「Kluge」第5章 言語 その2

Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind

Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind


マーカスは言語が情報伝達の観点から完璧でないことを説明したあと.それがクリュージによるものだという.マーカスによるとそれは祖先が持っていた発音機能の問題,世界の理解の問題,そして記憶の問題に関わるものだということになる.

  • 発音機能.

呼吸器官を発音器官に作りかえているために窒息するリスクを抱えている.
すべての音を出せるわけではなく90の音素(個別の言語ではその半分以下)の組み合わせの音しかない.聞いた音をサンプリングして再生できない.
このため速くしゃべろうとするとコントロールしきれなくなり舌がもつれる.
またある音素を作っているときに次の音素の準備をしているために,ある同じ音素が前後の音によって微妙に異なる音になってしまう.
これによって聞き違いが生じる.


確かにマーカスの言うとおりこのような制限はあるだろう.しかしこれはクリュージ性と言うより,通常の適応がコストとベネフィットの間のトレードオフ上の最適点にあることからも説明できるのではないだろうか.クリュージだというなら,90以上の音を言い分けたり聞き分けたりすることやサンプリングして発音する能力にかかるコストが少なくて効用は多いのにそうなっていないことを説明しなければならないだろう.私ににはこれは十分普通の適応のように思えるところだ.

  • 世界の理解

時代によって単語の意味が変わるのは,とりあえず役に立てばいいからだ.十分な証拠が無くてもとりあえず判断する.そして多くのことばは定義があいまいだ.
量的,論理的にしゃべるのは2つの方法がある.1つは数量詞を使って論理的に話す方法「すべての犬は4本の足を持っている」「あるヘビは人を襲う」これは真偽を定めることができる.
もうひとつは総称的にしゃべる方法だ.「犬は足を4本持つ」「蚊は人を刺す」こちらは真偽を決められない.

言語が両方持っているのは,私達の脳に2つの判断システムがあるからだ.直感的なシステムは総称的なしゃべり方に対応していて,熟考システムは数量詞システムに対応している.そして言語発達においては総称的システムが先に発達する.
また「犬は足が3本だ」という文章は受け入れられないが,同じくまれな出来事でも「蚊はナイルウェスト熱を媒介する」という文章は受け入れられる.これは危険なため印象が明瞭で生々しいからだと説明できる.


これはマーカス流の2つの祖先システムがコンフリクトしているという説明だ.この説明は独自でちょっと面白い.

  • 記憶

文法についてチョムスキーはかつて「最適でほぼ完璧」と評したことがある.これは情報伝達に最適化しているという意味ではなく,ヒトの言語が言語であるために「再帰性」をいう単一の原理にもとづいているところが,まるで物理原則のようでエレガントだという趣旨だ.
確かにヒトの言語において「再帰性」は重要な現象だ.しかしピンカーも主張するように,それはヒトの心の別の場所(心の理論)にも見られるし,さらにこのシステムは記憶の制限を受けていて完璧ではない.
再帰性を持つ入れ子型の文章は,その名詞,動詞が,どのように節を構成しているかを記憶してトレースしていかなければ解釈できない.マーカスはPeople people left left. という文章とFarmers monkeys fear slept. という文章を例に挙げている.日本語では格を示すマーカーが必要なのであまりこのような解釈が難しい文はないのだろう.
要するにヒトの記憶システムはこのような文脈に依存していない構造のメモリは苦手なのだ.だから一定以上複雑な入れ子型文章は理解できない.


確かにヒトは一定以上の再帰的な文章(恐らく6つか7つの入れ子構造が上限)の意味を追従できない.また理解しにくい入れ子型文章もある.そして確かにこれは短期記憶の制限が効いているのだろう.でもこれもクリュージ性というよりは単にトレードオフ上の最適点ではないかという感想だ.そんなに複雑な入れ子構造の情報を一文で伝達することが,何個かの文でゆっくり伝えることより決定的に重要な場面はそんなに無いだろう.


マーカスは最大の問題は,考えていることをうまく言い表すという課題だと指摘し,文章の切り方によって意味が両義的になる例を挙げている.結局ヒトはこれらの問題を文脈に沿って考えたり,身振りなどで補完したりして解決しているのだという.


マーカスは言語がこのようになっているのはそもそも異なる目的のために進化した様々な部品を寄せ集めて作ったクリュージだからだと結論づけている.


本章のマーカスの説明は進化的な説明としては中途半端だと思う.
スルーされている重要な問題は,言語が進化したときの淘汰圧はどのようなものだったかだ.マーカスの説明は,言語が情報の正確な伝達に向かって進化しているとするなら,このような欠点があって,それは発声器官や脳にある2つの認知システムや文脈依存の記憶の寄せ集めから作ったために,もはや一から合理的な設計ができないのだということになるだろう.
しかしコミュニケーション理論からは,正確な情報の伝達が(個体あるいは遺伝子の利益となることにより)淘汰圧になって進化が生じるためにはハンディキャップなどの条件が必要で,言語はそのような特徴を備えていないから,ナイーブにこれを仮定するのは論理が飛躍しているだろう.
例えば,毛づくろいの代わりだというダンバーの説やべらべらしゃべれることが性淘汰シグナルであったというミラーの説であれば,正確の情報伝達ができなくともそれほどおかしなことにはならない.実際にヒトの言語が(マーカスのいう制限要因を考慮に入れてもなお)コンピューター言語とあまり似ていないことは,これが情報伝達の正確性を淘汰圧として進化してきていない証拠と考えることさえできるだろう.
もちろん,さらに正確な情報伝達までできる方がよいということであってもおかしくはないのでマーカスの議論が直ちに否定できるものでもないし,脳の2つの判断システムにトラップされているという部分はちょっと面白いと思う.
私としては,より精密な議論を期待していただけにちょっと残念だった.あるいは本書は一般の読者向けにややこしいところは省いてある軽い本ということなのかもしれない.