From Darwin to Derrida その91

 

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その10

 
マイアの曖昧な定義により混乱する哲学者と生物学者の究極因をめぐる論争.その背景に原因とは何かという認識の問題,そして究極の語意;「endにあるもの」の多義性の問題があることが指摘された.ヘイグは最後のまとめに入る.
  

  • 現代の至近因/究極因区別擁護者は,「究極因」を目的論的な「何のために?」への答えと解釈し,「これは何のために?」と「メカニズムは何か?」は異なる答えを持つ異なる問いであり,両方とも科学で扱えるものだという認識が広まることを欲している.彼等は適応的説明についての彼等の興味がリスペクトされることを望んでいる.
  • 現代の至近因/究極因区別批判者は,「究極因」を歴史的な「どのようにして来たのか?」への答えと解釈し,「メカニズムは何か?」」への答えは「それはどのように進化したのか?」を理解するためには重要であるという認識が広まることを欲している.彼等は進化プロセスにおける発生メカニズムの役割についての彼等の興味がリスペクトされることを望んでいる.
  • 擁護者と批判者の対話はすれ違っている.彼等もいったん落ち着いて深呼吸すれば,互いの関心と懸念を理解できるようになるだろう.

 
この論争の背景にあるのは「発生プロセスの重要性」についての興味についてのリスペクトだというのがヘイグの読みになる.あるいはもしかしたら発生プロセスに興味を持つものは適応的な意義にあまり関心がなくなる傾向にあるということなのかもしれない.いずれにしてもヘイグの読み解きによると適応的な意義も発生プロセスの詳細もそれぞれ意義のある問題で,そこに論争の必要性はなかったということになる.
 

  • 至近因については誰の興奮も掻き立てず,それは有用な概念であり続けている.これに対して究極因は感情を掻き立て,論争の当事者によって異なる意味に解釈されている.批判者は究極因について自分たちの解釈は1961年のマイアの解釈に近いと主張する.これに対して擁護者は自分たちの解釈は1974年のマイアの解釈に近いと主張する.

 
そしてそこにマイアの曖昧性が問題をややこしくさせたということになる.最後にヘイグはこうまとめている.
 

  • 私の推奨は以下の通りだ.
  1. まずマイアの1993年の「Proximate and ultimate causation」に従い,進化的タイムスケールで働く物理的原因については「進化的原因」を(自然淘汰による適応的原因だけに限定せずに)使う.「至近因」は過去の世代のすべてにおいて働いており,進化的説明の適切な一部であると認める.
  2. そしてメカニズム的howと機能的なwhat forを区別したい場合には「究極因」という用語は使わず,「目的(purpose)」と「メカニズム」という用語,あるいは古くからある(機能の存在と目的の先取りとして解釈する)「目的因」と「作用因」という用語を用いる.
  • 私は現代の進化生物学者のなかに生気論者や「神の介入」に生物学的説明としての役割を認める者がいるとは思っていない.進化生物学者が目的論的用語を使う場合はそれは自然淘汰による適応を説明していると当然に推測されるべきだろう.用語について争うよりほかに議論すべきことは山ほどあるのだ.

 
要するに「究極」を使うからややこしくなるのだ.そもそもこれはマイアの政治的動機と「目的」という言葉が創造論者に逆手にとられかねない懸念から発しているのであり,いずれも21世紀の今日ではあまり意味がない.だから適応的な説明には堂々と「目的因」を使おうということになる.確かにその通りかもしれない.私ももしかしたら「究極」という中二病的な言葉の魅力にとらわれていたのかもしれない.