Bad Acts and Guilty Minds 第4章 すべての悪の源 その3

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


因果関係の問題.ここまで,条件関係というときに「その行為がなければ」という仮定条件の詳細はあいまいであること,条件関係はヒトの認知する因果関係と微妙に異なることを見てきた.


カッツが提示する次の問題は,このような形で因果関係を考えると,ある結果に対して原因は非常にたくさんあるということだ.様々な条件がすべてそろって初めて結果が生じるとき,そのすべては因果関係があることになる.
通常の犯罪の場合には故意によってそこは十分狭く解されるが,過失の場合にはいろいろ問題になるだろう.


カッツは第二次世界大戦の原因についてのテイラーとトレバー=ローパーの大論争を紹介している.これはトレバー=ローパーが原因はヒトラーだと主張したのに対して,テイラーが,原因はベルサイユ条約と西側の政策が原因だと主張して大激論になったものだ.
ヒトラーが戦争を望んだのだ,いや彼はドイツを強くしようとしてコントロールを失ったのだ,いや彼は東方拡大を明確に意識していて,その前に西側を無力化しようとしたのであり,最終的に戦争は必然だと知っていた,他国が譲らないという条件付きで戦争を意図したのならチェンバレンルーズベルトと何が違うのか,ヒトラーが先に現状からの離脱を望んだのだ.それを言うならベルサイユ前に戻ろうとしただけだ,そもそも何故第一次大戦前が自然なのか,という議論が延々となされたようだ.

カッツは結局すべてに条件関係があることには双方同意していて,条件関係だけでは原因とは言えないとして争っているということになると指摘している.
そしてコモンローもこのようなたくさんの条件関係の中から,一部のみが犯罪の処罰対象になる「直接の原因」にあたるということを認めているという.これは日本法の解釈においても「相当因果関係」として議論されているものだ.


カッツはいかにも英米法らしく,個別の議論から始める.


<第3者の意図は因果関係を切断するか>
コモンローはこれを認めている.Aがタバコを森に捨て燃え上がり,なんとか鎮火しかけたところにBがガソリンをぶっかけたような場合には,Aの行為と火災の因果関係は切断される.
これは意図あるときのみで,不注意で何かした場合には切断されない.
被害者の意図はどうか.強盗に襲われて逃げようとして転んで死んだような場合には切断を認める.しかし自殺については判例は混乱している.あまり切断を認めないそうだ.


<異常な出来事が介在した場合は因果関係を切断するか>
これもコモンローは認める.しかしどこまで認めるかは難しい.
伝統的なコモンローの解釈では,「異常な出来事」は事後に生じたものに限っていた.例えば,小さな切り傷を生じたら被害者が血友病であって死亡した場合には因果関係は切断されない.


法廷は現在考えを変えつつある.主に二つの立場がある.

  1. 通常のリスクだと考えられるものにのみ因果関係を認める「リスク理論」
  2. 生起確率を上昇させ得たものには因果関係を認める「確率理論」


「リスク理論」では通常の経路と著しく異なるものを排除しようとする.
これで,銃で撃って破傷風を感染した事例は未遂になるし,呪い師の薬が異常な効果を持ったものも未遂にできる.また逆にレデルに銃を渡した当局は自殺教唆に問われるだろう.
しかし当初想定し得なかったからと言ってすべて罪に問えないというのは寛大すぎるという批判もある.

「確率理論」では確率を上げたがどうかだけが問題にされる.
リスク理論と同じ結果になるケースも多いが,過失の結果当初想定外の別のリスクが上昇し,被害が生じた場合は処罰されることになる.これはあるいは厳しすぎるのかもしれない.


カッツはこの問題は原理的にうまい解決はないのだと議論している.そもそもゴールがはっきりしない.もし過失がないときの事故のリスクが50%で過失があれば70%に上がったのだとすれば,本来処罰すべきは20%部分ということになる.しかし実務的にはどんなテストもこれを区別することはできないだろう.確率的な事故は人生の現実だからだ.
伝統理論では問題の一部が解決できるに過ぎない,リスク理論は通常緩くなりすぎ,確率理論は厳しくなりすぎる.そしてどのみち過失がなくても起こったであろう50%の事故を特定して無罪にすることはできないのだ.


日本法の議論では「因果関係」の中に処罰相当な「相当因果関係」があるとする.
何が「相当」なのかについては,客観説,主観説,折衷説があり,そのようなことが誰にとって予想可能だったのかが問題にされている.(一般人に予想可能なもの+犯人が知っていたことという折衷説に人気があるようだ.前田本では,これは主観的帰責の議論が因果関係に紛れ込んでいると否定的だ)相当因果関係という議論は上記英米法でいえば「リスク理論」の立場に近いだろう.
そして行為以前の事情,行為後の事情(その中で第3者の行為,被害者の行為,行為者自身の行為)に分けて相当性を議論する.行為以前の事情は割と広く認め,被害者の健康事情などは因果関係の切断を認めない.行為後の事情についてはそもそも生起確率が大きいかどうか(増減ではない),介在事情が異常か,介在事情がどの程度影響を与えたかを総合判断するという立場が多いようである.
確率理論のような議論,カッツのあげた最後の問題意識は日本にはないようだ,このあたりもお国柄ということだろうか.


カッツは最後に因果関係についてまとめている.


人の心は「原因」について過剰に反応するようになっている.だから原因と思われる行為を罰する法律が生まれる.しかしその「原因」を特定するのは実は難しい.
このためには「この行為がなければ」という仮定的な条件下で何が起こるかを考えなければならない.しかしこの仮定的条件の詳細はあいまいだ.
さらにそのテストで条件関係があるとしても「原因」とはすべきでないものが残る.いろいろな解決法が提案されているが,原理的にうまい方法はない.

カッツの意見としては,「結果に対して罪を問うのには実務的な問題がある.リスクある行為態様を罰するという予防的法律の方がよいのかもしれない」ということだ.そして実際に結果を確かめにくいものについては法はこうなっているという.


しかし私が思うに結局ヒトの処罰感情をある程度満たすようでないと法は法として機能しないだろう.私達は非常に深い部分で,物事を因果関係として捉えるという認知的な心を持っているようだ.カッツは単に貢献理論を持ち出しているだけだが,進化心理学的に考えると,そもそもそのように感じる究極的な原因は,小集団における非協力者の探知とパニッシュメント(つまり処罰そのもの)にある可能性が高い.だからこれは非常に深い感情であって,それと整合的でない法はうまく機能しないだろう.
おそらく色の認知と同じで,(処罰感情にかかる)因果関係というのは現実にあるのではなく私達の心の中にあるのだろう.少なくとも私達は因果関係を純客観的に決めることはできない.さらに(仮定の問題を解決して)条件関係として決めることができるとしても,それは私達が望む処罰の条件とは少しずれているのだ.おそらくそのために英米法でも日本法でも,コモンローの因果関係の切断やリスク理論,また「相当因果関係」という概念を持ちだして物事を私達の心に合わせようとしているのだろう.そしてそれは結果的加重犯や過失犯の場合には特に問題が顕在化しやすいということだろう.

私達は恐らくこの問題からは逃れられないのだ.