読書中 「Moral Minds」 第2章 その2

Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong

Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong




第2節はNYSEニューヨーク証券取引所)のお手盛り高給にかかるGrasso氏のの辞任の顛末からスタートする.彼は違法行為を行ったわけではないが,取締役会との馴れ合いによる高給が非難されたのだ.

これを紹介した後ハウザーはフェアネス(公正)について,どこまでがヒューマンユニバーサルで,どこから文化的に異なっているのかを問題にする.ハウザーによるとこれを考えることは学問的な興味だけでなく,人権をどう考えるか,そして政策的な含意もあるだろうという.

道徳が言語と同じ構造をしているのなら,ユニバーサルな文法と文化によるパラメーターがあるということになるわけで,その例題としてフェアネスと選んだということのようだ.そもそもフェアネスにぴったりとはまる日本語はないようだから,当然,文化的にいろいろと異なっているのだろう.ただ,私でも「それはアンフェアーだ」といわれると,その意味するところはわかる気がするので(これもやはりハリウッドの影響なのだろうか?)ユニバーサルな部分もあるのだろうという気はする.


フェアネスは多くの要素を含んでいる.ハウザーは言語学者レイコフによる10要素を紹介している.

配分の平等
機会の平等
手続き的
権利に基づいているか
ニーズに基づいているか
より貢献したものがより受け取っているか
約束や契約に従っているか
責任は平等か
責任は受け取ったものに見合っているか
権利の平等


ここで第3節に変わって逸話の嵐になる.どうもハウザーの語り口はいろいろと話が飛んで流れが見えづらい.


まずアメリカの大人気番組「Survivor」.あるシリーズの優勝者がどのような戦略で,フェアに戦いつつ,自分の利益になるように振る舞ったのかについて紹介されている.日本でもこれのコピー番組がつくられたが,どうもコンセプトが日本人に会わないのか長続きしなかったようだ.このあたりも文化差を考えるには興味深い現象だ.
また映画「スコア」も紹介される.情報屋ノートンと金庫破りデニーロの物語.ノートンデニーロをだますが,デニーロはさらにそれを上回るというプロットが紹介される.


ここから話はいきなり罰を与える話に移っていく.うーんこの辺の本書の作りはわかりにくい.読者泣かせだ,とりあえず逸話は単に挟まれていただけなのか.


独裁者ゲームと最後通牒ゲームの研究の紹介.人は単純な功利的な立場より多くのオファーを与え,受け手は功利的でない拒否を行う.


研究の示唆としてハウザーは以下の通りまとめている.

これらの結果は人の本性についての重要な証拠を含んでいる.協力を促進する社会は,名声の検査を許し,だましへの罰の機会を与えるものなのだ.社会にはいつも誘惑に弱い人がいるのだ.彼等を罰する仕組みを作ることにより公共財を保てるのだ.多くの人類学者や経済学者はこれらの傾向をヒトの認知的な適応だと考えている.我々は基本利己的だが,利他的な傾向も併せ持つのだ.トリヴァースのいう互恵利他(これは理論的には利己だ)より強い利他的傾向を持つのだ.


そしてこのstrong reciprocity (他人と協力する傾向と,自分でコスト(それが回収できる見込みがなくとも)を払ってもだましを罰しようとする傾向)について利己的ではないが,戦略的な立場だと解説している.この戦略をとることにより,だますものは転向し,結果的に加罰者も利益を得ることをねらっているという意味だ.


ここでこの立場が,利己的ではないと定義して戦略性を強調するハウザーの説明はなかなか微妙だ.単に経済的な合理性の有無ではなく意図を問題にしているような書きぶりに見える.進化的ゲーム理論的な解釈ではある戦略の意図はあまり問題にされないはずだ.結局その戦略が集団の中で広がるためには少数派であるときにも利益がなくてはならないし,結果的に利益がなければ広がらないはずだ.利益がある行動をとるのは利己的だといえるだろう.とりあえずこの辺の疑問は保留して先を読み進めよう.


ハウザーはこのstrong reciprocityは先進国の実験で確かめられたものなので,これがヒューマンユニバーサルかどうか確かめてみようと続けている.




第2章 すべてにとっての正義


(2)単なるパラメーター


(3)大人のゲーム