「Why everyone (else) is a hypocrite」

Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind

Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind


本書は進化心理学者ロバート・クツバン*1によるヒトの心のモジュール性,そしてそれによる道徳と偽善の説明の本である.ヒトの心がモジュール的であるというのは,進化心理学勃興時から強調されていたことで,コスミデスとトゥービイがこれをスイスアーミーナイフに例えていることは有名だ.多くの進化心理学のリサーチはその一つ一つのモジュールがどうなっているのかをみていくものだが,本書では「ヒトの心が多くのモジュールの集合体である」というモジュール性から何が説明できるかというところに焦点が当たっている.また本書の特徴として,そのモジュール性のありようが,通常スイスアーミーナイフのたとえから想像されるようなものよりはるかに細かな多くのモジュールがあり,その一部のモジュール群はそれぞれ「self: 自身」といっていいほど独立して動く様が強調されているところがあげられる.このあたりは読んでいてなかなか衝撃的だ.


クツバンは,ヒトの心が決して一貫しておらず多くのモジュールから成っていることを説得的に示すところから始める.あげられているのは脳梁切断手術を受けた患者,幻肢,エイリアンハンド症候群,錯視などだ.エイリアンハンド症候群は衝撃的な症例だし,錯視もモジュール的に考えれば納得しやすいだろう.
次にどうして脳はモジュール的なのかを進化的に説明する.それは「繰り返し現れる複数の特殊な行動を可能にするような情報処理をエンジニアリングするならそれぞれの問題に特殊化したモジュールを作るのが効率的であり,自然淘汰で作り上げるなら必然だ」というものだ.確かに自然淘汰で作り上げられた生物の身体はそれぞれ特殊化した臓器や運動器官の集合体になっているのだ.また認知科学で明らかにされた視覚の多くの処理が別のメカニズムになっている例も紹介されていて説得的だ.
ではそのモジュール間の連結はどうなっているだろうか.クツバンはそれも連結があった方が有利ならつながっているが,不利になるならつながらないようにデザインされているはずだという議論をしている.


モジュール間がつながっていないこともあるなら,脳はどんな特性を持つだろうか.クツバンは「単一の統一人格」というものが幻想であると主張する.そして「意識」との関係でいえば,一部の意識につながっているモジュール,そして多くの意識と切り離されているモジュールがあるはずであり,実際そうなっていると説明する.つまり言語を司っている特定の一部のモジュールがそのほかの全てを取り仕切っているわけではなく,それらを「私自身」と考える必然性はどこにもないということになるのだ.
全てを総括しているわけではないとすると「意識」モジュールの機能は何か?クツバンはそれは(大統領)報道官に過ぎないと説明する.この「報道官」という意味は,報道官は大統領の都合の悪い真実については知らない方がよいし実際に知らないという意味だ.様々な道徳を巡る調査で明らかになっているのは,人々はある行為が悪かどうかは即答する(道徳モジュールによる計算が結果のみ出力されている)が,その理由を聞かれると,その場ででっち上げる(報道官モジュールによる後付けの説明:実際にそれが理由であるはずがないことは簡単に示すことができる)ということだ.
報道官モジュールの機能は大統領(つまりそのモジュールの持ち主)の評判を高めるためであり,そのために知っていた方がよいことだけを知っているのだ.


ここでクツバンはちょっと横道にそれて,このような心のモジュール性を考えると,これまでの心理学における認知的不協和概念(心に非一貫性があること自体が何か問題だと考える)や哲学における信念の取り扱い(統一的な人格があって何かを信じていると考える,あるモジュールがあることを知っていて別のモジュールが知らないという状況を想定しない)に問題があることを指摘している.
このあたりはちょうどニュートン力学が素朴物理学と異なっているように,心のモジュール性は本質主義的な素朴心理学と異なっていて,なかなかその誤謬を取り払いにくいということなのだろう.

そしてさらに,進化心理学に敵意むき出しの哲学者ジェリー・フォダーの「認知の機能は正しい情報を得ること以外にはあり得ない」というナイーブな考察も批判している.実際に情報は知らない方がよいことがあるのだ.特に社会的な評判が関係する局面でそれはよく現れる.燃える家の中に猫がいるという情報を知っていれば,やけどのリスクか,冷たいという評判を立てられるリスクのどちらかをとらなければならない状況に追い込まれるが,知らなければどちらのリスクもとる必要がない.


次にクツバンは「自己欺瞞」という現象を心のモジュール性,意識の報道官モデルから説明する.
クツバンによると「自己欺瞞」には2種類あって,「もしある人が信じる誤りを周りの人も信じれば,その人が有利になる場合に誤信念を持つこと」と「矛盾する信念が同じ脳に同居していること」に分けられる.
まず前者すなわち「戦略的誤謬」については,自分が有利になるように広報モジュールは誤信念を持つようになっているということになる.具体的には自己の優秀性,状況をコントロールしていることについてのポジティブ幻想,一般的な楽観主義があげられている.クツバンはこれらはいずれも他人からより信頼されることにつながるからだと説明しているが,特に一般的楽観主義はコストも大きくなかなか微妙な気もする.
なおここでクツバンは,多くの心理学リサーチが,「この誤謬に本人は本当は気づいているかどうか」を調べているが,これは統一的な人格を前提にしていてナンセンスな問いだとコメントしている.またこのような戦略的な誤謬は「ありもしないかかしをぶったてて攻撃する(しかし攻撃者(の広報モジュール)はそれがありもしないかかしだとはつゆほども思っていない)」というありがちな学問的論争の背景だともコメントし,具体的にはグールドやブラーの進化心理学批判を取り上げている.クツバンは進化心理学へのいわれなき批判に対してかなりがんばって反撃する方だが,これらの攻撃は思い出しても腹にすえかねる攻撃だったということだろう.*2 
またクツバンは,ここでプラセボ効果も戦略的誤謬から説明できるのではないかという仮説を提示している.それは「『社会的に支援を受けられる』状況では,『その他の行動を抑えて治癒に専念する』プライオリティが下がる.だから痛みなどの症状が薄れてよりその他の行動をとりやすくなるのではないか.」というものだ.この考え方によると,プラセボ効果は鎮痛・鎮静効果だけで本当の治癒ではないということになるだろう.ちょっと興味深いところだ.


2番目の自己欺瞞の類型「矛盾する信念が同じ脳に同居していること」は,モジュール性からはごく自然な現象ということになる.クツバンはそもそもこの類型の自己欺瞞が説明を要する問題だと考えられたこと自体がおかしかったのだとコメントし,「自分自身を守るため」だとか「自己評価を高めるため」だとかの説明に固執した心理学を批判している.これらは進化的に機能を捉えないことや「統一的な人格」という本質主義的な幻想によるものだという趣旨だ.*3


クツバンは次に双曲割引問題もモジュール性から取り上げる.これもそもそも「『真の統一的な選好』があると考えるからパズルになる」というのがクツバンの指摘だ.それぞれのモジュールは別の選好を持ち,それらは環境・文脈依存で優先順位が入れ替わると考えればいいのだ.実際にこれまでの興味深いこの問題への考察を読むと長期的利益と短期的利益の相克だと捉える見方が多いように思われる.クツバンの議論はさらにそれを進めたもので,利益は単に2つではなくもっと数多くあってもいいし,選好対象によっても異なるだろうという.クツバンのあげる例を読むと確かにたった2つの普遍的長期利益と短期利益が相克しているだけではないと思われ,モジュール性からのこの議論は説得的だ.


最後は道徳と偽善がモジュール性から議論される.
まずあることの善悪は道徳モジュールが計算し,出力のみ広報モジュールに渡される.このあたりはハイトやハウザーなどのリサーチで明らかになったところだ.クツバンはさらに道徳モジュール自体複数あると主張する.だから時に道徳判断は同一人の判断でも矛盾するのだ.ここはなかなか面白い.
続いてクツバンは現代アメリカのモラルイッシューを次々に取り上げて解説している.中絶については保守の説明は矛盾だらけでリベラルはまともな理由すら挙げていないこと,ドラッグについては意見は一致しているが理由は矛盾だらけだという指摘はなかなか鋭い.
クツバンは「ヒトはドラッグ,売春,インセスト,宗教的冒涜について悪だと判断する傾向にあるが,少なくとも広報モジュールの説明は矛盾だらけで,(進化心理学者として反省すべきだが)その真の理由は明らかではない」とまとめている.また複数の道徳モジュールの判断が一貫性を持つようにデザインされていると考える理由はないとも指摘している.


さらにクツバンは道徳の特徴的なところは他人の行為についての非難であり,その究極的な説明を「性的放埒についての非難」という題材から考察している.結局性的放埒については他人にそれを禁止し,自分はその規範から自由であることがもっとも有利になる.(ただし,自分が掟破りをすることがばれると非難されるようになるので,ばれないようにすることが重要になる)だからヒトは(広報モジュールが気づかないまま)密やかに偽善的なのだ.この部分の議論もモジュール性からうまく説明されていて面白い.
なおこの議論はインセストやドラッグについては当てはまらないように思われる.これら(何故ヒトは他人がインセストをしたりドラッグに依存するのを非難するのか,放っておく方が有利ではないか?)は残された大きな謎ということだろう.


クツバンは,この道徳と偽善についての説明のあと,ではこのような状況をどう考えればいいかについて簡単にコメントしている.クツバンの結論は,結局道徳規範の背後にある究極因と深刻な非一貫性を前提にすると,道徳モジュールの結論を単純に疑問なく受け入れるべきではなく,特に自由を制限するような規範の主張者にはアカウンタビリティを持たせるべきだというものだ.ここは価値の判断に踏み込んだ部分だが,深い味わいがあるように思う.


本書を読むと,今までぼんやり考えていたよりもはるかに細かい特殊モジュールがたくさん私達に備わっていること,そしてそのような複雑なモジュール同士のネットワークが様々な現象を引き起こしていることをあらためて実感できる.確かに私達は何かの理由を聞かれて,それまで考えてもいなかった理由を自分でも驚くほどべらべらと弁解することができることがある.そしてある考察について,論理的にはこれでよいと意識的に思う瞬間と,(しばしば数日後に,そして理由は不明ながら)真にその考えに納得する瞬間は異なるように感じられることがある.おそらく極めて多数のモジュールが非常に深く私達に組み込まれているのだろう.
そして道徳も,その個体の包括適応度上昇という究極因,進化環境と現代環境の差に加えて,複雑なモジュール群の作り出す非一貫性・強い文脈依存性という性質を不可避的に持っているのだ.そして私達は意識的は気づかないまま偽善的であり得る.本書は深い部分でいろいろ考えさせられる本だといえるだろう.

*1:Kurzbanの日本語表記はクルツバンのほうがよいのかもしれないが,ここではとりあえずこう表記しておく.

*2:このようなグールド,ブラー,あるいは先ほどのフォダーのような進化心理学への敵意の背景にはどうやら(少なくともアメリカでは)進化心理学に肩入れすることはウルトラ保守だと誤解されるという事情があり,リベラル的な学者には(意識的にあるいは無意識的に)進化心理学的なものを拒絶する傾向がある,あるいはリベラルの看板と進化心理学批判がフィットするということらしい.

*3:この部分のクツバンの批判は特に舌鋒鋭く傑作だ.いわく「もし気持ちがよくなるために真実でないことを信じる(自己欺瞞)現象が生じるなら,『誰も僕に電話をくれない.』の次には『イエーッ,ラッキーだぜ,出さなければならないクリスマスカードが減るぜ.』となってもいいはずだ.しかし実際にはより苦しそうな『きっとみんな忙しいんだ.みんな本当は僕のことが嫌いって訳じゃないんだ』という形になる.」