The Gene’s-Eye View of Evolution その21

 

第1章 歴史的起源 その16

 
オーグレンの遺伝子視点の起源の解説.その3つの基礎のうち自然神学,集団遺伝学と並ぶ最後のものは「淘汰のレベル論争」とされている.
 

1-4 淘汰のレベル その2

 
淘汰のレベル論争の解説は,まずフィッシャー,ホールデン,ライト3人組みがそれぞれグループ淘汰についてどのように語っているかについて触れる.
 

1-4-1 ウィン=エドワーズとナイーブグループ淘汰の起源 その1

 

  • ボレロは,20世紀前半について,グループ淘汰についての「相互受容」あるいは「慇懃な無視」の時代だったと評している.

 
ここで参照されているのはボレロによる「グループ淘汰の興隆と衰亡,そして再興隆」という名の論文になる.
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

 

  • フィッシャー,ホールデン,ライトはそれぞれグループ淘汰について触れている.
  • フィッシャーは.グループ淘汰について,有性生殖の維持のための役割を認めたが,個体の増殖速度の方がグループの増殖速度より速いので,通常は個体淘汰の方が強いと説いている.さらに「優性学者の望み」というエッセイで,甥が息子のいない伯父をリプレースするという言い方で血縁淘汰的な議論を行っている.

 
前段の議論は「自然淘汰の遺伝的理論」が参照されている.有性生殖の維持のためというのがどういう意味なのかについてはオーグレンは解説してくれていない.あるいは有性生殖の2倍のコストをすでに意識した上でのコメントなのかもしれない.
「優性学者の望み(Some hopes of a eugenicist)」というのは1914年の「The Eugenics Review」に収録された論文で,雑誌の名前も論文の名前も優生学が最先端の流行で主流の考え方であった時代を彷彿とさせる.
ここで問題とされる部分を読んで見ると,フィッシャーは現代社会の問題として「専門化」があると指摘している.この専門化の問題というのは,ある専門化された家系はその他の能力が劣っていくのではないかという問題意識らしく,その中で「ある家系において資産管理能力と軍事的能力の才能があったとして,長男Aが実家に残り,次男Bが戦争に行き,次男が子を残さずに戦死したとしても,長男に8人の子が生まれれば,甥が伯父のリプレースとなり,その家系の両才能が保たれるだろう」という議論がなされている.(ここでなぜ4人ではなく8人なのかは私にはよく理解できない 9/6追記 これは兄弟が腹違いの場合まで含めて最低何人生まれればいいかという話として理解できそう)
これは確かに血縁淘汰の先駆的な議論といえるだろう.血縁淘汰の先駆的な議論としては次のホールデンのものがよく引かれるが,このフィッシャーのものは初めて知った.おそらくこの論文があまりに優生学的な内容なので今日あまり読まれることがないためなのだろう.
https://digital.library.adelaide.edu.au/server/api/core/bitstreams/1c5c71f5-2141-4a99-9e11-7ecdc4d8ca94/content

 

  • ホールデンは「8人のいとこか2人の兄弟のためなら命を投げ出すだろう」という警句の(メイナード=スミスの回想に基づく)逸話で有名だ.彼はまた「進化の原因」において,グループに有利で個体に不利な形質の議論を行っている.

 
この逸話の典拠はメイナード=スミスの「社会生物学」の書評「Survival through suicide」が参照されている.そしてこれはまさに後にハミルトンとメイナード=スミスの確執の要因となったものになる.
ハミルトンとメイナード=スミスの確執についてはこの本が詳しい.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20130322/1363949965

  
グループに有利で個体に不利な形質の議論がされているホールデンの「進化の原因」.1932年の書物になる 

  • ライトは(この3人の中では)もっともグループ淘汰に親和的だった.そして彼のバランスシフト理論にその要素が組み込まれている.しかしながらライトはそれを社会行動の面から議論することはしなかった.

 
バランスシフトについての論文として以下が参照されている.いかにも手ごわそうだ.
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/instance/1201091/pdf/97.pdf


 

  • いずれにせよ,グループ淘汰は.彼ら3人の議論の焦点にはなっていなかった.

 
ここまでがボレロのいう「相互受容」の時代になる.