From Darwin to Derrida その69

 
 

第8章 自身とは何か その9

 
ヘイグによるスミスの道徳感情論の読み込み.まず前半は行動のガイドとして本能,理性,文化を扱った.本章後半はアダム・スミスの議論の軸になっている「sympathy」を深掘りしていく.

 

「sympathy」と自分自身の繁栄

 

私たちは他者がどう感じているかを直接知覚できない.だからそれがどう形成されるかについて直接知ることはない.しかし自分なら同じ状況をどう感じるだろうかを考えることはできる.

アダム・スミス 「道徳感情論」

The Theory of Moral Sentiment : 6th edition (English Edition)

The Theory of Moral Sentiment : 6th edition (English Edition)

  • 作者:Smith, Adam
  • 発売日: 2020/05/14
  • メディア: Kindle版
 

  • 「sympathy」すなわち他者の行動や感情や好みや推論を代わりに経験すること,はアダム・スミスの道徳感情の議論の中核にある.この章を書きながら私は彼の思想や論理への「sympathy」を感じ始めており,彼の文章のリズムやスタイルが自分の思考や散文の中に入り込むのを感じている.
  • 彼との同一感を感じながら,私はこの遙か昔に亡くなった哲学者への博愛の情(affection)を育むようになったが,しかしこのような慈愛の心(benevolence)は私の「sympathy」の定義の必須の部分ではない.

 
いろいろ重層的なエッセイ風で味があるところだ.ヘイグの「sympathy」の定義は相手の行動や感情や好みや推論を代わりに経験することであり,相手を肯定的に捉えたり好意を持つことは必須ではないという.やはり日本語的には「同情」よりも「共感」に近いということになるだろう.
 

  • 私たちはしばしば,自分の目的を達成する手段として,あるいは他者から搾取されるのを防ぐために他者を「sympathize」する.ここで私の散文が(慈愛の心についての)1人称単数から(あまり魅力的ではない動機についての)1人称複数へ変化しているのに気づいただろうか.これは私の罪についてあなたが私をどう「sympathize」するかに影響を与えようとしているのだ.

 
ここもなかなか楽しい.つい私たち(we)とタイプしてしまい,それからどうして複数形にしたのかを内省し,これは読者から見た「私」の評価を保つためにそうしようとしたことに気づき,そしてそれはこの部分のテーマにも関連していることからそのままにしているのだろう.あるいはさらにそこをディスクローズすることにより,読者の印象を操作しようとしているのだという含みがあるのかもしれない.
 

  • ミラーニューロンは私たちの「sympathy」の神経学的な基礎だと通常解釈されている.しかし私は神経学者ではないし,スミスのエミュレートに関して,私は普遍的抽象的に議論していきたい.
  • 私はここから3つのレベルで「sympathy」を議論する.

 

  • 1人称「sympathy」は自分自身のセルフイメージであり,他者のセルフイメージの構築の足場となるものだ.
  • 2人称「sympathy」は直接相互作用している他者の視点から感じることだ.それは直接互恵の協力を可能にする:「私はあなたにとって良いことをするから,あなたは私にとって良いことをしてね」という形だ.
  • 3人称「sympathy」は公明正大な観察者の視点から自分の行いを評価するものだ.それは間接互恵の協力を可能にする:「私はあなたにとって良いことをした,だからほかの人は自分に良くしてくれるだろう」という形だ.

 
ミラーニューロンと共感の神経基盤の話には入らないと宣言し*1,普遍的抽象的に「sympathy」を扱い,それを3つのレベルで分析することが予告されている.ここから各論に入ることになる.

*1:巷でなされているこの手の議論には誇張や無理な解釈も多く,怪しげな議論には巻き込まれたくないということかもしれない