Enlightenment Now その29


第11章 平和 その2


ここまでにピンカーは前著「暴力の人類史」のテーマである暴力低下傾向について,出版後の状況を戦争のデータを見ながら解説してきた.確かにシリア内戦は戦争の死者数,ジェノサイドの死者数について増加をもたらしているが,大きな流れの中ではわずかな増加に過ぎず,逆転傾向と呼べるようなものではないというのがピンカーの説明だ.しかしでは何故そうだと言えるのかについては説明が必要だ.ピンカーはこう続けている.

  • これらの数字はリスクの減少を証明しているわけではない.なぜ戦争が減少しているのかについて知識による補足理解が必要だ.
  • UNESCOは「戦争は人々の心のなかから始まる」と宣言の中で述べている.そして戦争からの脱却をよく見ると国家の戦争への構えが異なってきているのに気づく.GDP対比の防衛費は最近下がってきているし,重要なことは人々の心が変化してきていることだ.
  • なぜそうなったのだろうか.
  • まず啓蒙運動と理性の時代は戦争に対する非難を持ち込んだ.しかしそれが実際にシステムに組み入れらるようになったのは第二次世界大戦を経てからだった.
  • また啓蒙運動家たちは貿易の増加は戦争を抑制すると考えた.そして大戦後の世界の貿易の伸びは大きいし,データは貿易を行う国家ほど戦争をしていないことを示している.啓蒙運動家たちは民主政が戦争を抑制するとも考えた.そして世界の民主化は進み,データはやはり民主制国家ほど戦争していないことを示している.
  • そして長い平和は現実政治によって進められた一面も持つ.アメリカとソ連はともに膨大な破壊力を持ち,両超大国ともに直接の戦争を避けようとしたし,(ある意味驚くべきことに,そして安堵することに)実際に両国間の武力衝突を含む戦争は起こらなかった.
  • しかし国際関係における最も大きな変化は(私たちは今日それをあまり評価していないが)「戦争は違法だ」という認識が広まったことだ.歴史上ほとんどの期間,戦争は国家目的遂行のための手段の1つであり合法だった.国家は自国の目的遂行を阻害されたと感じたら自由に宣戦布告し,領土を奪い取り,それを国際社会は承認すると期待することができたのだ.アメリカはそのようにしてアリゾナ,カリフォルニア,コロラドネバダニューメキシコ,ユタをメキシコから債務のカタとして奪い取ったのだ.
  • 今日,国連加盟国は自衛目的以外の戦争を行わないことにコミットしている.そして1946年の国境は固定された.そして国境を越えた占領地を自国領土に組み入れようとしても,他国の承認は得られず汚名を着せられるだけになった.
  • 法学者のハサウェイとシャピロはこれが長い平和をもたらした大きな要因だと主張している.戦争を違法にしようとする試みは1795年のカントに始まり,1928年にはパリ不戦条約が結ばれた.しかしそれに実効性が伴うようになったのは国連が創設されてからだ.それ以降国境を変える試みはタブーになり,(イラククウェート侵攻時に見られるように)それを破って侵攻を企てても国連軍の武力により阻止されるようになった.そして禁止は「文明国はそんなことはしない」という規範になった.
  • 確かに規範は時に破られる.2014年にはロシアはクリミアを併合した.これは「世界政府がない限り国際規範は無力だ」という諦観も生んでいる.しかしハサウェイとシャピロは「不完全な法でも無いよりはましだ」と答えている.実際に1928年以降の占領地の大半は返還されているのだ.
  • ハサウェイとシャピロはこの国家間戦争の違法化にはデメリットもあったことも指摘している.ヨーロッパが植民地帝国を放棄したときに,彼等はしばしば脆弱な政府と曖昧な国境をあとに残し,それは紛争と無政府状態の火種になっている.
  • しかしそれでも国家間戦争の減少は進歩の素晴らしい実例だ.国家間戦争は内戦より遙かに多くの人を殺す.そして1980年以降内戦も減少している.冷戦終了後,大国は誰が内戦に勝つかに興味をなくし,平和維持軍を支持するようになった.また途上国も豊かになるにつれて内戦を回避しやすくなる.そして近隣国が平和になれば自衛のための先制攻撃動機もなくなるのだ.
  • イデアと政策に加え,価値観も変わった.これまでに見た平和への力はテクニカルなものだ.そして人々が何を望むかがそもそもの国家目的を変える.少なくとも1960年代以降「平和は本質的に価値がある」という認識は西洋人の第2の本性のようになった.軍事力を使う場合にも,より大きな暴力を避けるための残念な選択だと正当化される.
  • 今日「殺人それ自体が価値あるものだ」という考えはまるで狂人のそれにように感じられる.しかし「戦争こそ価値あるものだ」と考えられていたのはそれほど遠い昔ではない.戦争は栄光で高貴で英雄的で利他的だとされていた.19世紀の反啓蒙運動言説ではそれが当たり前で,ロマンチックミリタリズムはファッショナブルな思想だった.そしてそれはロマンチックナショナリズムと合流した.ある民族の言語,文化,国土,人種的構成は神聖なもので,民族浄化によってその運命を全うでき,人類を進歩に導けると主張されていたのだ.(進歩は問題解決によるものだという啓蒙運動の進歩概念と対照的だ)
  • そのような主張はヘーゲルにもマルクスにも見ることができる.しかし最大の推進力はインテリの間の文化的悲観主義だった.それはドイツでショーペンハウエルニーチェとともに勢いを得た.ともに西洋の産業化されたキリスト教国だったのになぜ英国とドイツが第1次世界大戦を戦ったのか,今日では理解が難しい.しかし当時ドイツは自分たちは「西洋文明」に属しないと考えていた.特に英国や米国にあるリベラルで民主的で商業的な文化には勇敢に反抗すべきであり,そして破局の後でヒロイックな秩序がもたらされると考えていたのだ.実際に2度の破局のあとこのロマン主義は洗い落とされ,平和が新たな目標になった.
  • 多くの人は平和への進歩が可能であると信じることを拒否している.人類には征服の本性があるのだと彼等は主張する.世界平和への希望はジョン・レノンオノ・ヨーコにいい歌を書かせたけれども,それは絶望的にナイーブだと.
  • しかし実際のところ戦争は,感染症や飢饉や貧困と並んで,啓蒙された種が克服することを学ぶべきもう1つの障害に過ぎないのだろう.征服は短期的には魅惑的だ.しかし破壊的な対立による莫大なコストと敵意に囲まれて剣とともに暮らすことによる生活の剣呑さを負担せずに欲しいものを手に入れる方策を見つける方がはるかにいいに決まっている.長期的にはすべてのパーティが戦争を控えることが全員にメリットを生む.貿易,民主制,経済成長,平和維持軍,国際法と国際規範はそのような世界を作るための道具なのだ.


この部分でピンカーは前著の議論を2つ補完している.それは法と規範の役割と価値観の変化だ.「自衛目的以外の戦争は違法である」という認識は啓蒙運動思想の直接の落とし子であり,2度の世界大戦を経て人類社会に刻み込まれた.
そしてそれは国連憲章と国境の固定化によりシステムに組み込まれた.このシステムから見ると2014年のロシアのクリミア併合宣言は重大な違背ということになるだろう.西側職国はこの宣言を認めないという立場を堅持しているが,とはいえロシアが常任理事国であることから国連軍による抑止は不可能で,これは滑りやすい坂道へ転落する第一歩のようにも感じられる*1.ここでピンカーはこの事例の説明はほとんどしておらず,やや歯切れが悪い印象だ,
そして平和には本質的な価値があるという認識が西洋諸国中心に広がっているのも重要だろう.いずれも2011年以降ピンカーが自著の足りない部分だと感じてここで補完しているということになる.

*1:ロシア側にはクリミアはフルシチョフの気まぐれでウクライナ領土とされていただけで元々ロシアの固有の領土だという強い思いがあり,住民投票を経て併合したという形をとっているので,もはや引くことはできないだろう.西側の抵抗も本気には見えない印象もある.