From Darwin to Derrida その60

 
 

第7章 自分自身の背中を掻く その6

 
ヘイグは第7章で個体内コンフリクトについて語ってきた.そして最後にエッセイ風の追記を置いている.
 

追記(Afterthoughts)

 
冒頭には聖書(ガラテア人の手紙 5:17)からの引用がある

私たちの肉体の欲望は聖霊に従う精神と対立する.一方,聖霊に従う精神は肉体の欲望と対立する.これらは正反対のものだ.だからあなたはすべきことをできないのだ.

 

  • 私たちはしばしば自分自身の中の争いを経験する.それはパワフルな内部の声と声の争いで,どちらも簡単には引き下がらず,フェアに振る舞いもしない.私は,このようなゲノム内の党派は基本的に2つの対立派閥にまとまる傾向があり,最も強硬な党派が論争を主導すると議論した.
  • 私たちの内部対立を考察した試みの多くは,そこに2つの対立する力を見いだしている.それは「衝動と制御」「感情と理性」「誘惑と良心」「罪と徳」などと表現される.
  • このような分析の軸にはファミリー類似性*1がある.それは対立する力の多次元空間における第一主成分に似たようなものなのだろう.
  • そしてこれらの力の対立は時に執行力を持つ制御者あるいは判事により解決される.例としてはソクラテスの魂の三分説,(プラトンの)白馬と黒馬に引かれた戦車の御者の比喩,フロイトのEsとÜber-Ichの争いを仲裁するIchなどがある*2

 
このあたりは哲学的な蘊蓄も含めたこれまでの個人内の党派争いについての考察のまとめということだろう.
 

  • なぜ一部の心は調和的で,一部の心は凄惨な争いに満ちているのだろう.精神病理についての標準的な生物学的アプローチはなんらかの壊れたメカニズムを探すというものになる.しかし自分自身への不満は「機能の壊れた機械」というより「うまく機能しないコミュニティ」と概念化した方がいいのではないだろうか.そのような視点のシフトの方が乱れた心を癒やすのによいのではないだろうか.
  • 私はこれ以上精神病理学に自分の推測を押しつける気はない.それは容易に誤解されて遺伝的決定論のラベルを貼られてしまったり,メカニズムと主観的経験の間の「越えられない隔たり」を理解しない鈍感な試みだと批判されることになりそうだ.

 
そして個人内に党派争いがあるなら,コンフリクトはメカニズムの故障ではなく,社会的な合意が得られない状況と考えた方がいいことになる.最後の留保はこれまでのいろいろな軋轢を想像させて興味深い.
 

  • 本章で提示した1つの問題は「私たちは自分自身を脅迫してある行為を強制できるか」ということだ.自分の中のある党派が,将来の脅迫がハッタリではないことを(別の党派に)示すために,脅しを実行するということが起こりうるだろうか.これを考えると「自己破壊的」行動が心に浮かぶ.そしてそれは時に党派間の互恵性の破壊や党派間の契約破棄に結びつき,さらに将来の行動を変えようとする(それぞれの党派の)絶望的な努力の結果として実際の害が生じるのだろうか.
  • 身近に自傷行為を行う人がいるなら,それがいかに理解が難しい現象であるかがわかる.不完全な観察者としての私の視点からいえば,外に現れているサインは「自身の中のある党派の(党派の集合体である)自身に対する怒り,そしてその力の誇示」であるように見える.しかしこれは私の共感の不足,そして自分自身が自分の中のある党派の怒りを感じていることを他者に投影してしまっていることから生じているものなのかもしれない.

 
結論は出せないが,いろいろ考えてしまうトピックであることがわかる含蓄のある追記だと思う.

*1:family resemblance:ウィットゲンシュタインによるカテゴリーの分類の1つ.明確に境界を定義できないが似たものが集まっているようなカテゴリーを表す.家族的類似性と訳されることが多いが,家族よりは広い語感だと思ってこう表記している

*2:ヘイグはこれが英語でid, superego, egoと実にひどい訳にされていると文句を付けている