書評 「蝶はささやく」

 
本書はサイエンスライターであるウェンディ・ウィリアムズによる蝶,蝶に魅せられた(あるいは取り憑かれた)人々,そしてオオカバマダラの北米大陸を縦断する渡りを扱った本である.構成的には3部構成になっていて,進化や生態を扱う第1部「過去」,環境変動にかかる第2部「現在」,保全努力にかかる第3部「未来」ということになっているが,それほど明確に内容を切り替えているわけではなく,オオカバマダラの渡りをメインにさまざまな蝶と蝶に取り憑かれた人々に関する話題がちりばめられた本という印象になっている.原題は「The Language of Butterflies: How Thieves, Hoarders, Scientists, and Other Obsessives Unlocked the Secrets of the World's Favorite Insect 」
 
序章で著者は自身がイェール大学の蝶コレクション(特にその色の世界)を見て依存症にもなりかねないほどの衝撃を受けた体験を語り,蝶の物語を書くことになった経緯を説明している.そして第一部「過去」に進む.
 

第1部 過去

 
第1章ではこの蝶依存症に陥った人物の典型である19世紀の収集家ハーマン・ストレッカーの逸話から始まる.そこから鱗翅目の進化,蝶と蛾は何が違うのか*1,共通の特徴には口吻があること,蝶と花の共進化などが簡単に解説されている.
 
第2章ではマダガスカルの距の長いランの標本を見たダーウィンによる「吻の長い鱗翅目昆虫がやがて発見されるであろう」という有名な予想の話に触れてから,蝶の口吻の秘密が語られる.蝶の口吻は蜜を吸い上げるストローではない.それは毛細管作用を利用した細長い紙ナプキンのようなものだ,さらにそれは血液のような粘りのある液体も乾燥した物質さえも*2摂取できる,ここから異なる物質の摂取のためにそれぞれ特殊化した異なる仕組みがあることが詳しく解説されている*3
 
第3章は蝶の化石の話.コロラドのフロリサントで出土した翅の模様や触覚まで見事に保存されているプロドリアス・ペルセポネの化石が紹介され,出土地(米国古生物学の生地とも呼ばれるそうだ),発見者(ある入植者の女性の物語が語られている),後に入手し,この蝶を記載し,「フロリサントの化石蝶」を書いた古生物学者サミュエル・スカッダーの物語が続き,さらに著者自身がこの化石を見にハーバードの収蔵庫を訪れる顛末が語られている.後半部分ではその他の化石や蝶の進化史が解説されている.
 
第4章はマリア・シビラ・メーリアンの物語.彼女は17世紀のドイツに生まれた蝶の愛好家で,初めて蝶の生活史を明らかにしたことで知られる.彼女の業績は後世の分類学,生態学に大きな影響を与えたと著者は評価している.
17世紀はまだ生命の発生自体が議論されている時代で,その中で彼女は蝶の交尾,産卵,幼虫の孵化,食性の特殊性,蛹化,羽化(そしてある特定種のメスが産んだ卵からはその特定種の幼虫が孵化し,それが蛹を経て同じ特定種の蝶になること)を事実から裏付け,それを素晴らしい図版入りの書物として残した*4.ここでは彼女の人生(ドイツからオランダ,そして娘と二人で中南米に移り,ブルーモルフォに魅せられる)をたどったあと,蝶の翅の模様,鱗粉,色(青の構造色),そして機能の解説がなされている.
 
第5章ではウォレスとベイツが登場し(ダーウィンがあまり蝶に興味を抱いていなかったことを大変残念そうに書いている),擬態やカモフラージュの進化が解説される.
 

第2部 現在

 
第2部と第3部は北米大陸を渡るオオカバマダラが叙述の中心となっている.

第6章ではオオカバマダラにタグ付けして放蝶し,その渡りの実態を探るモニタリングプロジェクトが紹介され,2016年にオレゴンで5歳の少女アメリアにより放蝶された1頭の蝶の行方を追いつつ,数世代かけて渡りを行うオオカバマダラの生活史が解説される.
 
第7章ではオオカバマダラの越冬(越冬地がどのように決まるかについては微気候が重要らしい),生物地理の謎(ロッキー山脈の東西で集団が分断されているように見えるのに,遺伝的にはほぼ同一集団になっている)が解説され,越冬地に適した地域の保全活動,バタフライツーリズムなどが描かれている.
 
第8章はオオカバマダラの食草であるトウワタの重要性について.オオカバマダラの翅の派手な模様は警告色であり,その毒はトウワタのラテックスから取り入れる.ここではトウワタ側の摂食防備の進化も含めて解説されている.またオオカバマダラのオスは交尾の際にメスを幻惑するためにもトウワタ由来の物質を使うことにも触れられている.
 
第9章はオオカバマダラの渡り.春の渡りでオオカバマダラが訪れるワシントン州の乾燥地を舞台に,モニタリングプロジェクトの活動,遠く欧州まで迷い込むことがあること,かつてそうやってたどり着き,現在オーストラリアに定着して渡りを行っている個体群の存在などが語られている.
 
第10章は蝶類の保全への取り組み.カリフォルニアやオレゴンなどオオカバマダラが渡ってくる地域での(必ずしもオオカバマダラだけでなく)蝶類の生息や繁殖に適した環境(かつてのプレーリーにあったような湿地,そこにあったであろうような植生が重要,そのような土地面積はそれほど広くなくとも良い)を作っていく取り組み,いくつかのシジミチョウの保全成功例(生活史の一時期寄主となる特定のアリ種に適した環境が重要)が解説されている.
 
第11章は引き続いて保全の取り組み.ナボコフが愛したヒメシジミ(カーナーブルー)の保全への取り組み(食草であるルピナスの保全が重要で,そのためには火入れして草原を維持する必要がある)が解説されている.またここではナボコフのヒメシジミ類の氷河期以降の拡散パターンに関する生物地理的仮説とその検証が最近なされたエピソードも加えられている.
 

第3部 未来

 
第12章はオオカバマダラの個体数減少傾向についてふれたあと渡りのメカニズムを扱っている.オオカバマダラは越冬地が開発により消滅するなどの影響により長期的に減少傾向にあるようだ.ただ彼等は大規模に渡りをすることに適応しており,かなり柔軟に生息地や越冬地を変更するため実態は把握しにくい.ここでは渡りを可能にする行動メカニズム*5とその柔軟性がかなり詳しく説明されている.また北極圏からサブサハラアフリカまで渡り飛行するヒメアカタテハについても解説されている.
 
第13章は蝶に取り憑かれることをヒトの脳の報酬回路から説明したあと,蝶の色覚が解説されている.ヒトの錐体は3種類で3色型色覚だが,蝶の色覚ははるかに多彩な知覚だ,たとえばモンシロチョウは固有のスペクトルに反応する個眼を8種類持っている.オオカバマダラも同様に優れた色覚を持ち,さらに渡りの中のさまざまな環境に適応するために,このような特定の環境刺激をその色刺激と関連させて学習し行動を調整していることが解説されている.
 
第14章はオオカバマダラの個体数回復への努力が扱われる.オオカバマダラの北米の3つの渡りルートの1つ,セントラル・ハイウェイにおける食草や蜜を作る草花*6を植えるプロジェクトを紹介し,プレーリーのような花がたっぷりの草原の重要性を指摘し,それがまだ保たれている南向けの渡りに関するオクラホマの聖地*7を紹介する.最後にはカリフォルニアの山火事の多発現象とその悪影響への懸念も取り上げられている.
 
本書は蝶と蝶に取り憑かれた人々,そしてオオカバマダラの大規模な渡り,それを保全しようとする取り組みについて書かれたサイエンスノンフィクションだ.かなり一般向けを意識して,テーマに沿った興味深いエピソードをちりばめて飽きさせないように工夫されている.そしてやはりオオカバマダラの大規模な渡り,特にその行動の柔軟性は興味深い.日本に生息するアサギマダラも大規模な渡りをすることが知られているが,オオカバマダラとはまたいろいろ異なる部分もあるようで*8,そのあたりも大変興味深いと思う.
特定テーマを深堀しているわけではないので,物足りないところもあるが,とても気軽に楽しく読める一冊だ.
 
 
原書

同じ著者による同じく特定の動物群をテーマに扱った本がいくつかあるようだ.
 
イカについて

 
ウマについて

*1:基本的に鱗翅目の中で生物学者が蝶と認めるグループがあり,それ以外は蛾と呼ばれる(だから蛾は側系統ということになる)らしい.形態的に見分ける最もいい方法は(例外もあるが)前翅と後翅をフック状に止める翅棘の有無だそうだ.

*2:いったん唾液で湿らせてから運び込む.口吻内で液体が双方向に動くことになる

*3:花蜜食の場合は先端がモップのようになっており,果物の果肉や血液を摂取するためには先端に矢じりのような鋭い突起がある.液体は口吻の中を微小液滴の形で運ばれる.

*4:著者が女性であることを理由に学術誌に出版を拒まれて,後に自費出版することになる

*5:渡りに必要な体内「時計」は脳内ではなく触角にあるそうだ

*6:北向きの渡りの際には何世代にもわたり繁殖を繰り返しながら渡っていくので,食草であるトウワタが重要だが,南向きは1世代で移動するのみなのでエネルギーの基になる花蜜が重要になる

*7:少数民族が所有する土地において開発が抑えられてきた結果だそうだ

*8:今後どこかで見かけることがあればしっかり観察したいと思う