Bad Acts and Guilty Minds 第2章 犯罪行為 その6

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


「犯罪行為」にかかる次の論点は「不作為犯」だ.

例によってカッツがあげるケースは,有名なニューヨークのキティ事件だ.
ニューヨークのクイーンズの路上で暴漢に襲われたキティは「助けて」と大きな声で訴え続けたが,それを聞いていたアパートの住人38人は誰も警察に通報せず,キティは殺されてしまったというものだ.
この事件をニューヨークタイムズが報じた後は,この隣人達を罰すべきだという世論が盛り上がり,法改正の議論にまで及んだという.(結局この事件でこの38人は不起訴ということになっている)


コモンローでは16世紀から不作為犯が認められている.古典的なケースは,果樹園に赤ちゃんを置き去りにしてネコに襲わせたというもの,病気の父親を凍てつく夜に町から町に運び続け,ついに衰弱死させたというものなどがある.しかしこれらのケースでは,被害者と被疑者は全くの他人ではないし,まったく何もしなかったわけでもない.


コモンローの不作為犯の要件は被害者と不作為犯のあいだに何らかの関係(身分関係,契約,一旦何らかの作為をしたために危険が生じたこと)があるか,あるいは法律上の義務があるということだ.
身分関係は親族というだけでなく親しい友人というものも含まれる(浮気相手は含まれないという判例があるそうだ)


日本法では,成文法には定めはないが,何らかの作為義務が必要だと解されている.作為義務には法令上のもの,契約上のもの,慣習上のもの,選好行為によるものに大別されるようだ.最終的には英米法と同じような結論になるようだが,親子や夫婦については民法上の義務で読むということだから,親しい友人の場合は含まれないということになるだろうか.明文規定がないので,結局は個別事例において様々な事情が総合判断されるということになるのだろう.


カッツはいくつか論点をあげている.ある行為が「作為」だったのか「不作為」だったのかは簡単に区別できるのか,なぜ「不作為」は,より犯罪成立要件が厳しくなるのか(なぜ不作為はより非難されないのか)だ.


<作為と不作為の違い>
まず何かをしないということは別の何かをしているということだ.どうやって作為と不作為を区別するのか.
難しい例としてカッツがあげる例は,出産において胎児の頭を切れば母親は助かるが,そうしなければ母親が死ぬ,また何もしなければ母親の死後胎児が助かるという場合だ.保守的に考えれば医師は何も医療措置をするべきではないことになるが,なぜ母親を見捨てることが義務づけられるのかは明らかではない.
この例はわかりにくいが,カッツが問題にしているのは,「何もしない」ということは不可能だということだ.人はそのときにあることをしない代わりに別の何かをしている,じっと動かないからといって何もしていないことにはならない(医療措置をしないと決断して措置を中止することは母親を殺すことではないのか)ということだ.


哲学者ジョナサン・ベネットは多くの行為からその1つだけがある結果を生むものが「作為」であり,そうでなければ「不作為」というテストを提案した.
しかしこれではちょっとでも動けば爆弾が破裂して誰かが死ぬというときに,どう動いても殺せたのだからという理由で「作為」ではなくなってしまう.


カッツは「被告がいなくても同じ結果を生じたか」というテストの方がいいのではないかと提案している.不作為にだけ何らかの関係や義務を要求するにはこの方が感覚的にしっくり来るようだ.


しかしこれも結局「いなかったら」という仮定の詳細はあいまいだ.というより,詳細によって結論は動いてしまう.(カッツはニューヨークがジョージアにあったらという仮定だけではそのニューヨークが引き続き大西洋に面しているかどうかはわからないという例を出している)カッツはこれは避けられない問題だと示唆している.


日本法の議論を参考書で見てみると,不作為は「何もしないこと」ではなく,「何かの期待されたことをしないこと」であり,その期待されたことがすなわち「作為義務」の範囲の議論という理解であるようだ.また不作為の「因果関係」の問題というフレームでは期待されていたことをしていればその結果が生じなかったかどうかで判断すればよいということであるようだ.だから,カッツのような問題意識は感じられない.そもそもある人のとったある行為が「作為」か「不作為」かは明らかであるという前提に立っているようだ.


カッツが問題にしているのは「作為」か「不作為」かはそれほど単純ではないということで,次のような仮想例を考えてみればわかる.
AはBが死ねばいいと思っていたところ,Bが心臓発作を起こした.AはちょうどAEDの前に立っていたので,周りの人からAEDが見つからないようにそのまま立っていた.周りの人はAEDを見つけることができずにBは死亡した.


日本法の参考書の理解ではAの行為は「不作為」であり,周りの人にAEDを教える作為義務があったかどうかが問題になるということになると思われる.カッツのように考えるとAの行為は「隠した」という「作為」であると考えられ,特に作為義務や何らかの関係がなくとも殺人を問うことができることになる.
厳密に言うと,「作為と不作為で犯罪要件が異なるわけだから,まずその違いが明確でなければならない」とカッツのように考える方が論理的なのだろう.もっとも実務的にはこのような限界事例はまず生じないと思われ,直観的に判断して問題がないのだろう.まただからあまり議論されていないのだろう(カッツもこの問題に関しては具体的なケースをあげていない).


<なぜ不作為犯には加重要件が必要なのか,(不作為はより非難されないのか)>
カッツはまず実務的な論点をあげている

  • 何らかの要件がなければ,貧しい人に金を渡さない金持ちは,その貧しい人が死んだならば皆殺人になってしまう.それは妥当な結果だとは思えない.
  • また同じく要件なしに不作為犯を罰するのであれば,皆そのような立場に立つことを恐れて逃げるようになるだろう.困っている人から足早に逃げ出すことを奨励するような法がよい社会を作るとは思えない.
  • 不作為の結果生じたのかどうかの因果関係ははっきりしないことが多く処罰が難しい


しかしカッツは,さらに非常に深い道徳的な感覚が裏にあるのだという.
私達は,(1)ベータはバートに腎臓移植することを拒否して,バートは腎臓病で死亡した(2)腎臓病になったベータはバートを殺してその腎臓を奪って自分に移植してもらい生き延びた.という2つのケースを比較して,どちらもベータは自分の命をバートの死より優先しただけだが,明らかに非難されるべき程度が異なると感じる.
それは私達はバートの自主性(オートノミー)を尊重し,それを奪うことは許されないと感じるからだ.このあたりはヒトの生得的な道徳モジュールがそうなっているのだと解釈すべきことなのだろう.


日本刑法の参考書では,単に要件を要求しないと不作為処罰の範囲が広くなりすぎるからだと説明があるのみだ.これはカッツのあげる実務的な説明だ.しかしなぜそれが広いと感じるかといえば,結局私達の道徳モジュールの内容にかかる説明になるということなのだろう.


さてここでカッツはキティ事件のケースに戻る.


なぜアパートの住人38人は誰も通報しなかったのだろう.カッツはそれは群集心理に理由があるのだといい,心理学実験を紹介している.
ある心理学実験を行うと被験者を待合室に呼んでおいて煙をいれる.一人で待っていた場合には75%が通報するが,3人で待っていれば通報率は30%に下がる.あるいは隣の部屋でガシャーンという物音とキャーという女性の悲鳴を聞かせると,1人で待っていたばあいには全員が助けに行くが,2人だと70%に減る.
要するにヒトはパブリックな場所では,感情を出したりお馬鹿に見えるかもしれないことをすることを抑制するのだ.だから互いに見合って,相手が無関心なようなら自分も手を出さないということが生じる.

キティ事件ではそれぞれ個室にいたのだからパブリックな場所にいたわけではない.しかしやはり多数が同じ立場にあると知ると,自分が行動しなければという気持ちが減るのだ.(これも実験が紹介されている)これ以外にも,ヒトが何かの利他的な行為に踏み切るには,自分の行為の結果が実感できるかどうかということも動機としては大きい.


カッツは様々に議論しているが,結局ヒトは利他的な側面を持ってはいるのだが,それを発現するにはいくつかの心理的な障壁があるという主張のようだ.残念ながら,なぜそのような障壁があるのかをいう議論にはいたっていない.またカッツはこのような障壁にかかる刑法的な議論を行っているわけでもない.作為義務の範囲を考える上ではなかなか興味深いところのような気もして,ここもちょっと残念である.