本書は社会性昆虫の研究者で包括適応度理論を用いたリサーチを数多く行ってきた辻和希による利他行動・包括適応度理論・社会性昆虫についての解説書である.辻は本書を,2006年に出版されたシリーズ進化学第6巻「行動・生態の進化」第2章「血縁淘汰・包括適応度と社会性の進化」をブラッシュアップしたものと述べている.この「行動・生態の進化」は日本に行動生態学が根付いた直後に出版されたきわめて充実した本であり,特にこの第2章は素晴らしかった.私としても大いに期待して手に取った一冊になる.
はじめに
本書のスコープ(社会性昆虫のワーカーの存在を含めた利他行動の進化についての解説書)が提示され,叙述スタンスについて,確立された考えを表面的にたどることなく,血縁度や包括適応度などの重要概念を一から理解する手助けとなるように努めたとある.
また想定読者は学生や専門家だけでなく一般読者も含むとしている.その理由については,「利他」は単に生物学的なテーマであるだけでなく,哲学,倫理,道徳にもからみ,自然淘汰理論は(不適切な理解のもとで)ヒトに適用されて社会ダーウィニズムや優生学などの黒歴史をたどったことがあることを指摘した上で,現在では人間の心や行動の理解に「生物としてのヒト」の背景理解が必要だと考える人も増えており,包括適応度や血縁度などの正確な生物学理論を知るニーズが人文社会系にもあるならその一助になればと考えるものだと説明されている.
第1章 進化と自然淘汰
第1章は導入章ということで,進化,自然淘汰,適応,適応度についての定義と解説がなされている.ここでは自然淘汰が目的らしきものを自然発生させることの説明,適応度については集団遺伝学的定義(遺伝子プールの中での特定遺伝子頻度の世代間変化)を用いること,子の数がその指標になること,適応度をめぐっては混乱した議論になりやすいこととその理由(この部分は詳細がマニアックで面白い),適応度関数,自然淘汰と浮動の関係あたりが取り扱われている.
第2章 進化的適応の実証法
第2章も導入章であり,進化生物学という営みについての解説章になる.
進化の実証についてのアプローチには3タイプがあること(系統樹を用いた比較法,最適戦略から生まれる予測の検証,進化プロセスの実測),ゲノムシーケンスが容易になったことの影響,至近要因と究極要因などが解説されている.
第3章 利他とは何か
第3章から本題「利他行動の進化」の解説が始まる.第3章はその準備章という位置づけ.
まず利他とは何かが定義される.ここでは「それを発現した個体の絶対適応度を下げる一方で他個体の絶対適応度を上げる表現形質」とされ,社会形質の4類型,定義において相対適応度を用いない理由*1などのテクニカルなところが丁寧に解説されている.
続いてドーキンスによる「利己的な遺伝子」概念,最近の河田雅圭による用語法への批判とそれについての辻の見解*2,一見利他的な形質が実は相利形質である場合もあり,きちんと確定させるためにはビッグデータが必要なこと*3などが解説されている.
第4章 利他形質の進化理論
第4章からいよいよ本書のテーマである利他行動の進化理論が解説されることになる.まずこれまでに提出された利他行動の仮説が紹介されている.
- 広義の血縁淘汰(グループ淘汰,緑髭効果を含む)
- 他個体による操作
- 互恵性
ここではマルチレベル淘汰や緑髭効果も広義の血縁淘汰とまとめられているのが(理論的にエッジが効いていて)類書にない特徴ということになるだろう.また互恵性により説明される行動は著者による利他形質の定義からすると利他行動にはあたらないことも注記されている(ただ伝統的にはそう議論されることが多いのでここで列記したとある).
ここからそれぞれの仮説についての解説がある.
<血縁淘汰と包括適応度>
この理論のポイントは集団遺伝学的観点から,形質ではなくそれをコードする遺伝子に注目したこととしており,まさに遺伝子視点ということになる.ここからハミルトン則 ,血縁度が解説される.血縁度
は,行為者が(行為を引き起こす)当該遺伝子を集団平均より
だけ個体内頻度*4として余計に持ち,受け手が
だけ余計に持っている場合に,
として与えられると説明している.これはいくつかある血縁度の数理表現の1つであり,血縁度が遺伝子頻度の集団平均との差異と深くかかわることが理解しやすい形になる(共分散と回帰による別の数理表現が第8章できちんと解説されることになる.そこでは集団平均との関係についてグラフェンの秤を用いた説明がなされている).
ここでは,よくある「共通先祖から稀な遺伝子を共有する確率」は近似値となることも注記されている.なお章末にはその近似計算である家系図を使った血縁度計算の補論コラム*5が収録されている).
また (ただし
は当該行動がない場合の適応度)が包括適応度とされるもので,ハミルトンは血縁者の生存・繁殖に影響がある場合には生物は(個体の適応度ではなく)包括適応度最大化に向けて進化するとしたと説明されている.
<グループ淘汰>
冒頭で「種の存続のため」のようなナイーブグループ淘汰の主張とウィリアムズとドーキンスによるその否定がまず語られる.しかし家族のような小さなグループに働くグループ淘汰は見方を変えた血縁淘汰と捉えることが出来るとして,包括適応度理論とマルチレベル淘汰(著者はデーム内群選択と呼んでいる)が数理的に等価であることが直感的にわかるように図示され(数理的には第8章で詳しく解説される),本書ではマルチレベル淘汰と血縁淘汰を同じものとみなすと宣言されている.この両理論の数理的等価性をはっきり明言している書籍はあまりなく,本書の素晴らしいところの1つだ.
<緑髭効果>
緑髭効果については,その概念(より直接的な血縁淘汰の1種と考えることが出来る),理論的にはあり得るが実際には見つからないと思われていたこと *6,しかし粘菌の一種でそのような遺伝子が発見されたことが説明されている(第6章で詳しく説明される)
<他個体による操作>
社会性昆虫のワーカーについては,親の女王によって子をワーカーにすることが有利になれば,そのように操作することにより進化可能ではないかという議論がかなり初期からあったことがまず学説史的に振り返られている(詳細が面白い).
ここから操作説には「なぜ子に対抗進化が生じないか」を説明する必要があること,ただ実際に自然界には操作されている(対抗進化が生じていない)と考えられる実例(奴隷アリ,オス殺し寄生体など)が多いことがまず解説される.そして社会性昆虫のワーカーの場合には,一旦操作が生じたあと,子側の対抗戦略としては,操作に抵抗する方法とより自分の包括適応度を上げるように親に協力する方法の両方が考えられることが指摘され,血縁淘汰と操作が同時に働いた時に何が生じるかを考察することが重要だとまとめられている.
<互恵性>
冒頭で互恵性モデルと相利性モデルの違い(同時的な1回の相互作用か異時的な複数の相互作用か)が整理され,そこから互恵性モデルの場合裏切りの危険があること,繰り返し囚人ジレンマゲームによる分析がなされた経緯が説明される.
ここで進化条件は,ハミルトン則に似た形 (ただしr’は協力した他個体があとで返礼してくれる確率)で示せることが指摘される.ここから互恵性で協力が成立する集団には,協力的戦略者同士の相互作用がランダム以上の確率で生じる何らかのしくみがあると解釈できること(血縁淘汰的解釈)が説明される*7.
続いて互恵性による利他行動が(ヒト以外の)生物で起こり得るかという問題が解説されている.しっぺ返し戦略には裏切りの記憶とそれに合わせた行動が必要であり神経系の発達した動物でなければ難しいと考えられており,今までそう報告された例はわずかで脊椎動物*8に限られると指摘されている*9.
最後に,繰り返し囚人ジレンマの進化的な安定解は無条件非協力であることが指摘され,実際には哺乳類の互恵的行動の進化には(子育て,血縁者間協力などの)前適応が重要だと考えるとコメントされている.
<間接互恵性>
冒頭で間接互恵性の行動規則には上方互恵性(先に自分が誰かから協力されると第三者に協力する)と下方互恵性(誰かに協力している人は評判が高まり協力されやすくなる)があると整理されている.
そして下方互恵性である評判を通じた間接互恵性の進化条件は,やはりハミルトン則に似た形 (ただしr’’は相手が自分の良い評判を知っていて協力を受ける確率)で理解できると指摘されている.
ここから間接互恵性のヒトにおける観測事例*10,巌佐と大槻による進化的安定性の理論的研究,その実証実験が紹介されている.
辻は間接互恵性は,特にヒトについて,道徳の生物的基盤,文化との関連をめぐって議論があり,進化心理学で探求されていること,最近再現性の問題が浮上していることに触れた上で,いずれにせよ社会性昆虫のワーカーの問題は互恵性仮説では説明できないとして本章を終えている.
第5章 実証研究
第5章では利他形質の進化についてどのような実証研究がされてきたのかが扱われる.冒頭で(1)「利他形質進化の一般機構としての血縁淘汰理論の妥当性」と(2)「膜翅目社会性昆虫の不妊ワーカーは血縁淘汰で進化したのか」の区別が重要であると特に注記がある.前者は一般理論,後者はその一般理論の応用仮説の1つということだが,これが混同されてきた不幸な事情(たとえばNowakとEO Wilsonの包括適応度否定論文などに顕著にみられる)が落としてきた影が感じられる.
ここから具体的リサーチや具体的トピックが解説されている.
ベルディングジリスの血縁個体に向けた警戒音のリサーチ,鳥類のヘルパーのリサーチ*11,血縁度の高い群れをつくる動物群で様々な不妊カーストが見つかったこと*12,ヒトの閉経とおばあちゃん仮説*13,血縁淘汰の状況証拠としての血縁識別の至近的メカニズムを解明した様々なリサーチ*14.血縁識別の不完全性をどう理解するか*15,ヒトの子殺し(血縁度の低い継子の方が被害に遭いやすい)リサーチ*16,ヒト男性の同性愛についての血縁淘汰的仮説・拮抗的発現仮説・母性免疫説*17などが扱われている.
上記リサーチは「動物の個体間相互作用には血縁関係が強い影響を与えており,コストのある協力が血縁者に向けられていることが多いこと」を示している.ここからより定量的に包括適応度仮説を実証しようとしたリサーチ事例が解説される.
冒頭でハミルトン則を野生生物で実証するアプローチについて(1)ハミルトン則を満たす時に利他性をコードする遺伝子が本当に集団内で頻度を増やすかを確認する手法(2)ある集団でハミルトン則を満たしている現状がある場合に利他的行動が見られることを確認する手法の2つがあるが,(1)は実際には難しく,これまでのリサーチは(2)の柔軟なハミルトン則解釈法に沿ったものであったこと,それらは1970~80年代にかけて様々な動物で精力的に行われたことが説明されている.
そこからアシナガバチの多雌創設*18,シチメンチョウのオスの共同求愛,グッピーのオスの求愛競争のリサーチが紹介されている.またこの(2)のアプローチには,同一個体に異なる行動をとらせることが事実上不可能,条件依存的行動である可能性が排除できないなど厳密な対照実験がきわめて困難で,様々な限界があることが説明され,辻自身はこのアプローチに懐疑的であることも語られている.
第6章 ハードコア社会生物学
第6章は利他形質の実証的リサーチの総説.特に社会性昆虫の深い世界が紹介される.これまでの日本語の教科書では深い解説が敬遠されがちだが,きちんと理解すれば面白いはずだという思いが章題に込められている.
最初に取り上げられるのは包括適応度理論の特殊応用例であるハミルトンの3/4仮説.
- ハミルトンの3/4仮説は,「なぜ(それ以外の動物ではほとんどみられないのに)膜翅目昆虫で不妊ワーカーが独立に9回も繰り返し進化したのか」という問いに半倍数性という性決定システム(メスにとって姉妹との血縁度が3/4と高いこと)で説明しようとしたものだ.これは上記パターンを上手く説明でき,かつ当時としてはまさに目から鱗の独創的なものだった.
- これについては多くの批判も寄せられた.主要な批判にみられる論点には理論的なものと実証的なものがあった.
<交尾回数>
- 実証上の批判としては,実際の膜翅目昆虫のコロニー内血縁度がハミルトンの想定(単女王制・1回交尾)と一致しているか(多女王制,多回交尾の種が現在広く存在する)というものがあった.
- これを吟味するには起源の問題と維持の問題をわけるべきだ.ハミルトン仮説は起源についてのものだ.彼は単独巣創設の亜社会性を経て真社会性が進化するという当時の定説に従っていた.しかしこの定説には対立説があり,それは真社会性は血縁関係のない同世代のメスたちが共同で巣を創設する状態から進化したというものだ(日本の坂上昭一や伊藤嘉昭がこれを唱えた).
- のちに系統樹を用いた大規模な比較法で真社会性の祖先的状況を推定したリサーチによれば,膜翅目で不妊ワーカーは9回独立に起源し,そのすべてで単女王制・1回交尾であったと推定された.これは3/4仮説を否定する根拠が見つからなかったということだし,不妊ワーカーが進化するには単女王制・1回交尾という段階を経なければならなかったと解釈できるし,またかりに(3/4仮説の対立仮説である)操作説をとるにせよ,3/4仮説がいうような高血縁度がなければワーカーの対抗進化を阻止できなかった(操作説が至近要因であっても血縁淘汰が究極要因)と解釈できる.
- ではなぜ多回交尾や多女王制が現在(特に高次真社会性昆虫に)多くみられるのか.*19.
- これは不妊ワーカーが進化したのち,内部の遺伝的多様性が高いコロニーが有利になるような状況がしばしば生じ,二次的に多回交尾が収斂的に進化したと想像されている.ではなぜ多回交尾(多いものでは数十回)が進化してメス間の血縁度が下がっても真社会性が維持されているのか.これは高次真社会性昆虫においてはワーカーの特殊化が進み,血縁度が下がったからといってすぐに独立して自分で繁殖することが困難であるからだと考えられる.そのような選択肢がないワーカーにとってはハミルトン則のcはゼロとなり利他行動が維持されるのだ(この段階に至れば,血縁淘汰のフレームワークよりコロニー間淘汰のフレームワークの方が分かりやすいかもしれない)
- 少し戻って,では内部の遺伝的多様性が高いコロニーが有利になるような状況とは何か.これについては寄生者への対抗説と分業促進説があり,それぞれそれを支持するような実証研究がある.
<性比>
- 3/4仮説に対する対抗仮説には操作説(女王による操作で不妊ワーカーとなる)がある.これに対してはトリヴァースとヘアによる性比に注目したリサーチがある.彼らはコロニーの性比には女王とワーカーにコンフリクトがあり,ワーカーの望む性比に近くなっていることを確かめた.(なお操作説側からの反論,別の対抗仮説としての局所配偶競争説も紹介されている)
- 多くの追試がなされ,おおむねトリヴァースとヘアの結果を支持したが,なお投資比を直接測定するのは困難だという問題は残った.また局所配偶競争で説明できそうな例も報告された(辻自身のリサーチ).
- ボームスマとグラフェンはトリヴァースのヘアの議論を拡張し,もし膜翅目社会性昆虫ワーカーが性比をコントロールしているなら,同じ個体群内に,(女王の交尾回数に応じて)オスばかり作るコロニーとメスばかり作るコロニーに二分されやすいと予測した(分断性比).そしてすぐにヤマアリでこれと見事に一致するデータが報告された.これは包括適応度理論の決定的な証拠と評価できる.
<進化条件>
- 包括適応度理論からみた半倍数体生物の不妊ワーカー進化条件は,母親1回交尾の上で,(1)最初はメス産卵を母にまかせオス産卵のみする未交尾メスの戦略が進化し,二次的にオスも母親が生むようになるか(2)不妊となり繁殖放棄する形質と性比をコントロールする性質が同時発現するのどちらかとなる.(2)の方が条件が厳しく難しそうだが,コハナバチの仲間における実証リサーチでは(2)の方が支持される結果*20が得られている.
<ポリシング>
- ポリシングは包括適応度理論による理解が最も進んだ研究テーマだ.ここでは「他個体の繁殖成功度上昇を妨げる個体形質」と定義する*21.このうち妨害者自身の繁殖成功に繋がるものを利己的ポリシング,包括適応度の間接成分の上昇に繋がるものを純粋ポリシングとして区別する.
- 背景としては未交尾ワーカーがオス卵を生むことが可能な種が多いことがある.この場合ワーカーは自らオス卵を生む方が包括適応度的に有利になりやすい.それでもそのような形質があまりみられないのは他ワーカーからの妨害(ポリシング)があるからであり,そのような妨害行動を生むコンフリクトが包括適応度理論で予測できるという考えはワーカーポリシング理論と呼ばれる.そして実際にセイヨウミツバチではワーカーがある程度オス卵を産み,それが他ワーカーに排除されていることが報告され,カリバチ類で1回交尾コロニーと多数回交尾コロニーでワーカー産卵頻度が(理論の予測通りに)異なることも確認された.
- ポリシングはワーカー間コンフリクトなので,軍拡競争が生じ得る.実際にオーストラリアのセイヨウミツバチではポリシング回避可能なオス卵を産む系統*22が見つかった.これが稀にしかみられないのは,このような形質がコロニーパフォーマンスを大きく低下させるため,包括適応度的にもあまり有利にならないからだと考えられる.
- ワーカーポリシング理論から導き出されるコロニー内血縁構造(女王交尾回数によるワーカーからみた姉妹の子と息子の血縁度の違い)によるワーカーポリシングの進化しやすさの予測(多回交尾コロニーの方が進化しやすい)はおおむね実証データで支持されている(1回交尾コロニーでは女王がポリシングを試みる傾向がある).いずれにせよワーカーの不妊性維持の至近メカニズムには他個体からの強制がある.ワーカーポリシングが強力な場合,女王フェロモンは自分が健康であることを示す(女王死亡の場合の保険としてワーカー産卵する必要がないという自己抑制を促す)シグナルとして機能しているのかもしれない(これについての正直シグナル説とワーカー操作の化学兵器説について少しあとで細かな解説*23がある).
- ただし実証データには(包括適応度的には進化しないと予測される)1回交尾種でもワーカーポリシングがみられる例がかなりある.これはなぜか.大槻と私は性比,オス卵生産権,コロニー成長と繁殖の投資切り替えにおけるコロニーメンバー間のコンフリクトが同時進行するとどうなるかという包括的な数理モデルを組み上げた.それによるとオス生産による生産量低下要因が効いて1回交尾コロニーでもコロニーが若い時期にはワーカーポリシングが生じ,かつワーカー産卵自体抑制されるという予測が得られ,トゲオオハリアリの観測データはこの予測に当てはまった.つまりワーカーポリシングとは単に血縁度の高い個体を残そうとする行動ではなく,包括適応度最大化に向けての行動だということだ.
<繁殖の偏り>
- 共同繁殖する動物種における劣位個体のヘルパー化傾向が包括適応度理論で量的に説明できるかという問題は「繁殖の偏り理論」を生み出し,1990〜2000年代に活発にリサーチがなされた.理論モデルには組み込むパラメータや(意思決定主体や選択肢の)前提により様々なバージョンがある(リーブとラトニエクスの譲歩モデルが詳しく解説されている)
- 活発なリサーチが一段落した頃に出されたメタ解析では,血縁度と繁殖の偏りの関係は27例中21例で無相関だったし,最近のメタ解析でも同様な結果だった(相関が示されたヤマトシロアリのリサーチも紹介されている).
- 私は当時から(パラメータが多く前提が様々でモデルごとの予測がばらばらになることもあり)このアプローチには懐疑的だった.このアプローチは理論予測を検証するというよりも,今まで気付かなかったあるいは説明できなかった現象に新たな解釈を与えるという意味合いが強かっただろう.(個体の力量差や繁殖タイミングの要素についての考察がある)
<微生物の利他性>
- 粘菌類では餌が欠乏した際に胞子群とそれを支える柄からなる子実体を形成する.柄となる細胞は利他性を示しているといえる.キイロタマホコリカビで利他性の一部をコードする遺伝子が特定された.そしてそれはありそうにないとされていた緑髭遺伝子だった.(詳しい解説がある)
- 利他性の遺伝子の問題の核心は「発現した個体の適応度を下げてしまうような遺伝子が,いかに集団内に広がっていくのか」という力学的な問題だ.包括適応度理論は「
が満たされるとき,利他者は裏切り者の侵入に対して進化的に安定である」と予測する.そしてレンスキたちはこれをミクソコッカスという粘液細菌を用いて実験的に実証した.(詳しい解説がある)
<社会の癌>
- アミメアリはすべてのワーカーが皆で働き,そして皆が単位生殖クローンを行う亜社会性のアリだ.三重県の一部地域で産卵だけして働かない「裏切り」個体が発見された.当初はこの裏切り個体はコロニー内で新たに突然変異で生じ,コロニー内で頻度を増やすが,(生産性低下による)コロニー消滅とともに滅びるいわば「社会の癌」のようなものだと考えた.しかしDNA分析によると300〜1万年前に一度だけ発生した突然変異型個体の子孫クローン系統だった.これが存続できたのは,裏切り者が一部分散して新規の宿主コロニーに侵入していくからだった.これはいわば感染性の社会の癌だ.
- これに似た現象はケープミツバチ,タスマニアデビル(この場合はコロニーではなく個体内の癌細胞が他個体に侵入する形になる)でも発見されている.これらの事例は生物界における協力と非協力の進化ダイナミクスを短期間に直接観測する絶好の機会を提供している.
- 社会性昆虫の様々な特徴はこのような「社会の癌」に対する免疫機能として考察することが出来るかもしれない.
第7章 残された問題
第7章は利他性リサーチの最近の話題や今後の課題を扱っている.最初に取り上げられているのはNowakとEO Wilsonほかによる2010年の包括適応度理論批判論文とそれに関する論争だ.
<Nowakによる包括適応度批判>
- Nowakの論文の主張は以下の通り
- 包括適応度理論にはいくつかの仮定が前提になっていて理論的一般性がない.標準自然淘汰モデルは包括適応度理論による予測を包摂しており,後者は不要である.
- 包括適応度理論は浅薄で,3/4仮説は実証研究で否定されている,あるいは実証研究との間で相互参照という研鑽作業を欠いている.血縁度はしばしば定義不能で曖昧な概念だ
- 膜翅目昆虫の真社会性進化については別のシナリオを提示する:母親が巣で随時給餌する生物において,子がヘルパーになる突然変異が生じるとする.一定の条件下で(防衛可能な巣の存在が重要)無性生物でも半倍数体生物でも同じように真社会性が進化することを示せる.このシナリオでは高い血縁度は結果にすぎない.
- 私の感想は(特に2番目については全く認めがたく)大手商業誌のセンセーショナリズムだというものだ.そして即座に出された多数の専門家による反論論文の共著者の1人となった.私なりの反論は以下の通り.
- 彼らの(1)の主張は過去に言い尽くされており新規性がない.包括適応度理論の前提は理論家により古くから認識されており,研究も進み,この仮定がNowakたちがいうほど制約的ではないことがすでに示されている*24.彼らのいう標準自然淘汰モデルと,そこから仮定をおいて導かれたいわば特殊バージョンである包括適応度理論を秤にかけるのは間違っている.後者の方が特殊なのは自明だ.包括適応度理論は適応度を直接成分と間接成分に分けて考えるもので.そうでない整理法(標準自然淘汰モデルの場合,死亡と出生に分けて考える)のみが正しいとするのは偏狭だ.
- 包括適応度理論には実証研究との切磋琢磨により進められた膨大な研究史がある.せめて膜翅目昆虫における性比とポリシングの研究ぐらいは参照してから批判してほしい.
- 真社会性進化についての彼らのモデルの方が相互作用する個体間の適応度変化のあり方を恣意的に仮定している.彼らのモデルの結論は,ヘルパーが母親の適応度を高めることが真社会性の進化機構だというものだが,母親の視点で計算している以上結論は自明なものだ.これは基本的に女王による完全操作説をとっていることになる.さらに無性生物と半倍数体生物を比較しただけで血縁度の重要性を否定するのは論理の飛躍だ.
- とはいえ,彼らの論文にも前向きに評価すべきところがないわけではない(昆虫の真社会性の起源を探る上で重要そうな論文が多く引用され,個体間分業の創発の可能性を提示している部分を挙げている*25)
Nowak論文についての辻の反論は私の感覚に近いものだ.辻としては専門家であるEO Wilsonが著者に加わっているにもかかわらず,社会性昆虫と包括適応度についての膨大な研究史を全く無視しているのは許しがたいということだろう.それでも評価できるところを挙げているのはEO Wilsonへの敬意ということかもしれない.彼らの真社会性進化シナリオはコロニー内の女王とワーカーのコンフリクトを無視した浅薄なものだが,それを(性比のリサーチなどから考えて実証的にはありそうもない)女王完全操作説だとコメントしているところ*26にもEO Wilsonへの敬意が感じられる.
<個体発生メカニズム>
ここから辻は真社会性進化の個体発生的メカニズムの話題に進み,ワーカー的形質の発現とJH(幼若ホルモン)の遺伝子発現カスケードの関連のリサーチの現状を解説している.いくつかの複雑な論点と有望な仮説が紹介され,今後DNAシーケンス技術やオミクス技術の発達が解明に役立つだろうとしている.
<社会生理学アプローチ>
集団の振る舞いを個体の相互ダイナミクスから理解しようとするアプローチは社会生理学と呼ばれ,分業や集団採餌行動の制御機構がリサーチされている.ここでは辻自身が社会生理学的なアプローチをとって,真社会性コロニーをつくるアリたちがいかに所属コロニーの大きさを「知覚するか」をリサーチした事例が紹介されている.
<アリの融合コロニー性>
続いてアルゼンチンアリなどにみられる融合コロニー性がテーマとして取り上げられる.
- アリには,コロニー境界が消失して多数女王と多数の巣からなる巨大な単一のコロニーが出現する現象があり,融合コロニー性と呼ばれる.
- 融合コロニー性ではコロニーメンバーの血縁度は低下する(実証研究もある).これはフリーライダーの侵入に弱いはずだ.ではなぜこのような現象が見られるのか.
- 1つの可能な答えは,これが外来生物にだけ見られる非適応的な現象だと考えるというもので,実際確実に融合コロニー性が確認されているのは高度に侵略的な外来アリの侵入先集団だけだ.
- しかし融合コロニー的な現象は在来アリでも多数報告されている.これは包括適応度理論に対する最大の挑戦とされることもある.
- これらの融合コロニー的な状況は進化の袋小路だ(いずれフリーライダーが侵入して絶滅する)と考える研究者もいる.片方で近縁種がともに融合コロニー的なヤマアリ類が複数存在するので,袋小路説に懐疑的な研究者もいる.近年では一見融合コロニー的に見えても実は内部に局所集団的な構造があるのではと考える研究者が増えてきた.
- 私はこの現象は新コロニー創設法(独立創設と分巣)と関連するという独自の説を提唱している.分巣による創設は繁殖までの時間を短縮でき,撹乱環境では有利になる.一部のアリは環境にあわせて独立創設と分巣を使い分ける.すると侵略的外来アリが侵略してきたような場合は分巣が有利になり,それにより分布を拡大し続けた結果スーパーコロニー化したと考えられる.つまり融合コロニー性は進化現象ではなく条件付き形質発現による生態学的現象だということになる.この現象を解明するには行動,遺伝,系統,生態,発生すべてを組み込んだ詳細なデータ収集が必要となるだろう.
<マクロ生態学とのリンク>
本章の最後に主に個体レベルの形質進化を扱う行動生態学(ミクロ生態学とも呼ばれる)とより大きな群集や生態系を扱うマクロ生態学とのリンクというテーマが取り扱われている.
- 近年形質進化と群集動態は同じ時間スケールで相互作用しながら進み得ることが理解されるようになった.しかしなおこの2つの相互作用はあまり注目されていない.ここではそれに関連するアイデアを1つ挙げておきたい,
- アリなどの新社会性昆虫ではコロニー間に(種内寄生に対抗すべく血縁淘汰で進化したと思われる)敵対性が広くみられる.しかし種間の敵対性はそれほど大きくない.これは多種共存を推進する力になっている可能性がある.私は沖縄のトゲオオハリアリ*27でこれを実証するプロジェクトを進めている.
第8章 社会進化の数理モデル
第8章はここまでとがらっと雰囲気を変えて,重要概念を整理し,数式もたっぷり登場する理論解説章になる.
内容的には以下のテーマが扱われている.
<遺伝子などの概念定義,初歩の統計解説>
まず基礎講座として,遺伝子・遺伝子プールの定義,自然淘汰により遺伝子頻度が変化するプロセス,適応度概念,母集団パラメータと標本統計値の関係,分散,共分散,相関,回帰の初歩解説がある.この共分散と回帰のところは包括適応度的には重要なので詳しく説明されている.
<ハミルトン則と血縁度>
次に包括適応度理論の根幹に進む.まずプライス方程式が解説され,そこからハミルトン則が導出される.そこから血縁度に関しての非常に深い解説がある.血縁度は誤解されやすいところなので,特に回帰に基づく厳密な数理的定義(それと一般的な解説でよく見かける「稀な同祖性遺伝子共有率に基づく血縁度」概念との関係),集団平均との比較の重要性あたりの説明には力が入っている.グラフェンの秤の解説は最近の行動生態学の文献では実はあまり見かけないもので貴重だ.この回帰に基づく血縁度の定義はとなる(x,x’ は社会相互作用の行為者と受け手の遺伝子型値).
さらに血縁度が集団平均に対する相対的概念であることから来る特殊な集団内で血縁度がどうなるかという問題*28,同祖性血縁度概念のメリット*29,身替血縁度(life for life relatedness)と回帰血縁度(regression relatedness)*30,単純な離散世代生物でない場合の計算と繁殖価*31,適応度と遺伝子頻度評価タイミングの関係が解説されている.
<包括適応度>
包括適応度についてのよくある定義*32と,繁殖価概念を加えた数理的に厳密な定義(ここでは特に半倍数体生物を念頭において雌雄を区別したテイラーによる包括適応度定義)が紹介され,さらにプライス方程式を使ったこの厳密な定義の導出が解説されている.
なおよくある包括適応度WIの定義は相互作用しないときの個体適応度をとして,
テイラーによる雌雄を区別した厳密な包括適応度WIの定義は次の通りになる.
ただしは性
の繁殖価,
は遺伝子
の個体から見た性
の投資相手の回帰血縁度,
は投資
に対する生涯繁殖成功度への見返りを表す.
<性比>
ここから包括適応度理論応用の花形とも呼べる様々な性比の議論が,上記のテイラーの包括適応度を用いて数理的に解説される.まずフィッシャー性比と頻度依存淘汰が数理的に解説され,そこから血縁者間の局所相互作用と性比(局所配偶競争,局所資源競争),トリヴァースとヘアの性比予測,ボームスマとグラフェンの分断性比が解説されている.簡潔に性比理論が概観されていて読みごたえがある.
<グループ淘汰>
ここで包括適応度理論(血縁淘汰)とマルチレベル淘汰(本書ではデーム淘汰と呼んでいる)が数理的に等価であることが詳しく解説されている,これについての日本語で読める数理解説は,私が知る限り,冒頭でも紹介した辻の手になる「行動・生態の進化」第2章「血縁淘汰・包括適応度と社会性の進化」にある「血縁淘汰と群淘汰のモデル」というコラムだけだった.それがブラッシュアップされた部分ということになる.
ここではプライス方程式から始め,プライス共分散分割式を導き,集団全体の遺伝子頻度変化をグループ淘汰効果と個体淘汰効果に分け,前者の方が大きい状況が,利他形質が進化する条件であることを導き*33,それが一定の線形性の仮定の元,ハミルトン則と一致すると説明している.*34
<量的遺伝モデルによる表現型への自然淘汰圧の評価>
これまでの議論は単一遺伝子の遺伝子型値(2倍体生物の個体の場合0,0.5,1)を使って遺伝子頻度の増減を議論してきたが,ここでは表現型の変化をどう扱うかが解説される.表現形質値が遺伝型値により相加的に定まり,表現型値の世代間変化を定めるために遺伝率あるいは淘汰勾配を考慮することになる.そして複数遺伝子座で相加的に形質が定まる場合についての行列を使った数理表現がどうなるかが解説されている.
<コンテクスト分析とクエラーの一般血縁淘汰モデル>
遺伝子プールが複数の局所的なサブグループに分かれているという状況において,上記プライス共分散分割式からではなく,個体の適応度
が個体自身の形質
とサブグループの形質値の平均
の影響を受ける場合,それぞれの影響度を個体淘汰勾配
とグループ淘汰勾配
とおいて重回帰分析する手法が紹介されている.一定の前提の元でこの重回帰式は
,
とおいた適応度関数となり,このb, cが一般化した血縁淘汰モデルにおけるハミルトン則の係数を規定するものとなる.辻はこの一般血縁淘汰モデルは(プライス共分散分割式を用いたマルチレベル淘汰モデルに比べて)血縁度のデータを合わせることで進化方向を予測できるというメリットがあるとしている.
<社会的相互作用がある場合の適応度と形質値の関係>
続いて辻はこのコンテキスト分析の手法を用いて,社会形質をいくつかのパターン(利他形質,純粋グループ淘汰,ハード淘汰,ソフト淘汰)に分けて説明している.ポイントは淘汰勾配,
と淘汰差
],
]の関係で,かなりマニアックな部分の解説になっている.
<グループ淘汰と個体数制御>
ここで辻はマルチレベル淘汰で利他形質の進化が生じる場合,そのモデルにおいて個体数制御が遺伝子プール全体にかかるのか,サブグループ単位でかかるのかによって大きな差があることをウィルソン・コールウェルモデルを使って詳しく解説している.特定サブグループ内に利他形質個体の割合が高くなったときに,個体数制御が全体にかかるのであればその利他的グループの個体数が素早く増加して遺伝子頻度が増加しやすいるが,サブグループ単位でかかるのであれば利他的サブグループの個体数増加も抑えられてそれほど急速には増加できないということが図解も含めて説明されている.この辺は実務的なモデル設定の時に問題になりやすいということなのだろう.
<適応地形>
また偶然あるサブグループの個体すべてが利他形質個体になった場合に利他形質進化にブーストがかかることも解説されている.そしてこの現象はこのような偶然の効果により適応地形の谷*35を越えることが出来ると捉えることが出来ると説明している.
あとがき
辻は「あとがき」で,包括適応度理論vsグループ淘汰理論の専門家たちの意見対立についての意見表明を行っている.含蓄のある部分なので紹介しておこう.
- 両理論の数理的等価性についてはその理解が(特に数理専門家の間で)広がってきた.
- しかし「どちらが優れているか」「どちらが有用か」については対立は根深く,溝は埋まりそうにない.
- それはおそらく,包括適応度理論支持の適応デザイン論者とマルチレベル淘汰支持の進化遺伝学者の哲学の違いに起因するのだろう.適応デザイン論者は生物の合目的的なデザインを説明することに興味があり,進化遺伝学者は適応だけでなく突然変異,浮動,移動分散などのプロセスすべてに興味があるのだ.
- 適応デザイン論者はマルチレベル淘汰アプローチについて「グループ間淘汰とグループ内淘汰のバランス? それで何が分かるのか? 『形質の進化は包括適応度最大化に向かって進む』という方が誤解も少なく直感的に理解しやすい」と感じるのだろう.バランスの結果こそが知りたいのであり,その答えは包括適応度最大化で得られるという感覚なのだろう.
- このような適応デザイン論者の感覚について,私も大いに同じように感じることがあるが,しかし全面的には賛成できない(マルチレベル淘汰の枠組みの方が理解しやすい場合*36もあるという趣旨).適応デザイン論者は「我々の存在の意味」や「生命の目的は何か」などの西洋文化の思考パターンに無意識的に執着しているのかもしれない*37.もう少しフラットで記述的発想を取り入れた方が良いのではないか.
包括適応度理論とマルチレベル淘汰の論争に関しては私も本ブログでいろいろと取り上げてきたが,辻の分類に従えば,私は適応論者的だということになるだろう.そしてなぜ私が包括適応度モデルを使った方がわかりやすいと思うかといえば,それは多くの社会形質は結局個体の行動レベルの現象であり,その場合にはその個体が遺伝子のエージェントとして包括適応度最大化を試みると解釈した方がわかりやすいと思うからだ.そして辻のような社会性昆虫研究者にとってはコロニー単位の形質を念頭にマルチレベル的に考えた方がわかりやすい問題がいろいろ見えてくるということだろう.なかなかこの問題は奥深い.
本書は利他形質の進化について,包括適応度理論・血縁淘汰とマルチレベル淘汰の数理的等価性を前提にした詳しい解説を行い,さらに社会性昆虫リサーチの実務的な観点から深く吟味されている専門書だ.
これらの解説を日本語で読もうと思えば,これまでは様々な教科書や数理生物学者の書いた入門書の当該部分を拾い読みして,それを統合的に理解するしかなかった.特に上述の包括適応度理論とマルチレベル淘汰理論の数理的等価性や血縁度についてのグラフェンの秤,回帰血縁度と同祖性血縁度の関係についての解説は,理論的に非常に重要なところだが類書にはほとんど見られないものであり(ただし本書のブラッシュ元である同じ著者による2006年の「行動・生態の進化」第2章にはかなりの部分が取り上げられている),非常に貴重な一冊だ.またNowakの包括適応度批判が巻き起こした論争についてもきちんと取り上げられているし,一般血縁淘汰モデルとかハード淘汰とソフト淘汰の説明などマニアックな部分も充実している.
この包括適応度理論と利他性の進化というテーマは,私個人が特に興味を持っていることもあり,本書を数式を展開して吟味しながら読むことは,大変充実した読書体験となった.利他形質の進化,包括適応度理論とマルチレベル淘汰に関心のある方には必読文献として強く推薦したい.
関連書籍
本書のブラッシュアップ元である辻による第2章が収録されたシリーズ進化学第6巻「行動・生態の進化」.日本において行動生態学が興隆してきた直後の熱気の伝わる一冊だ.
包括適応度理論が数理的に解説されている本.それぞれ回帰血縁度が数理的に解説されている.この中では山内本がプライス方程式から血縁度を導出するなど最も踏み込んでいるが,包括適応度理論とマルチレベル淘汰理論の等価性については1975年のハミルトン論文の紹介とともに「同等のメカニズム」という言い方に止まっている.粕谷本も回帰血縁度を説明したのち血縁度の計算方法を詳しく解説しているが,包括適応度理論とマルチレベル淘汰理論の等価性については前者は後者の特殊バージョンと見ることも出来,いずれ後者の遺伝的な部分を含んだ数理モデルが整理されれば両者の関係が明らかになるだろうとだけ述べている.
山内本,巌佐本の私の書評は以下の通り
shorebird.hatenablog.com
shorebird.hatenablog.com
日本語でグラフェンの秤が解説されている本は,私が知る限りこの本だけだった(原書第3版であり,第4版以降はこの説明が残念ながらカットされている)
血縁度に関しての私の理解はこの記事の下部にある
shorebird.hatenablog.com
Nowakの包括適応度批判論文についての私の総評(連載記事のまとめ)
shorebird.hatenablog.com
*1:通常の社会作用は,遺伝子プールの個体全部ではなく,その中の一部とのみ行う,このため相対適応度を用いた場合には,スパイトや相利形質において直感的な行動類型と定義が上手く一致しないケースが生じる
*2:辻の見解は「利己的遺伝因子に限って「利己的遺伝子」を使うべきだという河田の主張は分からないでもないが,啓蒙的な効果は微妙に思える.ドーキンスは「利己的な遺伝子」により遺伝子視点というパラダイムを普及させた.これは集団遺伝学の概念(遺伝子視点で見ると自然淘汰で残るのは利己性しかあり得ない)を見事に表現したもので功績だ.個体をヴィークルという比喩で表現したところも直感的な示唆に富んでいる.ただし擬人主義による弊害もあるだろう」というもの.私の考えにかなり近いと思う
*3:だから最近の教科書等では「利他」でなく「協力」という慎重な言い回しが多いということになる
*4:ここでいう個体内頻度は2倍体生物でホモで持っている場合には1,ヘテロの場合0.5という数値になる
*5:半倍数体生物の血縁度計算も収録されている.またこの家系図による計算が近似であり,いくつかの重要な仮定(たとえば共通祖先同士に血縁がないこと)があることも注記されている.さらにここでは命対命血縁度(身替血縁度 life for life relatedness)と回帰血縁度(regression relatedness)の概念の違い(半倍数体生物の場合これが異なってくる)についても詳しい説明がある
*6:利他形質を持つこととそれをシグナルすることの両方が必要になり複雑で難しそうなこと,シグナルだけ送るただ乗り形質により簡単に崩壊しそうなことから難しいと考えられてきた
*7:ここでは血縁淘汰より互恵性モデルの方がより最節約的な説明だとする互恵性支持論客がいること,そのような論客は集団内に家族のような固定的構造を想定することを嫌うが,グループ淘汰的な想定には肯定的であること,そして血縁淘汰支持者には逆の傾向があることを指摘する皮肉っぽい解説がある.これはマルチレベル淘汰論者と包括適応度論者の対立のことだ.辻は両者の観点は近く,哲学の違いであり,ことさらに意見対立を煽るのは賢明でないと考えるとしている
*8:同時的雌雄両性魚類の小刻みなオス役とメス役の交代事例,チスイコウモリの例が紹介されている
*9:辻は実証例が少ないのには,実際には相互作用の相手には血縁個体が多く含まれ血縁淘汰との区別が難しい,また厳密な適応度の計測は期待生涯繁殖成功度への効果を測ることになるがそれは非常に困難であるという事情が大きいだろうとコメントしている
*10:いずれもネットにおけるサービスコミュニティ内の事例で興味深い
*11:適応度計測が難しく,様々で複雑な状況下にあるが,現代的比較法では血縁淘汰的予測が実際のヘルパー行動をよく説明することが指摘され,シロビタイハチクイのリサーチが詳しく紹介されている
*12:学説史的な記述になっており楽しい.最後に不妊カーストは血縁度だけでは決まらないことに注記がなされている
*13:ここでは閉経してそれまでに生んだ自分の子育てに注力する「おばあちゃん効果」と孫などの子育てを手伝う「適応的おばあちゃん効果」を分けて考察していて(利他行動の定義に従って)記述が細かい.閉経はヒト以外でクジラ類やゾウ類でも報告されていること,「子を生まなくなったあと長く生きる」だけなら一部のカメムシ目昆虫(虫こぶの中で産卵を続けるクローン娘たちと一緒に暮らす.老齢メスは産卵をやめ虫こぶに侵入する外敵に対して自爆防御する)やアミメアリ(単為生殖する多数のメスでコロニーが形成され,コロニー内の血縁度は高い.老齢メスは産卵せずに採餌や防衛などのリスクの高い仕事をする)でみられることが注記されている
*14:遺伝的な血縁シグナルが進化し得るか(チートシグナルにより協力システムが崩壊しないか)についての考察(クロージャーのパラドクス)は興味深い.免疫系の遺伝子の多面発現により可能かもしれないとされている
*15:完全な識別ができた方が血縁淘汰的に有利になれるとしても匂いなどのシグナルは混濁してしまうという情報的限界がある.また識別される側の対抗進化により何らかの特徴隠避が進化する可能性がある.最後に血縁識別が血縁淘汰の必要条件でないことが注記されている
*16:ここでヒトの行動の進化的リサーチに対して,しばしばなされる非専門家からの「非倫理的行動を進化研究が擁護する」という批判が自然主義の誤謬に陥っていることを指摘するコメントがある
*17:血縁淘汰仮説は同性愛行動を利他行動として説明するもの.現在では支持されていない.拮抗的発現仮説は,女性において有利になる形質(配偶者選択で有利になる女性らしさなど)を持つ遺伝子が男性において同性愛傾向を生じさせるとするもの.母性免疫説は男児を何度も妊娠した母体の免疫反応により胎児の脳の男性化が阻害されるという至近的説明.拮抗的発現仮説でも母性免疫説でも同性愛男児を生む女性は多産であることが予想される(男性に選択されやすい,男児をたくさん妊娠している).両効果を統計的に分離するようにデザインされた大規模リサーチによると母性免疫説がより支持される結果であった(ただし多面発現説を完全に否定するほどではない)とされている
*18:学説史的に有名なリサーチ例の詳細が語られていて面白い
*19:なお,この維持の問題については,多回交尾の問題だけが取り上げられ,「ワーカーが性比を3:1にコントロールすれば,メス繁殖虫についての3/4の血縁淘汰上の有利性が,オスメスの価値の性比による割引(繁殖価の違い)を受けて喪失してしまうはずだ」という問題が取り上げられていない.結局ワーカーにはもう選択肢がないということかもしれないが,このあたりも解説してほしかったところだ
*20:この種では女王とその娘ワーカーからなる典型的真社会性コロニーと(シーズン途中の女王死亡後)娘から補充女王が出現したコロニーの両者がある.性比は(ワーカーが性比を操作する場合の包括適応度理論による予測と整合的に)前者ではメスに偏り,後者ではオスに偏っている.実験的に女王を除去してもオスに偏るようになる.これは萌芽的な真社会性を示す種でもワーカーの性比操作戦略があることを示唆している
*21:より狭い定義としてこの定義に加えて「その妨害により自身の直接的個体適応度は上昇せず,他個体繁殖を通じた包括適応度が上昇するもの」とするものもある.辻は,狭い定義では実務的な判定が困難であり広い定義を用いるとしている
*22:研究室で継代飼育されていた系統が外来種のアルゼンチンアリに襲われ全滅したため,この系統はもはや存在しないそうだ
*23:シグナル説なら女王とワーカーの利害が一致しているので化学成分が進化的に安定しているはず,しかし化学兵器ならワーカー側の対抗とともにアームレースになるので化学構造が迅速進化するはずということになる.ハチの女王フェロモンは系統的に安定しており,シグナル説がおおむね支持されている.さらに前駆物質やセンゾリーバイアスを含め関連する要素は複雑で,そのあたりも詳しく解説されている.
*24:包括適応度理論はペアワイズな場合だけでなく3個体以上の場合も包摂する.弱い淘汰圧は必ずしも前提ではない
*25:この引用についても日本の坂上や前田のパイオニア的な論文を無視していて,引用が恣意的だと批判している
*26:私の彼らの説への印象は,コロニー内コンフリクトを無視した理論的にお話にならないものだというものだが,女王完全操作説と呼ぶと少しまともに感じられる.実際には彼らは論文内で女王完全操作説をとるとは明言していないし,完全操作説をとるにしてもなぜコンフリクトにおいて女王が完全勝利するのかを説明する必要があるだろう
*27:このアリは竹筒を土に埋めておくと野生コロニーがまとめて引っ越してくるので,コロニーごと生け捕りが簡単で移植も容易.これによりコロニー内の個体の羽化,死亡,ブルードの増減などの人口統計データがかなりの精度で計測可能になる.これにより競争状況を正確にモニタリングできるそうだ.
*28:島のような孤立的集団で完全にクローン集団である場合,個体間の血縁度は0になり,血縁淘汰は効かなくなる(血縁者間の協力的な相互作用の効果が血縁者間の競争の効果により相殺されると解釈できる).このような移動が極端に制限される状況は集団の粘性と呼ばれる.集団に粘性がある状況で利他行動遺伝子が増えていくためには,遺伝的均質性の中でさらに近親者が協力する状況か,島が完全に隔離されていない状況が必要となる.
*29:野生生物の血縁度の推定が可能になる(詳しい手法の解説がある),適応的デザイン論的な解釈が可能(利他行動遺伝子が集団に固定していればその遺伝子の個体間血縁度は0になりハミルトン則を満たしていない状況になる.しかし裏切り遺伝子が侵入した瞬間に利他行動遺伝子を持つ個体間の血縁度はプラスになり,その血縁度は同祖性血縁度と一致してハミルトン則を満たすようになり,集団は利他行動遺伝子固定の状態に向かう.つまり現状は適応的であると解釈できる)という点が挙げられている
*30:全ゲノムの中の稀な遺伝子の共有率として同祖性血縁度を推定する場合,その比率の分母はどちらの個体のゲノムを用いるべきかという問題.2倍体生物ならどちらを選んでも同じだが,半倍数体生物だと異なる.これが身替血縁度(life for life relatedness:行為者のゲノムを分母とする)と回帰血縁度(regression relatedness:受け手のゲノムを分母とする)の違いになる.半倍数体生物の場合,身替血縁度の方が計算が容易になる
*31:年齢や性別などの集団の中の様々な層ごとに遺伝子頻度に重みづけすることが必要になる.この重みは繁殖価(reproductive value)と呼ばれる.社会性昆虫の場合の詳しい計算方法が解説されている
*32:実はこれは不正確だと辻は書いているが,不正確というよりいくつかの前提がおかれているものだと理解すべきものだと思われる.
*33:なおこの導出の解説において最後のキモの部分の数式に誤植があると思われるので注意が必要だ.具体的には(8-25)式の右辺が (-b+c)/(b-c) とされているが,これではこの右辺は(b=cでない限り)常に-1になってしまう.前段の説明からいってこの分子は (-b-c) とすべきだと思われる.なお確認してみるとこの誤植は「行動・生態の進化」のコラムでも同じだった
*34:なお「行動・生態の進化」のコラムにあった両理論の等価性を示すわかりやすい図示表示が,本書ではこの数理部分ではなく,第4章で表示されている.この部分を読むときにはもう一度第4章の図示表示を見返すことをお勧めする
*35:辻は適応地形の上下を通常と逆にしているので尾根と表現している
*36:コロニー単位で考えた方がわかりやすい社会性昆虫のある種の問題や感染性の癌細胞の挙動などが挙げられている
*37:そのような適応デザイン論者にとっては,前者の質問の答えが「自己複製する遺伝子が過去に誕生したから」で後者の質問への答えが「包括適応度最大化」ということになる.





