War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その53

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その14

 
カロリング帝国の南東部辺境.遊牧民がハンガリー平原に何度も侵入し,それに隣接するドナウ川中流域がフランクのオーストリア辺境となる.そしてターチン理論によりそこに強国が興る.それがウィーンを首都とするハプスブルグ帝国(後のオーストリア=ハンガリー二重帝国)ということになる.
 

カロリング朝の南東部辺境 その2

 

  • 3世紀の間オーストリアはステップから来る侵略者に対するフランクの辺境だった(そこはローマ時代にはノリクムの辺境属州だった).このメタエスニック断層の3世紀はオーストリアを独自のアイデンティティを持つ団結した国家に変えた.これは現在もオーストリアがドイツとは別の国家になっている理由の1つでもある.
  • 強国としてのオーストリアの興隆はゆっくりだったが確実に進んだ.それは独立した公国の地位を1156年に得た.そして1282年に後にハプスブルグ帝国を打ち立てるハプスブルグ家の根拠地となった.ハプスブルグ家は1335年にケルンテンとカルニオラ(現在のスロベニア)を獲得し,1368年にチロルを獲得した.1438年には神聖ローマ帝国の皇帝位を得,それを1806年まで保持した.

 
東フランク王国から神聖ローマ帝国ヘの移り変わり,およびカロリング朝(〜911)→ザクセン朝(919〜1024)→ザーリアー朝(1024〜1125)→ホーエンシュタウフェン朝(1138〜1254)辺りの歴史は世界史でもあまり詳しく触れられないところだ.いずれにせよターチンによるとこの時期にオーストリアは辺境としての一体感を強めていったということになる.そしてそもそもはカール大帝に由来する神聖ローマ皇帝位はホーエンシュタウフェン朝の後大空位時代に突入し,権力の空白の中,神聖ローマ帝国内部はばらばらになる.帝位は選帝侯諸侯による複雑な権力闘争の末の妥協として1273年に(当時としては弱小勢力の1つであった)ハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝となる.しかしこの後も帝位は様々な弱小君主の間を移り変わる時代が続く.その後ハプスブルグ家は着々と実力を蓄え,1438年にアルブレヒト2世が即位した後は帝位を世襲することに成功し,それが第一次世界大戦で敗北する1918年まで続くことになる.
 

 
ターチンはこのハプスブルグ帝国の興隆を語る. 
 

  • もちろん神聖ローマ帝国は不安定な構造物だったが,それでも皇帝にはソフトパワーがあった.1526年に大きな版図拡張が生じた.オスマントルコがハンガリー軍をモハーチの戦いで打ち負かし,ハンガリーの2/3を征服した.ハプスブルグは占領されなかったハンガリーの版図であったクロアチア,ボヘミア,モラヴィア,スロヴァキア,シレジアを得たのだ(シレジアは1742年にプロイセンに奪われる)
  • ハンガリー平原にトルコが現れたことにより,オーストリアは再びメタエスニック断層に面することになった.ウィーンは辺境の要塞都市になり,1529年,1683年と2度にわたりトルコ軍に包囲された.この期間には拡張は止まり,オーストリアは低く身構えてイスラムの侵略の波をいくつもやり過ごした.そして1683年の包囲を耐えた後,オーストリアは攻勢に出た.1699年にはトルコ領だったハンガリー平原とトランシルヴァニアを征服し,領土は倍増した.これによりオーストリアはヨーロッパにおける第一級の強国となった.18世紀にはイタリア,オランダ,ポーランドの一部を獲得し,さらにトルコ領を簒奪し続けた.

 
続いてターチンはハプスブルグ帝国の弱点を語る.いかにもターチンらしくそれは団結力に関するものだと説明される.
 

  • 19世紀にはオーストリアは疑いなくヨーロッパ列強の1つだった.ただその中では最弱だっただろう.それは人口や領土面積の問題ではなく,帝国内に多くの民族を抱えて求心力が不足していたためだ.特に問題なのがハンガリーだった.2つの帝権国家を内に抱える政治組織は不安定になる.融合して1つの民族国家になるか,分裂するしかないのだ.
  • カール5世治下(1519〜58)においてハプスブルグ帝国には2つのコアがあった.カスティリアとオーストリアだ.これはうまく運営できず,カールの死後帝国は平和的に分裂した.スペインはフェリペ2世が,ドイツはフェルディナンド1世が治めることになった.
  • 1699年にハンガリーを得た時に帝国はまたも2つのコアを持つことになった.ハンガリー人はオーストリアに服することになったが,不満だった.オーストリアはハンガリー人を懐柔するためにオーストリア=ハンガリー二重帝国の形をつくり,スラブ人の領域にはスロヴァキアとクロアチアを建ててハンガリーの王権下に置いた.しかしそれでもハンガリーの支配層はかつての帝国の夢をあきらめきれず満足しなかった.
  • さらにオーストリアとハンガリーがかつてのメタエスニック断層の両側に分かれていたことも事態を悪化させた.ハンガリー人たちは帝国の共通語としてドイツ語を使うことを拒む一方でスラブ人たちにハンガリー語を強要した.
  • このオーストリアとハンガリーの間の緊張により,帝国の様々な小さな民族集団には遠心力が働いた.例えばハンガリーのスラブ系住民への扱いは,彼らの民族的アイデンティティを生み出し,そのイデオロギーはハプスブルグ帝国のすべての民族,すなわち,イタリア人,チェコ人,南スラブ人に影響を与え,帝国の団結に破滅的な結果をもたらした.終焉は帝国が過剰拡張し19世紀末にボスニアを得たことにより生じた.そこは正式には1908年に併合され,6年後にサラエボで皇太子銃撃事件が引き起こされ,第一次世界大戦が生じ,オーストリアは敗北し,帝国は分割された.

 
最後の部分は第一次世界大戦のきっかけとして非常に有名なところだ.
 

 
ここからターチンは強国としてのオーストリアを総括する.最弱とはいえ列強になれた要因として,当然ながら団結の要素を強調することになる.
 

  • たしかに1918年にハプスブルグ帝国は崩壊したが,しかしそれに至る世紀でのオーストリアの達成を軽くみるべきではない.どのような帝国も遅かれ早かれ衰退するのだ.オーストリアについて注目すべき点は彼らが人口の10%しか占めていなかったのにもかかわらずかなり長期間多民族国家を保ったことだ.
  • なぜそれが可能だったのか.1つには彼らは帝国内でより多く負担した.ドイツ人はより税を払ったのだ.2つ目に,そしてこれはより重要だが,1529年にトルコがウィーンの玄関口まで迫ったことだ.そこから3世紀の間は,オスマントルコへの抵抗こそがハプスブルグ帝国の存在意義となった.オスマントルコの圧迫は,オーストリアがアヴァールやマジャールと対した時の民族的記憶に埋め込まれていた防衛メカニズムを呼び覚ました.そしてそれは帝国内他民族の団結も促した.イスラムの脅威に直面する時,ドイツ人,チェコ人,イタリア人,ハンガリー人は同じサイドに立つ味方であることを理解していたのだ.

 
以上がカロリング帝国南東辺境の物語だ.東側ではメタエスニック断層を挟んでスラブやトルコに相対し,プロイセンとオーストリアが辺境の強国として興り,ドイツとハプスブルグ帝国というヨーロッパ列強として名を成したということになる.