「Bad Acts and Guilty Minds」

 
これはアメリカの刑法学者レオ・カッツによる刑法の基礎理論(日本では刑法総論と呼ばれる)にかかる本である.本書の面白いところは単なる法学書ではなく,認知科学,実験心理学,分析哲学などの知見を取り入れ,何故刑法総論の個別論点には悩ましい問題があるのかを深く論じているところだ.進化心理学的なフレームは取り入れられていないが,そのような視点も持って本書を読むとさらに深く面白い本だと言える.


カッツの議論は,緊急避難における違法性阻却から始まる.アメリカには日本法の緊急避難規定のような違法性についての包括的な阻却規定がなく,個別の必要性の議論とされている.本書の議論はSF的なケーススタディから始まるので大変楽しく読み進められる.最終的に私達は理由を合理的に分析することなく個別のケースについてこれは罰すべきだとか,これを罰するのは酷だと直観的に判断するのだということがわかる.カッツはそうであるなら制度として何らかの安全弁が必要なのだと議論している.そして日米ともそのような制度(緊急避難,期待可能性などの明文にない違法性阻却,責任阻却,陪審制,起訴便宜主義など)になっているのだ.


多重人格,催眠術下,無意識下の行為など意図と行為がきちんと結びついていないという問題も興味深い,結局これらは進化的な処罰感情とヒトの脳の現実がずれているという問題だ.
相手を魔女だと思って殺した場合と,女の形をした魔物だと思って殺した場合に,前者は殺人で後者は過失致死でいいのかという議論も面白かった.錯誤は本来程度の問題だし,広範な文脈の中にあるのだが,現在の制度では私達はどこかで1か0を判断しなければならない.これは不能犯と未遂犯の区別についても同じだし,さらに未必の故意などの確率的な問題全般についても類似した問題だ.私達は二者択一的に考えたがり,確率問題を把握するのは苦手なのだ.
おとり捜査が何故問題なのかというのは,私達の直感は,それは彼の自然な意図による犯罪ではない(捜査官に操作されたのだ)とささやきかけるからだという指摘も興味深く感じられるところだ.


因果関係,不作為の判断においては,合理的に分析するなら「もしこうしなかったら」という形でしか物事を定式化できない.しかし仮想条件は非常に難しい問題を引き起こす.このあたりは,ヒトの道徳判断が分析的ではなく,法解釈はあまり杓子定規ではヒトの心のフィットしない場合があってうまくいかないということだろう.また「相当因果関係」はまさに分析的議論が進化的なヒトの直感的道徳判断に屈服している問題だと考えることができるだろう.


結局刑法は人が人を裁いて罰するという究極の人間心理の応用問題だ.そこには私達が他人を罰したい,あるいは罰するべきだと思うのは何故か,そしてどういう事を行った人を罰したいと思うのかという問題が基底にあるはずなのだ.


近代国家における刑法原則は,様々な個別事案における裁判例が集積し,その中から一般原則が抽出されるという形で歴史的に形成されてきたものだ.英米法では判例がそのまま法であり,日本刑法は(もともとはローマ法,ゲルマン法,教会法の下での判例法から)ドイツ・フランスの啓蒙主義的刑法典編纂を経て,原則が蒸留され,明文で法定される形になり,それが明治維新後に継受されたものだ.それはそもそもヒトの道徳観,処罰感情からきているのだ.
本書で扱われる様々な悩ましい問題を考えると,1つには連続しているものをどこかで有罪と無罪というデジタルで区切らなければならないという問題(これには不作為や因果関係における仮想条件の問題がふくまれるだろう),もうひとつは進化的に形成された処罰感情を明確に定義することが困難な問題(これは最終的には明文にないが認められる違法性阻却や責任阻却として現れる),あるいは現在の複雑な状況が進化的に形成された処罰感情にフィットしないという問題がその根底にあることがわかる.さらに直観的な判断を分析的に規定しさらに法を言葉で定めなければならないことによる問題も加わるだろう.本書はこのような様々な問題を非常に具体的な形で議論できるという意味で大変興味深い本だと評価できる.日本の法学者にもこのような広い視点を持つ活動を望みたいものだ.


なお日本人読者としては本書は比較法の観点からも大変興味深い.アメリカの刑法は,啓蒙主義的法典編纂を経ていないので,いわばヒトの処罰感情がむき出しになっていて極めて行為無価値的だ.また悪いやつは絶対に処罰するのだという気概にも満ちていて共犯を広く罰する.(コンスピラシーの実務はものすごい)陪審制や司法取引と合わせた制度として日本と相当異なっている.本書の叙述スタイルもケーススタディ中心でまず原則を提示する日本の法学書とはまったく異なっていて面白い.犯罪概念のフレームの違い,たとえば責任要素の区切り方が日本と異なっているのも,純粋に興味深い.とりあえず,本書の読書経験を通じてアメリカの法廷ドラマについては非常に楽しめるようになったことは確かだ.


関連書籍


アメリカ刑法について参考にした本
日本語で読める英米法における刑法総論に関する本は私が見たところ現在この本だけのようだ.
大変分厚い本だが,平易に書かれており,面白く読み通せた.


日本法の議論についてはこの本を参考にした.

刑法総論講義

刑法総論講義