「Did Darwin Write The Origin Backwards?」 第5章  「あとがき 」 その3 

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)


ソーバーの淘汰の単位の議論は続く.次は英国のフィッシャー,ハミルトンの伝統を継ぐ包括適応度理論家の数理生物学者たちとの論争だ.ソーバーはこれらの理論家たちをGGGWW(Gardner, Grafen, Griffin, West, Wildの頭文字から)と呼ぶ.

ソーバーの整理によるGGGWWの議論の骨子は以下のようになる

  • 淘汰の単位が事実の問題であることは否定しないし,マルチレベル淘汰理論の視点も認める.
  • しかし『淘汰の単位』と『適応の単位』は区別すべきである.マルチレベル淘汰擁護者はここを混同して議論するので論理的に間違っている.
  • マルチレベル淘汰理論の利他行動の進化モデルは,包括適応度理論を用いた血縁淘汰の進化モデルと全く同じ予測を与える.
  • この(個体の)包括適応度を用いたモデルはグループ内淘汰とグループ間淘汰に分けてものごとを記述しない.
  • (だからこのモデルで進化する形質はすべて個体適応産物と考えることができる.)

この整理はあまりいいものではないと思う.GGGWWの主張の重点は「2つのモデルは数理的に等価である」というところにある.(少なくとも私が彼等の論文を読んだ限り,淘汰単位が事実の問題だと真面目に主張しているようには思えないところだ.どちらでも同じ予測を与えるということこそがポイントだと思う)適応と淘汰をきちんと区別しようというのはむしろ枝葉のところだろう.しかしソーバーはいかにも哲学者らしくそこに切り込む.

切り込む前に,ソーバーは包括適応度を用いたモデルを,個体適応度で表すとどうなるか,そして進化条件は両表示方式とも血縁度を用いたハミルトン式に帰着することを示し,ハミルトンのオリジナルモデルは祖先共有に基づく血縁度だったが,実際にはより広く拡張された遺伝子共有確率が問題であることを指摘する.
これはソーバーらがこの淘汰の単位論争に入り込む遙か昔の1975年のハミルトンの仕事の意義であり,GGGWWは当然この拡張された血縁度を用いている.もちろんソーバーもそれは認めている訳だが,何故こんなに偉そうに解説するのかはよくわからないところだ.

さてこの後ソーバーは本題に戻る.彼の議論を追ってみよう

  • 個体やグループが「淘汰の単位」と呼ばれるとき,それはグループや個体が進化過程に影響を与えていることを指している.だから「淘汰の単位」は「過程」を特徴付ける.
  • これに対して最終的に進化する形質を特徴付けるのは「適応の単位」だ.適応産物が「グループ適応」と呼ばれるためにはグループ淘汰が効いていたことだけでは不十分だ.それがグループ間淘汰において有利だったことが必要だ.
  • より一般化するなら,グループ適応はグループを最適化する形質に対して,個体適応はグループ内個体淘汰において個体を最適化する形質に対して呼ばれるべきだ.これによりグループ適応は利他的性質,個体適応は利己的性質を持つ.全体の形質が中間において拮抗するなら,それはコンプロマイズだ.
  • GGGWWは「マルチレベル淘汰主義者は『適応単位』について明確化しない」と批判する.これは歴史的にいって間違いだ,そしてもっと重要なことに彼等の用語は混乱している.
  • GGGWWの用語法に従うと,利他主義が進化するときにグループは適応単位になり,利己主義が進化するときにはグループは適応単位ではないことになる.ここまではいい.しかし個体がどのような場合に適応単位になるかについては,彼等はメタポピュレーションで考えると常にそうなると主張するのだ.だとすると利他主義が進化するときも個体は適応単位であることになる.
  • 彼等はなぜ「グループ間淘汰とグループ内淘汰の混合」と「個体が常に適応単位である」ことが矛盾しないと考えるのだろうか.それはおそらく両者のモデルが同じ予測を与えるからということだろう.包括適応度を用いると「個体は常に自らの包括適応度を最大化しようとする」と予測できる.
  • しかし彼等の「適応」の考え方はウィリアムズの有名な適応の洞察「あるレベルの適応にはあるレベルの淘汰を必要とする」に反している.グループ内が一様でグループ間淘汰のみが効いた状態で利他が進化する場合も個体適応だということになってしまう.
  • 彼等がこう言い張る動機は「個体が『何かを最大化しようと試みている』と想定する」という直感的なアイデアにあるのだろう.しかしこれは「あたかも」「そう見える」というメタファーに過ぎない.
  • 「利他はグループにとって良いことで,利己はクループ内の個体にとって良いことであり,両者にはコンフリクトがある」というアイデアを失わないためにはこのメタファーを退けた方がいいのだ.そのためにはどのような特徴もすべて個体適応だと定義するのは有用性に欠けるのだ.
  • さらにGGGWWは包括適応度は遺伝子生存を最大化することを個体視点で記述したものだというドーキンスの考えを支持している.もしそうなら遺伝子こそが中心であり,適応が個体レベルにあるという根拠すらないはずだ.
  • 彼等のいうマルチレベル淘汰擁護者の「論理的誤謬」とは何だろうか.それは「マルチレベル淘汰はグループ適応を生みだす」という主張のことらしい.これは「常に」という主張をいうのだろうか「時に」という主張をいうのだろうか?「常に」という意味なら確かに誤謬だが,私達はそのようなことは主張していない.

私の印象では,ソーバーはGGGWWの真の主張は無視して枝葉のところのみ批判しているように見える.確かに枝葉の部分がソーバーの言う通りなら,これは突っ込みどころなのだろう.いずれにしても本質の議論には見えない.また中身的にいうと「個体が包括適応度を最大化するように試みている」ことはある種のメタファーだとして,なぜ「グループ内淘汰は利己に,グループ間淘汰は利他に進化するように働く」ということはリアルであってメタファーではないと考えるのだろう?数理的に等価なモデルなのだから,どちらも1つの解釈であって,同じようなメタファーにしか思えないところだ.結局私はソーバーの因果の実在性の主張についてはたぶん永遠に理解できないのだろう.

さてソーバーはこの後クロージングリマークをおいている.せっかくなのでそこも紹介しておこう.

  • グループ淘汰批判者の主張は哲学者と生物学者で異なっている.哲学者は淘汰単位について規約主義を主張し,生物学者は適応単位を問題にする.しかし彼等はいずれも意味論の世界での拡張を弄んでいる(Both indulge in semantic stretching).哲学者はすべてが遺伝子淘汰だといい,生物学者はすべては個体淘汰だという.これはドーキンスが「利己的」という用語について拡張したのと似ている.
  • グループ淘汰問題は「グループ内で不利になるがグループ間競争で有利になる形質は進化できるのか」という実務的な問題意識から始まった.これには一般論も個別問題もある.そして用語を定義して問題を明確化できる.
  • 意味論的に何でも表せると拡張することは問題の明確には役に立たないだろう.すべてが個体適応で,遺伝子淘汰で,遺伝子は皆利己的なら,グループ淘汰もグループ適応もみな神話になってしまう.
  • 最後にアナロジーとパズルを提示しておこう.
  • <アナロジー>:電子の軌道は電気力(electrical force)と重力に影響を受けるとする.軌道を記述する1つの方法は力をコンポーネントに分けて計算することだ.もうひとつのやり方はネットの力だけを「包括力」として記述して計算する方式だ.両者は矛盾しないが,後者のモデルを使う者はこの「包括力」がリアルな因果だと考えてしまうだろう.
  • <パズル>:もし「個体淘汰+グループ淘汰=血縁淘汰」で「血縁淘汰=一種の個体淘汰」だとすると,私達は「個体淘汰+グループ淘汰=一種の個体淘汰」と考えなければならないのだろうか?それは「オレンジとアップルが入った袋は実はアップルだけの袋だ」というのと何が異なるのだろうか?
  • アナロジーもパズルもGGGWW向けではない.彼等は血縁淘汰がグループ淘汰と排他的でないことをよく知っている.しかしグループ淘汰批判者の多くはそのことを知らないのだ.

私もこのソーバーによるマルチレベル淘汰擁護論へのクロージングリマークを書いておこう.

  • 意味論的に拡張を「弄んでいる」かどうかについてはよくわからないが,問題はそれがリサーチプログラムにおいて有用かどうかではないのか.
  • 実際に「グループ内で不利になるがグループ間競争で有利になる形質は進化できるのか」を考える上ではマルチレベル淘汰理論のモデルを使うことに原則的な問題はないだろう.問題はそれは実務的に扱いにくく,実際に生産的ではないというところにあるのだ.
  • そして包括適応度的なモデルを使うことは,個体行動を観察して,それが包括適応度を上げているかどうかを調べれば良いので,実は扱いやすい.そして極めて豊穣な成果を得ている.
  • つまり意味論を拡張して,統一的なフレームにすることはリサーチに有用なことがあるのだ.それにより問題を明確化できることがあるのだ.ソーバーの議論はここが全くおかしい.
  • 電気力と重力を合わせてネットの力と考えることが,もし(まさに包括適応度理論がそうであるように)エレガントに統一された形で記述できるなら,それはむしろ物理学者の夢である大統一理論の一端になるのではないのか.そうなれば逆に電気力と重力が別のリアルな力だと考えることこそ根拠薄弱になるのではないか.ちょうど良い例は電磁力だ.ソーバーは電気力と磁力が異なる「リアルな力」で,統一的に美しく記述された電磁力が「非リアルな仮想力」だと主張するのだろうか?ソーバーの実在の議論はやはり理解不能だ.このアナロジーは(ソーバーの意図とは真逆に)ソーバーがいかにおかしいかをよく示しているように私には思われる.
  • パズルはただの言葉遊びで定義次第でどうにでもなるだろう.なぜこれがこの論争の結論になると考えるのかはよくわからない.
  • 本書を読んでみたあとでの「淘汰の単位論争」の私にとっての結論は「数理的に等価なモデルがあるとして,そのうち片方をリアルだとする根拠はどこにあるのか.両者はともに解釈に過ぎず,これが進化生物学のモデルである以上,リサーチプログラムへの有用性が問題になるに過ぎない」ということだ.