「植物地理の自然史」

植物地理の自然史 ―進化のダイナミクスにアプローチする―

植物地理の自然史 ―進化のダイナミクスにアプローチする―


本書は北海道大学出版会の「自然史シリーズ」の一冊.主に植物を対象にした生物地理学の本ということになる.
序章と最終章をコーディネーターでもある植田邦彦が執筆し,植物生物地理学の見取り図と今後の展望が描かれ,第1章から第4章までが個別執筆者による個別トピックを扱う章ということになる.


序章ではまずウォレスの生涯を簡単にたどりつつ生物地理学の勃興が概説される.ここではバリ島とロンボク島の間のウォレス線の今日的な解釈*1にもふれられている.そして植物地理学の始祖は同じくダーウィンにゆかりのあるエイサ・グレイだとされる.グレイは日本などの東アジアと北米東海岸の植物相の類似性について「第三期周北極要素の残存分布」という仮説を提示したのだ.ここではグレイの考え方を丁寧に紹介し,現在の分子的な知見の元ではそれはそのまま維持されないが,地史と現在の分布を結びつけるという発想は学説史的に重大なものだったと評価している.
ここで植田はその後の学説史に簡単に触れる.わずかな情報から絵空事にような仮説を構築する試み*2,それを嫌い現在の分布だけから考えようとする「区系」の概念*3,さらに歴史的考察を加味した「要素」*4の概念を紹介し,そして分子情報から植物地理学はここ20年で大きく変化したことを説明している.本書はその最新の状況を扱うのだ.


第1章は瀬戸口浩彰によるもので琉球列島の植物地理を扱う.
冒頭で琉球列島の地史を紹介し,なお詳細については議論がある現状を解説する.次に島の生物学を概説.そこから著者の研究物語が語られる.
最初は奄美,西表,台湾に分布するクサアジサイ属の分子的系統解析.これはアジア大陸から分岐した後に3ヶ所で異所的種分化を起こしたとして解釈するとそれまでの地史学説や動物地理学と矛盾しない結果が得られた.
次に屋久島から台湾まで広く分布するアセビ属を解析すると,屋久島から八重山まできわめて変異が少ないことがわかり,さらに驚くべきことにその系統分岐は動物地理学で定説である慶良間海峡の蜂須賀線ともトカラ海峡の渡瀬線とも一致せず,沖縄本島の北側,沖永良部から徳之島あたりで南北が分かれる*5.そして次に試みたソテツの系統分析で全く同じパターンが現れる.著者は一旦この問題を「不都合な真実」として棚上げする.しかしさらにスダジイの分子分析からも同じパターンが現れ,著者は以下のような仮説を提唱するに至る.

  • トカラ海峡が氷河期の全期を通じて閉じたことがないという学説は誤りであり,少なくとも一度はつながった.
  • 間氷期の海進により島の面積が著しく小さくなり遺伝的変異が大きく失われ,浮動による固定により沖縄本島の北側で分岐するパターンが現れた.
  • その後沖永良部から徳之島あたりで2タイプが交雑した.

この後浸透成功雑や交雑で説明できる現象をいくつか紹介し,最後に保全の観点からはこの交雑に注意を払うことが重要であることを指摘している.
動物地理学の定説や地史の通説と異なるパターンが3たび現れ,仮説を作り上げるところは展開がドラマティックで.説得力もあり,また動物と植物の違いも興味深く読みどころだ.


第2章は朝川毅守によるゴンドワナ由来の植物系統地理.ゴンドワナ大陸の歴史,ゴンドワナ由来大陸に共通種が広く見られること,分子系統に基づく系統地理学の諸問題*6をまず概説.
そこから様々な植物の分子解析の結果を淡々と紹介していく.これは詳細がそれぞれ異なっていてなかなか興味深い.そして全体を通して浮かび上がるのは何千万年,何億年というタームになると大陸移動だけで説明できるパターンというのはほとんどなく,どこかで長距離分散が生じるという状況だ.私は読みながらダーウィンによる植物の長距離分散についての執念ともいえる諸実験のことを思い浮かべてしまった.


第3章は長谷川光泰による植物地理学上の諸問題について
最初に植物地理学,そして系統分析,分子系統樹へのイントロダクションを簡単に行い*7ドクウツギの系統解析の話に移る.
ドクウツギは世界中に分断された分布域を持つ植物群で,なぜそうなったかが興味深い.系統解析を行った結果,チリの個体群はニュージーランドの系統の真ん中に位置することが明らかになり,長距離分散が生じたとしか解釈できないことがわかる.
次は食虫植物の系統解析.食虫植物は様々な形態のものがあるが,分子解析の結果それまでの形態からの分類では想像できない類縁性が見つかった.これによると世界の食虫植物は大きく4系統ある.そしてモウセンゴケとハエトリソウとウツボカズラは近縁ということになりおそらく食虫性を獲得してから分岐したのだと思われる*8.長谷川はさらに詳しい解析結果から,どのように様々な食虫形態が進化していったのかの復元仮説を示してくれている.
最後に東アジアと北米東海岸の植物相の類似性について.カエデ属の分子解析の結果,分岐年代はバラバラで,グレイの残存分布説は維持できず,それぞれに長距離分散が生じたのだろうと指摘している.
この章は特に脈絡なくいくつかの興味深い各論を紹介しているのだが,それぞれの問題はなかなか渋くて読んでいて楽しい.


第4章はちょっと変わった章だ.執筆者は植物写真家でシンガーソングライターとして紹介されているいがりまさし氏.ロシアの沿海州の植物相を紹介しながら,その日本との共通点を考察し,氷河期以降以降の日本における状況と関連づける考察を行っている.大陸の植物の日本への渡来は対馬経由と樺太千島列島北海道経由の両ルートがあること,氷河期には日本列島は今より寒冷で,対馬海峡が閉じていれば雪も少なく今の沿岸州に似た気候だったこと,2万6千年前の姶良火山(現在の桜島)の噴火,縄文人類による里山化,6千年前の鬼界カルデラの噴火が植物相の形成に影響を与えた可能性があることなどが議論されている.
本章は口絵のカラー写真が美しく,またアマチュアの良さというのか,植物オタクぶりが顕著な記述が読んでいて楽しいところだ.


最後に植田による「後書きにかえて」という章があり,自分の研究物語と日本植物地理学の未解決問題「日本海要素」にかかるエッセイが収められている.研究物語は第一志望の研究室に進めなかったことからこの道にはいった経緯やその後の地史を加味した研究史が淡々とかかれているが,所々にぼやき*9が入って味がある.また日本海要素を巡る状況も興味深いものだ*10


というわけで本書は各章の主題も記述スタイルもバラバラなのだが,植物地理の最新問題についてそれぞれ著者自身が興味があって書きたいことを書いているという雰囲気が良くでていて(単にすべて植物地理の話だというだけではない)不思議な統一感がある.そしてここ20年で分子解析が進んでわかってきたことの詳細はやはり面白い.なかなか味わいのある本だ.





 

*1:第四期の氷河期におけるスンダ大陸の東端

*2:プレートテクトニクスが興隆する前は奇妙な陸橋説が幅を利かせていた

*3:戦前の日本で唱えられた「日華区系」の例が引かれている

*4:同じく中国支那要素,玖摩関東要素,襲速紀要素,満鮮要素,中国要素に分ける学説があったそうだ

*5:動物地理と一致するように見えていた花の形態変異は送粉者の分布による収斂進化だと解釈できる

*6:中身はなかなか難しい.結局地史がはっきりしている場合には,それと矛盾するように見える結果をどう解釈すべきかというのが大問題になるようだ.また期間が長く系統が広い場合には分子時計の進み方の仮定が複雑になり,様々なモデルが提唱されているようだ

*7:単子葉植物被子植物全体の系統樹の真ん中にある分類群になる.つまり双子葉植物というのは側系統群なのだ

*8:また明示的にはふれられていないが,サラセニアのウツボカズラに似た形状は系統が離れており収斂の結果だということになるのも興味深いところだ

*9:普通種であっても同定容易な植物であれば分類記載がいい加減であることを発見したり,苦心して書いたマリモの論文が掲載されない経緯とかいろいろ

*10:いろいろな形態的な特徴がまとまっているのだが単純に積雪量に対する適応では説明が難しいことをエッセイ風につづっている.裏杉なる杉の形状は見たことがないので是非一度観察してみたいものだ.