「Evilicious」

EVILICIOUS: Cruelty = Desire + Denial (English Edition)

EVILICIOUS: Cruelty = Desire + Denial (English Edition)


本書は前著「Moral Minds」でヒトの道徳文法を扱ったハウザーによる「ヒトの邪悪さ,その中でもジェノサイドなどの残虐行為についての発達的,進化的な解説」を試みた本だ.ハウザーはハーバードにおいてデータ捏造を学生から告発されて退職を余儀なくされ,(いろいろ言い分もあるようだが)苦労しているらしい.本書も大手出版社からの出版ではなくAmazon個人出版という形を取っている.
序文には自らの見てきた残虐行為,そして父親の体験が記されている.ハウザー自身はウガンダでのジェノサイドを目の当たりにしたことがあるそうだ.またハウザーの父はナチスドイツ占領下のフランスに住むユダヤ人の少年で,ナチのジェノサイドと隣り合わせの生活を送り,ある日収容所送りの危機を見知らぬ少女に救われる.少女はヒトの特徴の一つでもある他人への深い同情,思いやりの心から危険を教えてくれたのだ.これらの経験とヒトの本性を研究してきたことが本書を書く動機になったと語っている.なお書名の「Evilicious」は通常の辞書には載っていない単語だ.オンラインの俗語辞書にはあるようだが,あるいはハウザーによる造語でもあるのかもしれない.「最凶に邪悪な,残虐非道な」というぐらいの意味だろうか.


プロローグでは本書の結論が先に提示されている.私たちはほかの動物と異なって,直接の利益がなさそうなときにも楽しみのための同種個体に残虐に振る舞うことがある.歴史には恐ろしい残虐行為が数多く記録されている.これはなぜなのかが本書のテーマになる.ハウザーの説明の要旨は以下の通りだ.

発達的にはそれは一種の中毒と同じだ.私たちは適応的なことを好み,欲しがるように学習づけるための報酬回路を持つ.しかし中毒症状の場合には,欲しがることと好むことが乖離する.そしてその異常に蓄積された満たされない欲望が権力志向だった場合,それを正当化するための自己欺瞞,正当化が生じ,残虐行為の道徳的痛みを感じなくするために被害者を人ではなく害獣や害虫のように扱えるようになる.これが本書の副題「cruelty=desire+denial」の意味だ.

進化的にはそれは他の適応的な性質のための副産物として生じた.適応的性質とは自由に様々なモジュールを組み合わせて多様な目的に使用できる流動的知性であり,ヒトはそれを使って邪悪になることができるようになった.それは副産物として起源したが,その後権力者のためのコストのかかる地位ディスプレーとして機能するようになった.

これらの説明が正しいとするなら,我々は皆残虐になれる可能性を持つことになる.何らかの目標を強く欲望し,そのためにモラル的に自己欺瞞になるということは誰にでも起こり得るのだ.残虐行為は異常者だけが行えることではないのだ.本書ではさらに何がトリガーになるのかが探索される.


第1章では,導入として自殺攻撃を行うテロリストがまず取り上げられ,彼らは通常教育程度の高い狂信的ではない人々であり,聖なる価値を評価するあまり,他人を傷つける深い欲望を持つようになったものだと解説される.
このような欲望はどのように形成されるのか.ここで深い喜びを人為的に感じられるようにするスイッチが与えられると動物もヒト*1もそれに中毒になることが説明される.では中毒は具体的にどのようにして生じるのか.まず脳は好むことと欲しがることを別の回路で処理している.どのような感覚を好むかという傾向は生得的に決まっており,これが何を経験学習するかを決めていく.そしてそれらの経験は報酬を与え,報酬の期待を形成する.期待と経験に差があるときには,ドーパミンが放出されてより報酬を求める欲望を形成し,同時に自制心も失わせる.つまり何らかの原因で報酬が得られるはずの行動を行ったのにそれに見合う報酬というフィードバックが得られないと,それは満たされない強い欲望となり制御できなくなるのだ.これで薬物中毒や肥満を説明できる.
ここでこの好みが社会的他者との差によって形成される場合にどうなるかが考察される.例えば地位や贅沢品への嗜好だ.これは性淘汰の文脈で生じるだろう.そのような場合には他者の情報にプレミアムがつき*2,他人との差を小さくする方向へ欲望が生じ,自分の評価を持ち上げるようとするか他人の評価をおろそうとする*3.これは嫉妬*4や復讐の感情の起点となる.そしてヒトは復讐する前は復讐によって満たされると期待しているが,実際にはそうならない.これは中毒症状へ向かいやすい危険な状況だ.
ここでハウザーはこのような他者との相対感が問題になる欲望のもう一つの形としてシャーデンフロイデについて説明する.これは「妬んでいた人に不幸が訪れたときのうれしい感情」という意味で,ドイツ語にはこれを表す特定の単語があることで有名だ.ハウザーによると,このシャーデンフロイデは正義が満たされたときにかかる満足につながり,モラル向上や二次罰の問題を解決する反面,非人間化した人への加害にもつながるということになる.そしてメカニズムの底には自分と他者の相対的評価が関わる.だからよりナルシシスティックな人やより自信過剰な人は攻撃に走りやすい.またこれにより得られる満足を期待して,得られなかったときにもより邪悪につながりやすい.これはイデオロギー,宗教,政治的意見*5が絡むと生じやすい.また正義との結びつきには性差がある.男性はルール違反者に対してよりシャーデンフロイデを抱きやすいそうだ.
復讐や嫉妬については様々なところで語られているが,シャーデンフロイデを重要な一つの感情として扱っているのは珍しいように思う.本書の特徴の一つというところだろう.


ここまでは欲望の説明になる.次に具体的にどういう条件のもとでこれらの他者との比較に関する欲望のコントロールがはずれるかをみていく.
ハウザーはファンタジーから話を始める.多くの人が復讐のファンタジーを空想する.しかしどのような場合にそれが実行に移されるのだろうか.これまでカタルシス理論では,空想により欲望が発散されると考えてきた.しかしリサーチによるとそうではない.多くの人が自ら暴力を振るうことを空想するが,大半の人は実行しない.しかし男性のナルシシスト,イデオローグは実際に実行に移しやすく,そしてよりファンタジーに浸るほどより暴力を実行しやすい.そしてハウザーはこれらの典型例を挙げていく.それは殺人を繰り返すシリアルキラー,相手を痛めつける異常性愛者,幼少時に洗脳を受けたテロリスト,常習性のDV男などだ.彼らは暴力を欲し,しかしその欲望は満たされずに中毒状態になることが共通している.そして相手の非人間化,自己欺瞞イデオロギー的正当化が絡むとモラル的抑制がはずれて悪化しやすいのだ.


第2章は「否定による破壊」と題し,この非人間化,自己欺瞞,正当化にかかる至近的なメカニズムを扱う.冒頭で米軍によるイラクの捕虜の虐待に触れた後で,このような残虐行為には非人間化と自己欺瞞が絡んでいると指摘する.これらはモラル的抑制をはずすのに効果があるのだ.
ではそもそも相手を人間として扱うというのはどういうことだろうか.ハウザーは,いくつかのリサーチを紹介しながら,私たちは苦しみを感じる「経験」を持つものを「モラルの対象」として,これとは別に善悪の判断と自己コントロールができる「エージェンシー」を「モラルの主体」として「人間」と考えるのだと説明する.このあたりの実験の詳細はなかなか読みどころだ.*6
そしてこの判断には絶対的基準があるわけではなく,相対比較ができるものだ.私たちは自分と同じインナーグループにいるものをよりよいモラルの対象であり主体だと認知する傾向がある.そしてより自分から遠いメンバーに対しては,モラル基準は絶対的神聖なものから相対的なトレードオフ可能なものに変わっていく.そしてモラルの歪曲と否定が始まるのだ.
これら相対的判断基準は自分が何かに属することへの感覚から生じる.これらはどのように発達するのか.実験によると,赤ちゃんの頃から同じ言語を話す人から,よりおもちゃをもらおうとする.そして5歳ぐらいから人種についても属する感覚が現れる.これは進化的な考察とも整合的だ.人種は出アフリカ以降の現象であり,それまでは敵対グループかそうでないかは言語による判断であったはずだからだ.
大人になっても自分が知る人間に対しより同情的になり,知らない人間によりシャーデンフロイデを感じる.これらはアクセントを使った「言説が正しいかどうかの判断実験」や,スポーツファンの脳の活動部位をみる実験によって裏付けられている.
また私たちは自分とつながっているネットワークを持っている.近い人々は自分により似ていて遠くになるとより似ていない.そして遠くにいる人たちについては人間としての要素を感じにくくなる.これが非人間化に至る道で,最終的にはあたかも害獣のようにヒトを扱えるようになる.例としては奴隷制度の肯定が挙げられている.
これはヒューマンユニバーサルであり,そして単なるエラーではなく,意識的無意識的に関わらず「モラルの制約をはずす」という意味で機能的かつ戦略的だ.
ここでハウザーはアフリカ系の人々に対する非人間化のリサーチを紹介している.潜在プライミングの手法を用いると,おそらく無意識のレベルでアフリカ系も含む学生がアフリカ系と類人猿を結びつけていて,それがモラルの判断に影響を与えていることも示されているのだ.また脳活性部位を利用したリサーチでもこれを実証しているものがある.ハウザーは,このようなアウトグループに対する認知はヒトの本性の一部であり,私たちは皆,偏見と非人間化で武装された「隠されたレイシスト」なのだと指摘している.

そしてこの非人間化はモラルからの解脱を可能にする.ハウザーは前著「Moral Minds」を引きながら,モラルが感情と文法原則により生じるある程度自動化された行動制限過程であることを説明する.この行動制限が欲望とコンフリクトすると認知的不協和が生じ,何とか行動制限から自由になろうとする.そして対象を非人間化することによりこの行動制限を無効にできるのだ.
さらにリサーチでわかっているのは,先にインモラルな行動があったときにも自己の正当化のためにモラルからの解脱が生じるということだ.これらは私たちのモラルが可塑的で欲望に押されたときには弱いものであることを示している.

さらに自己欺瞞があるとモラルからの解脱は容易になる.トリヴァースの著書を紹介した後,自己欺瞞は,進化過程では,自信を持ち,状況が不確定なときにも行動を起こせ,他人を操作するために適応的であったが,ひどい副作用もあるのだと指摘する.リサーチによると自己欺瞞は権力と相関し,テストステロンの放出と自信過剰を生み出す.このような自己欺瞞においては,「リスクが低くゲインが大きい」と欺くだけでなく,「自分の行動は正しい」という欺きも生じる.つまりモラルからの解脱が容易になるのだ.ハウザーはここでカトリック教会の聖職者による児童虐待を隠蔽しようとしてバチカンの態度を自己欺瞞の例として紹介している.

そしてハウザーは第2章のまとめとして邪悪は欲望と否定という要素によって導かれるとまとめている.


第3章からは進化的な考察になる.まず最初にヒトはとてつもなく残酷なことができ*7,かつ多くの場合抑制が働いていることが示される.そしてなぜそうなっているかもついての謎を解くために進化史に進む.ハウザーは最初に「基本的に普通の動物では同種個体に対する攻撃に抑制が働くが,ヒトは特殊な進化史を持つために欲望と否定をコンビネーションにすることができるようになりそれが残虐行為を可能にしている」という結論を提示してから説明を始めている.

最初は普通の動物の行動進化の話だ.ハウザーはこれを「他者への加害Ver 1.0」と読んでいる.
普通の動物にとっては同種個体とはリソースを巡って競争関係にあり攻撃は一つのオプションになる.しかし通常はナワバリ制,ハレム制,順位制などにより致死的な結果は回避されている.それについてハウザーは進化ゲーム理論(タカハトゲーム)と信号理論(操作とだまし,さらにハンディキップシグナル)から説明する.続いてこの至近的なメカニズム(テストステロンとコルチゾルドーパミンセロトニン)が説明されている.
ではどのようなときに殺戮が生じる加害が生じるのか,ハウザーは殺戮が生じるものを「他者への加害Ver 1.5」と呼び,捕食,子殺し,そしてチンパンジーのオス同盟による隣の群れのオスへの襲撃を挙げる.捕食や乗っ取りオスによる子殺しは,究極因としては,リスクが小さく適応度的なメリットが明らかで,至近因的には報酬回路とドーパミンが効いている.よりよい繁殖機会のための親による子殺しは至近因的にはストレスとコルチゾルが効いている.そしてチンパンジーの「戦争」も適応度的なメリットが明らかでリスクが小さく捕食に似たものだとしている.
ハウザーはここでチンパンジーの「戦争」とヒトの戦争あるいは暴力傾向の関連にかかる論争を紹介し*8,基本的に狩猟採集時代の暴力と似ていて,類似した淘汰環境を強く示唆しているが,異なる面もあるとまとめる.特にヒトの戦争は殺戮が巨大な規模になること,イデオロギー,正義が絡むことが違いとして大きいのだ.ハウザーはここでこの違いを生むのがミズンやデネットのいう「流動性知性」だと主張する.動物は競争的な局面で様々な攻撃行動を見せる.しかしそれを協力行動への裏切りに対する罰として行使するには特定問題を別の問題に応用できる「流動性知性」が必要になるというのだ.ハウザーはここに結構力を入れており,言語の役割や脳のイメージングの類人猿との比較,自閉症症例との比較などを挙げて解説している.ハウザーはさらに非人間化のメカニズムもこの流動性知性の特徴である脳のコネクションの流動性(この場合には切断)で説明できるとする*9そして罰と非人間化が組み合わさると残酷刑や拷問を可能にする.このような罰,そして復讐とシャーデンフロイデがヒト特有の「他者への加害 Ver2.0」につながる.
「他者への加害 Ver2.0」の典型例は殺戮を楽しむ連続殺人犯,洗脳を受けた少年兵士,ジェノサイドを指揮する独裁者だ.これらは同種個体の苦しみを楽しむことができ,それはヒトの進化した脳のみが可能にする.
ここでハウザーはサイコパスのリサーチを紹介しながら,まずその至近的なメカニズムを解説している*10.また進化的には,Ver1.5で到達した「流動性知性による他人への暴力の抑制がはずれた状態」のうえに,ヒトの進んだ知性により可能になった深いコストベネフィットフィット計算が加わると,「罰として有効」とか「政治的パワーの維持につながる」など有利だと考えればどのような加害も可能になると説明している.そしてハウザーは,ハンディキャップ理論を引きながら,権力者によるジェノサイドはそのような計算に基づくパワーの誇示と考えれば最もよく説明できると主張している.対立グループに圧倒的な暴力を見せつけることは,そのような力を持つことの正直なシグナルであり,相手の反抗する気力を失わせるという効果を持つのだ.


第4章はこのような残虐性にかかる個人差について.
最初は残虐行為をする人たちは通常の人と全く異質なのかという問題を扱う.ハウザーは「通常」とは何かという問題を深く議論し,同性愛,自閉症サイコパスの個人差の例を具体的に挙げながらこのような個人差は連続しておりスペクトラムとしてとらえるべきだと指摘する.アメリカ刑法では,個人の「通常性」にかかる被告のディフェンスとしては,insaneのほかにcrimes of passionがある*11.後者はプラン,自己コントロールにかかる深い議論が必要になる.つまり残虐傾向の個人差を扱うにあたっては「通常性」に対する偏見の問題に注意が必要だということだ.
ここから本題に入って残虐性の個人差を考察する.ハウザーは,ロンブローゾによる生物学的決定論,その揺り戻しとしてのブランクスレート環境決定論の両方の誤りに触れてから,遺伝と環境が相互作用し,それぞれ残虐性の個人差に効いていることを丁寧に説明している*12*13 要するに残虐傾向には個人差があり,それは遺伝的要因と環境要因の相互作用で決まるというある意味では当たり前の指摘ということになる.
ちょっとおもしろいのは,自分のいじめられ経験を回想してから,ジニの少年期のいじめのリサーチについて紹介しているところで,いじめっ子はモラル判断ができ,相手の痛みや気持ちも理解できるが,それをかまわない(They don't care)のだという部分を強調している.巷ではここは「共感の有無が重要だ」とされているが,単に共感するだけではなく,相手の痛みをかまうかどうかが重要だということで,特に指摘しておきたかったということだろう.
本章の最後には,どうすればいいかという応用問題にも少し踏みこんでいる.相互作用といっても遺伝的な影響がきわめて大きいことは確かだ.ではきわめて危険なパーソナリティを持つ子供についてどう扱えばいいのだろうか.ハウザーは決定的ではない以上,介入はリスキーだが,非介入も無責任に感じられるとコメントし,一部のパーソナリティは罰に感受性がないことを指摘して,単に後付けで罰していくだけではなくよりよい介入方策を探るべきではないかと示唆している.このあたりは価値観が分かれるところだろう.


エピローグではまず議論をおさらいしている.私たちはチンパンジーとの共通祖先から分かれて,モラルを持ち弱者を助けることができると同時に残虐行為もできる生物に進化した.残虐行為を行う能力は,流動性知性の持つ「創造性」が可能にしたものであり,具体的には,満たされない欲望による中毒と自己欺瞞による現実の否定により生じる.では私たちはどうすべきなのか,ハウザーはエピローグでも少し価値判断に踏み込んで叙述している.
まずこれまで人間社会では責任能力について年齢で区切って処理している.しかし最新のテクノロジーではある程度脳機能からも責任能力を推定できるし,遺伝や環境との相関も知られている.とはいえこれらはあくまで確率的にものにすぎないとして,ハウザーは「予防的な隔離には反対する」という伝統的なリベラルの立場を堅守している.片方でグローバライゼーションは,効果的な法執行のできない世界の最貧地域に新しい残虐行為の種を植え付けており,私たちはこの問題に取り組み続けなければならないとハウザーは指摘する.そして残虐行為がヒトの本性に根ざした性質と関連している以上簡単になくしてしまうことは難しいこと,どのような解決策も残虐行為の生物学的基礎,環境要因との相互作用を理解した上で探っていくべきであるとして本書を終えている.


本書はハウザーがかなり前から公刊を予定・公表していたもので,おそらく前著「Moral Minds」を書いているときに,通常の道徳文法から逸脱している現象についてもう一冊本を書いて説明しなくてはならないと思ったということだろう.本書の説明で特徴的なのは流動性知性の存在をこの逸脱のキーとして扱っていることで,これにより「罰」「イデオロギー,正義に絡む非人間化」「ハンディキャップシグナルとしての残虐性」などが可能になり,欲望と報酬に絡む中毒としての残虐行為が完成するとしているところだ.全体の議論はそれまでに得られている様々なヒトの行動傾向をもとに組み立てられており,仮説としては説得的であるように思う.なかなか迫力のある本だ.



関連書籍


Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong

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ハウザーの前著
ヒトの道徳について,生得的な道徳文法と環境に合わせた調整からなると説明した重厚な本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070711,読書ノートはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070224から


The Folly of Fools: The Logic of Deceit and Self-Deception in Human Life

The Folly of Fools: The Logic of Deceit and Self-Deception in Human Life

トリヴァースによる自己欺瞞についてのこれまた重厚な本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120523



 

*1:痛み治療などの副作用でそうなった実例があるそうだ

*2:リーサスモンキーの実験で地位とセックスへの情報にプレミアムがつくことが示されていることが紹介されている.

*3:ここでは子供の発達過程で公平感がどう生じるかも詳説されている.当初相手との比較で利己的だった子供は自制心と評判を気にするように発達し,より平等志向になる.またこのよう志向性がヒューマンユニバーサルの上に文化的差異が乗っている状態であることも説明されている.

*4:脳科学的には,これは社会的に課された痛みと,社会的比較によって生じた感情とモラル感情の相克と解釈できることが説明されている

*5:政治的意見としては「民主党支持者は共和党が始めたイラク侵攻での死傷者が増えると喜んだ」というリサーチ結果などが紹介されている.直接相対的評価にかかるシャーデンフロイデというより党派的な有利不利への期待という気もしないではない.

*6:なお現在欧米でモラル対象として認められた最新の動物はタコだそうだ

*7:エピソードとしてシャイアン族の白人に対する復讐と日本軍の南京虐殺が引かれている.

*8:その中では,「遺伝的戦争傾向,暴力本能,攻撃にかかる淘汰があるという主張は非科学的であり,戦争は文化的な産物で『人の心の中にある』のだ」とした1986年のセビリア宣言を正しくないだけではなく,真の理解から我々を遠ざけ危険ですらあると糾弾している

*9:なおハウザーは罰自体が流動性知性の淘汰圧だとは考えていないようだ.この見方によると別の淘汰圧により流動性知性が生じ,それによる副産物として罰や非人間化が生じたということになる.

*10:より報酬追求的になるドーパミンと並んで,オキシトシンに,イングループメンバーに対する愛情を高める効果のほかにアウトグループメンバーへの罰を強化する効果があることが解説されている.

*11:なお日本刑法では激情にかられた犯罪と計画的な犯罪をカテゴリーとしては区別せず,単に情状酌量に効いてくるだけという扱いになる.とはいっても普通の人ならどうするかというのが犯罪の成立,量刑に関わってくるという意味では同じだろう

*12:MAOA遺伝子の影響(発現量が低いと自己抑制が低くなる)と両親の子育ての相互作用に関するカスピとモフィットのリサーチ,そのエスニシティによる差とマオリ族に高い理由(激しい部族間戦争で攻撃性が高い方が有利だったのではないか)仮説,罰を与えることを報酬として感じるかどうかが罰行動の個人差に効いているというリサーチ,ミルグラムやジンバルドのリサーチが「誰でも暴力的になりうる」ことを強調しすぎて個人差を無視していること,バウマイスターの自己コントロール能力が,疲労しブドウ糖で回復するという発見と,ブドウ糖代謝の個人差が暴力傾向の個人差に結びつきうることの指摘,ミシェルのマシュマロ実験(我慢すればマシュマロを倍もらえるという状況でどれくらい我慢できたかという子供期の観測値が大人になってからの犯罪傾向や成功と強く相関しているという報告),セロトニン調整にかかる遺伝子の変異がリスク回避傾向と相関しているというリサーチ,恐怖やストレスを感じる能力の欠如が犯罪傾向と相関するというリサーチなどが紹介されている.

*13:なおこのような多型が存在することについて様々な環境での有利不利があったという理由のみが挙げられているが,ここは理論的にはやや物足りないところだろう.