「なぜ女は昇進を拒むのか」

なぜ女は昇進を拒むのか――進化心理学が解く性差のパラドクス

なぜ女は昇進を拒むのか――進化心理学が解く性差のパラドクス


スティーヴン・ピンカーの実妹スーザン・ピンカーによる本書は,フェミニズムの大きな論点の1つである女性の社会的地位をめぐる「ガラスの天井」にかかる議論を扱っている.原題は「The Sexual Paradox: Men, Women, and the Real Gender Gap」.
スーザン・ピンカーは発達心理学者で,臨床心理士としての活躍してきたキャリアを持つが,兄と同じように進化心理学についての研究者であるわけではない.実際に本書の中ではトリヴァースのオスとメスの性差にかかる進化生物学的な議論は紹介されているが,いわゆる進化心理学的な解説があるわけではない.邦題「なぜ女は昇進を拒むのか」というのは本書の議論の中心をしめる部分でありわかりやすいが,副題の「進化心理学が解く性差のパラドクス」というのはミスリーディングだ.スーザンはこの本を臨床心理士の経験があるノンフィクションライターとして執筆している.スティーブン・ピンカーにあやかって売らんかなという副題なのだろうが,日本における「進化心理学」という言葉の用法がだんだんスロッピーにポップ化されていくようでちょっと心配だったりする.


「ガラスの天井」の議論というのは,「建前上の女性差別はなくなっても,目に見えない差別が現存しているために女性は一定以上の地位に昇進することが困難になっている」という主張の是非をめぐる議論のことを指している.
確かに大企業の重役や技術系の職業において女性が高い地位にいる割合は大きく50%を下回っている.極端なフェミニズムは,これはすべて差別のなせる結果であり,差別がなければ50%程度になるはずだと議論するのに対し,本書は「そうではないのではないか,原因の大きな部分は女性が男性と同じようなキャリアを望まないためではないか,いわば自発的な選択についての生得的な性差があるためではないか」という立場に立って議論している.


このような主張について私が最初に読んだのはキングズレー・ブラウンによる「Divided Labours: An Evolutionary View of Women at Work」(邦訳「女より男の給料が高いわけ」)においてだった.このブラウンの本が出版されてから10年経過しているわけだが,本書のような本が出版されるということは,引き続きアメリカのフェミニズムの議論では「職業選好について性差がある」というのはマイナーな主張に止まっているのだろう.ともあれ,スーザン・ピンカーは大上段から女性の選好にかかる性差を論ずるのではなく,様々な人へのインタビューを繰り返して語り,読者に具体例を通じて理解してもらおうというスタンスで本書を書いている.(このスタンスも,いかにも本書で主張される女性の選好に合致しているようで面白い)


さて本書では,まず1970年代の第二波フェミニズムにどっぷり浸かった著者自身の思い出から始まる.大学進学の頃は,これまでと違って女性も男性と同じように高い教育とキャリアを築いていくことを当然と考え,キャリアのスタートを切る.しかし父親のような全国を飛び回る営業のようなきつい仕事を選ぶとは考えもせず,そして臨床心理士として職業を持ち,さらに家庭を持ち,結局男性とは異なるキャリアを歩んでいる現実だ.そしてそのような成り行きにいたるのは女性が何を望むのかということが大きなファクターだと説かれるのだ.


多くの人々にインタビューしながら本書があぶり出していくのは,まず男性の弱さ,あるいは逸脱振りだ.ADHD,識字障害,アスペルガー症候群などの障害を抱え,学校からドロップアウトしていくのは圧倒的に男性に多い.しかし彼等のなかには,そのハンディを持ちながら社会に出て非常に厳しい競争をくぐり抜けるということをやってのける人たちがいるのだ.結局,そのほかのすべてのことを犠牲にしてあることに集中できる,時に大胆にリスクをとる,あるいは自信過剰になれるという資質は,厳しい競争に勝つことによって得られるようなキャリアの成功において重要なファクターになるということだ.
次にあぶり出されるのは,女性はそのほかの価値をより重視する傾向があるということだ.これまで女性差別など受けずに(逆に周囲から励まされて)素晴らしいキャリアを築いてきた女性が,40歳頃に,所得や地位が低くても,人とのふれあいのある仕事や家族と共にいられる時間の多さを選ぶようになるのだ.(本書によると最後まで男性と同じように仕事にすべてをかけて昇進を追求する女性は大体2割程度ということらしい)
全体の構図としては,男性はキャリアにおいて,ほかのすべてを犠牲にしても高い地位につきたいという選好を行う割合が高いために,望ましいとされるキャリアにおいては非常に競争が厳しくなっている.女性はそのような選好を持つものの割合が低いため,競争から自ら降りていき,最終的な高い地位にいる人たちの性比は50%にならないということだ.


著者はホルモンの作用や脳の神経的な特徴などから,この選好に関する性差には生物学的な基盤があるのだと示唆している.(本書では生物学的な基盤については至近的な議論がほとんどであり,究極的な説明はトリヴァースの理論を男性のリスク選好についての説明に使っている部分に限られている)フェミニズムにおいて問題になることの多い「氏か育ちか」議論について,二分法で語るべきでないことなどを深く取り扱っているわけではなく,「すべてが環境」という形では説明できないことを主張しているだけだ.また本書の最終的な結論は,「女性がすべて男性と同じになるべきだ」と考えるべきではなく,「女性が本当に望むことを自由に選択できる社会が望ましい」のだという(いわば)常識的なものだ.しかし本書の叙述振りからは,通常の第二波フェミニズムに浸かった世代にとっては,この初歩的常識的な主張自体が(未だに)非常に斬新で力説すべき主張であることがわかる.


人生の選好において性差があることが落ちている読者にとって,本書の主張はある意味当然のことだろう.*1そういう意味で本書の魅力は,インタビューが紡ぎ出す人々の物語が,「選好に性差がある」ことを踏まえて見ていくと,様々な人生の機微や真理を垣間見せるところだろう.ハンディを乗り越えて成功する男性達の人生,フェミニズムイデオロギーに押されて男性並みにがんばってがんばってきて40歳にしてついに本来の自分を取り戻す女性達の物語はそれぞれに味わい深い.背景にアメリカ社会の動向も窺えて,上質のノンフィクションに仕上がっていると思う.



関連書籍


原書

The Sexual Paradox: Men, Women and the Real Gender Gap

The Sexual Paradox: Men, Women and the Real Gender Gap



キングズレー・ブラウンの進化心理学的なジェンダーギャップの本

Divided Labours: An Evolutionary View of Women at Work (Darwinism Today series)

Divided Labours: An Evolutionary View of Women at Work (Darwinism Today series)


同邦訳

女より男の給料が高いわけ 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

女より男の給料が高いわけ 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

*1:とは言いながら,落ちていない若い女性の方々には是非本書を読んでこれからのキャリアを深く考えて幸せになってほしいものだ