しいはずだ」とコミットしていたわけではなかったが自ら証拠を集めにアフリカに飛び,そこでマラリアに感染し,英国に帰国後病院で意識を失いそのまま世を去ることになる.一般的にはこのマラリアで死亡したとされているが,本書ではハミルトンの死は直接的にはマラリアによるものではなく,先天的な十二指腸憩室からの突発的な出血を原因とした多臓器不全であると指摘している.葬式とメモリアルに簡単に触れたあと,セーゲルストローレはハミルトンと詩というテーマを扱っている.ハミルトンは芸術にも関心がありハウスマンやワーズワースの詩も好きだったようだ.しかし彼の最期にふさわしい詩は松尾芭蕉の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」*13ではないかという.確かになおやり残したことの多いハミルトンにはふさわしい句かもしれない.論文集「Narrow Roads of Gene Land」の題はまさに「奥の細道」に由来するのだ.


セーゲルストローレは最終章で包括適応度理論の現在を解説している.そして執拗なグループ淘汰主義者による攻撃はあるものの基本的には彼の主張は受け入れられ認められているとし,2010年のNowakたちの論文にかかる顛末も紹介している.セーゲルストローレはこれは議論を活性化させるためのNatureの周到な計画だったのだろうかと皮肉を交えて問いかけ,もしそうなら大成功であったと書いている.この論争で膨大な思索や資料が世に現れることになり,もしハミルトンが生きていたなら喜んだだろうとコメントしている.そして彼等の論文に対する100人を超える進化学者からの反論ペーパー*14こそハミルトンに与えられた最大の栄誉ということになるだろうとして本書を終えている.


本書はこれまでNarrow Roadsでしか読むことのできなかったハミルトンの生涯をより広く深く客観的に記述するもので,かつその業績の意味も丁寧に解説してくれている.セーゲルストローレの進化学説にかかる解説は特に大きな破綻なく手堅いもので,科学者の伝記としては非常に質の高いものに仕上がっている.私にとってはまさにインテレクチュアルヒーローの軌跡をたどることができ,またNarrow Roadsの補完としても得がたい読書経験となった.そして改めて彼の早すぎる死を惜しむ気持ちを強くしたところだ.



関連書籍


まずはこのハミルトンの自撰論文集全3巻(第3巻は厳密に言えば他撰だが).私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060429
いま見て気づいたがこの第3巻はKindle化されている.すばらしい.(但し価格は67ドル,あるいは6400円あまり.なかなかだ)

Narrow Roads of Gene Land: Evolution of Sex (Evolution of Sex, 2)

Narrow Roads of Gene Land: Evolution of Sex (Evolution of Sex, 2)

  • 作者:Hamilton, W. D.
  • 発売日: 2002/01/17
  • メディア: ペーパーバック



こちらはプライスの伝記.ハミルトンとの関わりも記されている.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20101028



同邦訳



セーゲルストローレによる社会生物学論争史.綿密に論争を追っている.もちろんハミルトンも随所に顔を出しているがやはり主役はEOウィルソンとドーキンス,そしてグールドとレウォンティンということになるだろう.


同原書



そのほかのセーゲルストローレの本.いずれも未読

Nonverbal Communication: Where Nature Meets Culture

Nonverbal Communication: Where Nature Meets Culture

  • 発売日: 1997/02/12
  • メディア: ハードカバー


ハミルトンが少年時代に読んだというチョウの本は復刻されているようだ.これもKindle化されている.

Butterflies (Collins New Naturalist Library)

Butterflies (Collins New Naturalist Library)

  • 作者:Ford, E. B.
  • 発売日: 2008/06/02
  • メディア: ハードカバー



フィッシャーの「自然淘汰の遺伝学的理論」完全版.アマゾンの「なか見!検索」でハミルトンの推薦文を読むことができる

これは私による意訳だ.

本書は,私が学生の時に,ケンブリッジ生活の残りすべてと同じ重さを持つ本だった.そして読めば読むほど自分の学問的水準の低さを教えてくれる本だった.ほとんどの章は1章を読むのに数週間を必要とし,中には数ヶ月必要なものもあった.例えばフィッシャーの「博愛」についての文章は当時読んでいたカフカの本よりも私を落ち込ませるものだったし,「文明」についての理論は私を熱狂させた.いくつかのトピックについては「恐怖」としか表現できないものであったし,今の私にとってもそうだ.それは私のそれまでの考えを深く変えるものだった.フィッシャーのアイデアと理論は,その後の分子的な発見によってもほとんど修正を受けず,広がり続ける道の基礎になり続けていて,その上でダーウィニズムは人の思想への侵入を続けている.
本書は,私の考えでは,進化理論にとってダーウィンの「種の起源」(と「由来」による補完)の次に重要であり,今世紀最高の本の1つである.そしてこの完全版の出版は意義ある出来事だ.フィッシャー後期の1958年のドーバー版による改変はむしろ理解に混乱をもたらしているところがあり,この完全版によっていくつかの謎は解決されるだろう.
1958年と異なり,今では自然淘汰は私達の知性的人生の一部となり,すべての生物学のコースに含まれるトピックになっている.とはいえ,私が人生を卒業するときまでに,私は本書に含まれる真実をすべて理解できるだろうか,そして優をもらえるだろうか? たぶんできないだろう.確かに私達のうちの幾人かはいくつかの点でフィッシャーを超えた,しかしながら多くの点でこの明晰で大胆な男は,なお私達のはるか先にいるのだ.

W. D. Hamilton

 

*1:利他行為の進化理論についてはホールデンとフィッシャーにその萌芽を見つけたが,ホールデンのものはだめで,フィッシャーの議論が面白いというのが当時のハミルトンの結論だったようだ.フィッシャーの議論は警告色の進化に関するものだと説明されている

*2:ハミルトンはNatureに掲載されることを望んだが,どうやらそれは社会科学的な内容だと誤解され,門前払いを食ってしまう.最終的に1964年にJTB(Journal of Theoretical Biology)に載るまでに,かなりややこしいいろいろな経緯がある.

*3:ライトの近交係数は相関係数になっている.後にプライス方程式を知った後,厳密に定式化した際にこの血縁度は回帰係数として再定義されることになる

*4:セーゲルストローレは,「ハミルトン自身はその後もアリ・ハチの真社会性への進化について考察を続けるが,『基本的には多要因が絡んでいるが,半倍数性も一つの要因だ』というスタンスをずっと保っていた.ハミルトンの包括適応度理論と3/4仮説を緊密に結びつけたのはE. O. ウィルソンなどの他の学者だった」と書いている.

*5:なおグラフェン自身はこれについて「グラフェンの秤」という分かり易い解説をしたことでも知られる

*6:この手紙は全文が引用されている,いずれも非常に率直に自分の心情となぜそう考えるのかを説明しており,迫力がある

*7:ハミルトンはある学会に招待され,「もしメイナード=スミスが来るなら辞退したい」と回答したこともあったようだ

*8:筋金入りの左派であったホールデンにとっては「浮動」はダーウィン流の適者生存に対する代替仮説だったようだとも推測している

*9:ウォッシュバーンに1975年論文の批判を受けること,「利己的遺伝子」へのレウォンティンの辛辣な書評に対してドーキンスを擁護することなどぐらいだ

*10:ある女子学生の推薦状に「女性にしては数学ができる」と書いたことが第三者に告発されて大騒ぎになる.ハミルトンは何が問題なのか全く理解できなかったようだ.セーゲルストローレは当の(当時の)女子学生に直接インタビューしている.彼女曰く「私が告発したわけではない.私は彼の女性と数学能力の認識に賛成していたわけではないが,彼に苦情を申し立てたことはない.ただこれは騒ぎを引き起こし私より彼に注目を集めることになるから職を得るには逆効果だとは言ったと思う.私には仕事が必要だったのだ」

*11:特に適応度の低いもののみ淘汰される形の淘汰

*12:なおここでカトリック主催のバチカン会議においてこのようなプレゼンをしようとして慇懃に目立たない時間に移されるなどの扱いをうけた経緯がNarrow Roadsにコミカルに書かれているが,セーゲルストローレは実はその前にカヴァリ=スフォルツァが同様なプレゼンを行って爆弾を落としたあとにハミルトンの講演が行われ,それなりのインパクトを与えていたと解説している

*13:ハミルトンが鑑賞したであろう訳された英語の詩としてはこうなる「On a journey, ill, / But over withered fields of Autumn, / Dreams go wandering still.」ちゃんと脚韻になっているのが渋い.

*14:http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20110430参照