Bad Acts and Guilty Minds 第2章 犯罪行為 その5

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


本章の「犯罪行為」性があるかないかという議論.ここまでは法律用語の定義,法文の矛盾,解釈問題をまず取り上げ,続いて記憶喪失,多重人格,無意識下の行為を考えてきた.
ここからカッツはより広い意味で行為性があるかないかを問題にする.


<物理的な強制>
最初は物理的的な強制を伴うもの


カッツがあげる例は以下の通りだ.

  • 「公衆の面前での酔っぱらい行為」が処罰対象になる法の下,自宅で飲んでいた被告が別件で逮捕されて警察署に護送される途中で公衆の面前で酔っぱらい行為をしたという案件.
  • 「許可のない外国人が一定地域内にいること」が禁止されている中,警察により護送されて禁止地域にはいって,そこで改めて「発見」された案件


裁判所は,前者を「自ら公衆の面前に出たわけではない」と無罪にし,後者は有罪としている.後者には批判が多いようだ.
このような「一定の場所にあること」が要件となっている犯罪で,その地域に強制的に連れてこられた場合には「行為性」が否定できるという構成を持って解決しようということだろう.

しかし「強制」が問題になる案件を「責任」ではなく「行為性」で解決しようというのはなかなか無理があるように感じられる.
前者の犯罪はもともと酔っぱらい行為に完全な責任性がないから,そもそも原因において自由な行為である部分を問題にする犯罪要件のように思われ,そこで強制的に場所移動があった場合は責任を問えないのだと考える方がしっくりくるように思う.
後者は,犯罪要件を「一定地域内に入ること」と規定しておけば問題がない案件であろう.そこに「入ること」ではなく「滞在している」という状態自体が犯罪要件であるなら,これについて故意があれば犯罪としては有効に成立していると考えざるを得ないようにおもわれる.強制的に連れてこられて,そこから出ていこうとすることが期待できないなら,期待可能性として責任の問題として考えた方がよいのではないだろうか.



<状態の処罰・行為であるための要件は何か>
次はまさに状態処罰の問題が取り上げられている.


アメリカでは麻薬中毒であることを処罰する法律が,残酷な処罰であるとして違憲判断されているそうだ.しかしカッツは麻薬中毒になることを防ぐことはできるのだから,これはそれほど明らかな結論ではないと議論している.


カッツは法に何らかの状態が記されていても,そういう状態になるべき何らかの行為が必要なのだと議論を進めている.これは「状態」自体を犯罪とすべきではないという考えのようだ.
結局,犯罪は何らかの実行行為があって,その際に故意があるという形式であることが,ヒトの進化的な道徳モジュールになじむということなのだろう.だから何らかの状態になることを実行行為と捉えればこの手の居心地の悪さがなくなるのだろう.これはピンカーによれば,ヒトの認知(犯罪は何らかの動作を処罰するもので状態を処罰するものではない)が判断に影響している事例ということだろう.
日本でに状態処罰のような犯罪類型はあまりないようだが,麻薬や銃刀の不法所持がこれに当たるだろう.これについて状態自体の処罰が違憲であるという議論はあるのだろうか.あまりそのような認識はないのではないだろうか.最初の所持が強制や本人の知らないあいだに生じたとしても認識後しばらく所持していれば犯罪が成立することにあまり疑いはもたれていないように思われる.


<行為に意思は必要か>
カッツはこの後,目的のある行為と単に意識している行為の違いについて議論を続ける.
日本ではこれは「故意」についての議論で現れる.故意についての表象説,意思説,認識説とされるものだ.
最終的にカッツの結論は「行為」というためには,「身体を動かすという意図で身体を動かすことで,身体を動かすことが意識されているもの」であればいいというものだ.
なぜ日本のように「責任」の議論にせず,「行為」性の議論にするのかはわかりにくい.お国柄ということかもしれないし,英米法では共犯の概念が非常に広いので行為性を狭く見ても問題がないということも影響しているのかもしれない.


<催眠術>
そして行為性に「身体を動かす意図」を要求すると,催眠術による行為も行為だということになる.


カッツはここも詳細なケーススタディをつけている.
事例1:ある医者が患者の女性を催眠にかけ金をだまし取り,さらに性交を行い,夫にばれそうになったときに夫の殺害と自殺を催眠で指示した(殺人と自殺は未遂に止まった)
この場合高名な医師が2年かけて催眠を解き事実が明らかになったとされ,もとの医者は懲役10年,女性は訴追されないという結果になった.


事例2:被害者を催眠にかけ,金をだまし取り,さらに被害者に詐欺を起こさせて(受益者はこの催眠術師),あるキーとともに自分が犯罪者だと警察に自首するように催眠にかけた.
このケースでは被害者は有罪を宣告され,後に催眠が解けたと称して再審請求した.


事例3:刑務所で知り合った催眠にかかりやすい男に対し,自分は大守護だと偽り催眠にかけ,刑務所内で様々な物品をだまし取り,発明の権利も奪った.刑期を終えた後,さらに催眠にかけ,離婚させ,自分が選んだ女と結婚させ,金をつぎ込まさせた.さらにスカンジナビアを救うために必要だと催眠にかけ銀行強盗を実行させた.1度成功し,2度目に銀行員2人を射殺したところで逮捕.
自分は大守護の命にしたがったと主張したため,パラノイアとして処理されたが,後に催眠の事実がわかってきた.


このような再構成はすべて後に被告を診断した医者の見解だ.
これまでの知見によると,実際に催眠で犯罪を起こさせるのは不可能ではないらしい.
カッツは上記の様なケースを考えると「催眠術による行為」も「行為性」を否定する方がよいのではないかと議論している.


カッツは,状況を知り,意味を知る者が,その者のためにした行為こそ「彼の行為」なのだと議論したいようだ.つまり,催眠術師により誘導された行為は,催眠にかかった者の行為ではなく,催眠術師の行為だと議論したいようだ.行為の主体のアイデンティティにかかる議論はなかなか面白いが,ちょっと無理がある感も否めない.


結局この問題をどう考えるかは,催眠術にかかった状態はどういう状態かという認識にかかるところが大きいのだろう.催眠術にかかったらまったく意思の自由がなくなりすべて催眠術師の誘導のままに動作するというなら,被催眠者は単に道具として利用されているだけで,その身体の動作は,彼の行為ではないということになるだろう.(この場合催眠術者自身の行為となり,彼が直接正犯ということになる)しかしそこまで完全に誘導できないなら,それはあくまで被催眠者の行為であり,ただ心神耗弱・心神喪失状態として責任を否定できるかもしれないという状況に止まるのだろう.そして催眠術師が教唆犯なのか間接正犯なのかはその誘導の完全性によって異なるということになるのだろう.

これまでにいろいろ催眠として知られている状態は,後者の解釈と整合的ではないだろうか.日本でもこのような場合,責任の問題を考え,故意の有無,心神喪失の主張を巡って争われることになるように思われる.