日本進化学会2013 TSUKUBA 参加日誌  その1

shorebird2013-09-17


本年の日本進化学会は筑波大学で8月28日から31日まで開かれた.都心からつくば駅までは1時間だが,会場まではそこからバスで乗り換え時間含めて20分程度はかかりそうだ.私は首都圏の西の方に住んでいるので片道2時間半はかかる.酷暑の時期なのでええいと宿を取って学会を堪能することにした.
千代田線北千住でつくばエクスプレスに乗り換えるとつくば駅までは40分足らずで到着する.つくばは新しく作られた大学街のセンターらしく緑の多い平たい地形の中,ショッピングモールやホテルのビルが点在する景色が広がり,なぜかロケットが見え,さらに遠くには筑波山が見える.バス*1に乗り換えると,すぐに大学構内の道に入る.緑のキャンパスの中を進んでいくのはちょっと楽しい.



大会初日  8月28日


初日の午前中はシンポジウムが3つとワークショップが2つ.「分子進化の方法論」は最先端のハードそうなもの,「昆虫の形態多様性」や「ウズベン葉緑体の進化」も面白そうだったが,長谷川眞理子先生が登場する「高校生物の進化分野はどこが変わったか」に参加することにした.


高校生物の進化分野はどこが変わったか? ―新しい教科書 『生物』 を比較する―


はじめに 嶋田正和


企画趣旨の説明.

  • 今年全面実施になった新学習指導要領で,高校「生物」が大きく改訂された.
  • 「基礎生物」「生物」ともに進化視点からの内容が盛り込まれ,「歯止め」規定がなくなり発展的な内容も盛り込めるようになった.(「基礎生物」は高校生の過半が学ぶ科目.「生物」は選択制で一部が履修することになることが予定されているようだ.後者は理系の大学受験の選択科目という位置づけになるのだろう)
  • これまで高校「生物」はまず「細胞」から始まっていたが,「基礎生物」は「生物の共通性と多様性」から始まるようになり,「生物」は大項目として「進化史,進化の仕組み,分子時計,分子系統樹」などが扱われる.
  • 今回はより深い内容の「生物」の教科書について,実際に教科書が具体的にどのようなものになったのか,アピールポイント,反省点を各教科書の執筆者を招いて発表してもらう.


東京書籍 : 系統と分類 : 伊藤元己

  • まず東京書籍の教科書は大きな判型で最新の知見を盛り込み,特に「生物」においては大学教育への基盤となるべき内容を盛り込んだ.
  • 系統については3ドメイン説の分子系統樹を載せ,説明については5界説的な内容も取り入れている.
  • 今回の学習指導要領から「分類」がなくなり,分類学者としては大変つらかった.しかし分類の基礎を説明しないと「生物」のそのほかの内容の理解が困難になるので,コラムなど発展的な内容として説明した.ところが蓋を開けてみると他社の教科書は堂々と本文で分類の説明をしていて大変困惑している.
  • 工夫の1つとしてヒトにいたる系統の分岐を並べて書いた図も載せた.


進化の仕組み : 長谷川眞理子

  • これまでの教科書は進化学説についてラマルクとダーウィンを並列に扱い,ド・フリースなんかも扱い,常々許しがたく思っていた.今回はそのような古くさい内容を一新し,進化の考えの変遷をカットし,ダーウィンのみに絞った.
  • 巷では「携帯電話の進化」とか「イチローの進化」とかいわれているのが常々いやだった.今回はまず「進化とは何か」を解説し,変態や進歩と異なる概念であることを明確にした.
  • 小進化と大進化について違いを説明し,どちらも進化であると説明した.
  • 変異,その遺伝,遺伝子プールの中の頻度増減とハーディワインベルグ則の関係を解説した.
  • 自然淘汰*2,適応の例としては,これまではフィンチの嘴とか蛾の工業暗化がよく用いられていたが,特殊な環境下で特殊な適応が生じることを強調した方がよいと考え,自分の好みで「ヨツメウオの眼」を取り上げた.
  • 指導要領にはなかったが共進化は是非入れたいと思い,ツバキゾウムシとツバキの共進化を紹介した.
  • 制約がないわけではなかったが,かなり自由に書けて,量は多いが流れのよい記述ができた.
  • 心残りとしては,進化の豊かな概念をもっと書き込みたかったが量的に断念したこと,なお直線的な進化像に見えるような図を一掃できなかったことだ.


第一学習社:進化の仕組み:中井咲織


第一学習社の教科書の特徴は現役の高校教師が執筆し,大学教員が監修するという体制であること.だから執筆者の構想は監修と検定の二重のチェックを受けることになる
<アピール点>

  • 要領では進化史を説明してから進化の仕組みに進むことになっているが,この教科書ではまず進化の仕組みを解説してから進化史を説明するようにした.その方が体系的に理解できると思う.
  • ハーディワインベルグ則には前提があり,それが成り立たないから進化が起こることを強調して誤解が生じないように工夫した.

<反省点>

  • 当初の原稿では枝分かれしてヤブのようになった系統樹を掲載したが,監修の後は何と「ウマの定向進化の図」に差し替えられていて本当にがっかりした.
  • 進化とは何か(変態や進歩との違い)を解説したかったがカットされた.
  • 自然淘汰の説明図は,わかりやすい生物のイラストの掲載をお願いしたが,結局抽象的な図形の図になってしまった.
  • 地理的変異の説明が純系説に基づいたものになった
  • 生殖隔離の扱いが大きく,変異や淘汰と並ぶ進化の要因とされてしまった.


これはまた執筆者の水準に監修者が追いついていない悲劇というか何というか.とりわけヤブ状の系統樹をウマの定向進化図に差し替えるとは監修者の見識(というか勉強不足)を疑わせるに十分だ.


系統と分類:中島光博

  • 分類と系統は以前に比べて2/3に圧縮している.
  • 基本的な記述は5界説的で,3ドメインも載せるという扱い.
  • 脱皮動物と冠輪動物の区分けを採用した.8つのスーパーグループについては記載を見送った.
  • 初期進化における水平伝達を図上に示したのが工夫の1つ.
  • 分類の解説は避けられないという考えで,8ページにわたって詳説した.


数研出版:嶋田正和


数研出版は系統分類と進化の仕組みを同一著者が執筆.しかし嶋田のコメントは「どうも私が書いた覚えのない記述がたくさんある」という謎めいたもので,教科書執筆の難しさを醸し出すものだった.
<系統と分類>

  • 生命の起源については,学説史から研究現状を重視したものに大きく変えた.
  • 具体的にはミラーをはじめとするこれまでの記述は削除,格下げし,地球外からの有機物供給,細胞境界,RNAワールド,微化石の出現を解説した.
  • その他進化史としては,全地球凍結,陸上進出,人類の進化あたりに注力した.
  • 系統は5界説を中心に説明.この方が初心者には理解しやすいと思う.
  • 形態からの系統と分子からの系統の食い違いについて脱皮動物と冠輪動物を例に(環形動物の体節は節足動物の体節と収斂ということになる)と説明した.

<進化の仕組み>

  • 要因としては突然変異,自然淘汰,浮動をまず取り上げ,次に種分化,そして分子進化という順序で解説した.これにより中立進化説,分子進化,分子時計がすべて偶然の浮動にかかるものだけでなく安定化淘汰を受けているものにも適用できるものであることを明確化した.
  • 進化の証拠,進化の諸説は削除した.
  • 分子進化のところはきちんと書けた.

(ここからは忸怩たるところ)

  • 適応の例としては東京書籍のように新しい例を入れなかった.変えた方がよかったかもしれない.
  • 浮動の説明例に優性遺伝子を使っているが,これにより「優性遺伝子は有利なもの」という誤解と合わさった場合に浮動自体の誤解を招きやすくするものとなってしまった.
  • ハーディワインベルグ則を扱っているが,これは本来法則でも何でもなく単なる二項展開で,「平衡」とすべきものだった.しかも数式など入れるから余計敬遠される.
  • 生態隔離について仮想的な島の例をあげていて残念.きちんと実例を出すべきだった.
  • 同所的種分化の例として繁殖期がずれているコオロギの例を出しているが,これは地理分布が別れていて適切な例とはいいがたい.
  • 分子時計の説明図に分岐図を使っているが不適切.分子距離と年代が正比例する図を載せるべきだ.


啓林館:本川達雄


大阪の出版社であり,ださいが保守的でしっかり書いてあるのが特徴とアピール.

  • 現場からの要望に応えて要領にはないがメンデルと浸透圧はしっかり記述した.
  • 3ドメインも扱っているが5界説的に説明した.

ここから検定についてのぼやきと批判になって大変面白かった.

  • 要領には「共通性」とあるので様々な共通性を書いたら,検定意見を付された.祖先の共通性以外は書くなということらしいが,それはおかしいだろう.収斂を書いてなぜいけないのか.
  • 究極因について記述すると検定意見が付く.どうもメカニズムの記述はいいが「目的」はだめということらしい.しかし「なぜ」こそ子供が最も疑問を持つところではないのか.
  • 結局それを突き詰めると「理科の教科書に社会のようなことを書くな」
  • ひとつは「価値や目的はだめ」ということらしい.しかしダーウィンの進化理論は「価値や目的」のようなものが自然に生じることが説明できるというところにこそ価値があるのではないのか.検定姿勢はあまりにもメカニズム重視だ.
  • もうひとつは「歴史」.これも詳しく書くと「暗記物ではない」と検定意見が付く.でも進化はある意味で偶然の積み重ねなのだ.ある程度は憶えないとどうしようもないはずだ.

途中ではかつて国会で小宮山洋子(当時野党)議員が理科の教科書の細かな検定意見の資料を示して文科大臣を問い詰めた経緯などに触れて大変面白かった.この後長谷川眞理子からこの背景説明がありさらに面白かった.


長谷川からの補足コメント

  • 平成18年に朝日新聞が情報公開法に基づいて教科書検定の資料公開を請求し,どのような検定意見が付されたのかの資料が出てきた.実はこのとき自分の書いた教科書も検定を落ちていて,その資料を読み,余りにひどいと憤っていたら,ちょうど参加していたシンクタンクの勉強会で話さないかということで実状を説明した.そこに小宮山議員も出席していて「これはひどい」ということになり,国会質問となった.このときは大臣は実情を知らずに答弁がしろどもどろになったようだ.
  • 今回の教科書検定はこのときに比べて(片方で歯止め規定撤廃ということもあり)非常に優しかった.何らかの効果があったのかもしれない.

会場からの質疑応答での主なやりとりでは,浮動と中立の関係について,ドメインというのは何とかいい訳語にならないか*3,数学の確率の進み方との比較*4,学説史を削除することについて*5,わかっていないことも書いた方がいいのでは*6,大学入試問題について*7などが議論された.


理科の検定というのは社会の検定と違って社会の関心が薄いので目立たないが,かなりえげつない世界だということがよくわかった.それにしても21世紀になってもまだド・フリースに工業暗化が語られていたというのだから進化についてはずいぶんとひどい扱いだったものだ.
本川のいう自然淘汰こそが世界に目的と価値(のようなもの)を与えることを説明したというのはまさにデネットのいう万能酸の話でその通りなのだが,文科省の検定官には全く理解の外の話なのだろう.悲しいことだ.
長谷川が手を入れた東京書籍の教科書は是非現物を読んでみたいものだ.ちょっと調べると教科書を入手するのは結構ややこしいみたいだが,不可能ではないようなのでチャレンジしてみよう.


ここまでで午前の部は終了.



 

*1:関鉄バスはSuica, Pasmoに非対応で,これだけは大変に不便で残念だった

*2:教科書用語としては「自然選択」に統一されたようだ.これについては解説はなかった.いかにも残念だが,教科書としては「淘汰」という熟語は使いにくいのだろう

*3:超界という試訳もあるようだ,中国では域と訳すらしい.いずれもなかなか落ち着かないということのようだ

*4:確率自体は習うが,分子進化に関係ある確率密度は習わない

*5:対立仮説となぜダーウィン説が正しいかというあたりを教えた方がいいのではないかという意見,しかしそれ以外のところでの学説の扱いと比べて余りに進化だけ曖昧な並列があるのがおかしかったということだし,いずれにせよ量の制限があるので,何かを削らざるを得ないときにどうするかという問題だとのコメント

*6:結局これも量の問題.

*7:私立大学などで出題者が限られているところにある程度おかしな問題がでるのはしょうがないという割り切りも必要というコメントが渋かった