第1章 歴史的起源 その13
オーグレンの遺伝子視点の起源の解説.その3つの基礎の2つ目の集団遺伝学.フィッシャーが著書「自然淘汰の遺伝的理論」で,この基本定理をどう扱っているかの解説が続く.
1-3 集団遺伝学 その5
1-3-4 遺伝子視点と基本定理は明確だ
- フィッシャーは「遺伝的理論」において基本定理をこう表現している:「The rate of increase in fitness of any organism at any time is equal to its genetic variance in fitness at that time.:ある生物個体(それがいかなる生物個体であっても)のある時点(それがいかなる時点であっても)の適応度の増加率はその時点の適応度の遺伝分散に等しい」
フィッシャーは基本定理をこのように散文的に表現しているだけで,数式で示していない.ここからフィッシャーが想定していた厳密な数理的な意味をくみ取らなければならないというのが,この本をこれほど難解といわれるものにしている1つの要素なのだろう.
- これを眺めるとなぜこの定理が誤解と意見の不一致にまみれたのかがわかる.そもそも「ある生物個体の適応度の遺伝分散」とは何か? さらにフィッシャーは第2章で,「生物個体」のかわりに「種」を使っているし,1941年版ではそれは「集団」に置き換えている.そして1941年版では「遺伝子頻度の変化を起因しうる」という条件を追加している.
- この1941年版の修正は,フィッシャーの主張の中心は「自然淘汰による遺伝子頻度の変化に起因する集団の平均適応度の増加率はその時点の適応度の遺伝的分散に等しい」であることを明確化している.
なおここで提示された様々な疑問についてはこの節末のBox1.1に解説がある.
- 基本定理は無意味だという伝統的態度は1989年のAWFエドワーズの論文刊行により変化し始めた.エドワーズのその論文は1972年のプライスの論文の再評価に繋がった.プライス論文はわずか12ページのものだが,それが基本定理の評価に与えた影響は大きい.グラフェンは2003年の論文でプライス論文のことを基本定理への啓蒙への道を開いたと評価している.
- 先ほど述べたようにフィッシャーの記述はきわめて難解だ.プライスは「フィッシャーの定理についての説明は,真に驚くべき曖昧さ,表現不足,タイプエラー,決定的な説明の省略,同じポイントについての異なる表現間の矛盾に満ちている」と書いている.
この部分のオーグレンの記述には少し誤りがある.まず1989年にプライスの業績を紹介しつつ基本定理の意味を解説した論文を刊行し,進化学者たちの認識に変化を与えたのはエドワーズではなくイーウェンズで,エドワーズはさらにイーウェンズの業績も紹介しつつ1994年に基本定理についての解説論文を出している.オーグレンは巻末の参照論文には両方を出していて,本文を書いた時に手が滑ったようだ.
だから基本定理についてのフィッシャーの真の意図を説明する論文は1972プライス,1989イーウェンズ,1994エドワーズ,2003グラフェンという4本のシリーズになっていることになる.きわめて重要な内容にもかかわらずあまりに難解である(タイプエラーまであればなおさらだろう)とこうなるという事例を見るようで面白い.
- プライスの指摘した重要な点は,フィッシャーは「集団の平均適応度の総変化についてではなく,環境が一定である時の自然淘汰による遺伝子頻度の変化に起因する適応度変化について関心があった」ということだ.この「環境一定」の前提についての洞察が重要だ.フィッシャーが革新的に拡張した環境概念をおいていることを思い出そう.その「環境」にはゲノムのほかの遺伝子,集団内の遺伝子が含まれ,それを一定とした条件での回帰計算をしているのだ.
- フィッシャーの「環境一定」とは,すべてのアレルの平均効果がある世代から次の世代まで不変だということを意味する.だからあるアレルの平均効果が変化すれば,環境も変わったとされる.プライスのこの環境一定についての洞察は基本定理と遺伝子視点の深いつながりを明らかにする.通常の(生物学者がよく用いる)環境要因と優性効果やエピスタシスなどの非相加的遺伝的要因をまとめて扱うというのは,遺伝子視点の元でのみ意味があるだろう(ただしソーバーはこれに異を唱えているが).
- この概念の重要性はドーキンスの記述に多くみられる.(「利己的な遺伝子」と「虹の解体」から該当箇所が引用されている)ここではフィッシャーがドーキンスに与えた影響が明瞭に表れている.
- 私たちがフィッシャーの拡張環境概念を採用するかどうかは,基本定理の生物学的重要性をどう評価するかを決定づける.プライスは基本定理の受け入れに大いに貢献したが,生物学的重要性については,実際の生物界では環境不変ということはまずないことを理由にあまり高く評価していない.これに対して遺伝子視点の元では,フィッシャーの環境不変は単なる数理的なトリックではなく,個体から遺伝子に視点をシフトしたことの論理的帰結ということになる.遺伝子視点をとることにより基本定理の生物学的重要性を受け入れやすくなるのだ.
このオーグレンの解説はなかなか新鮮で面白い.フィッシャーの基本定理が,当該アレル以外の遺伝子効果を環境とみなすことにより,遺伝子視点の明確な論理を先んじて示しているということになる.

