読了 「Breaking the Spell」

Breaking the Spell: Religion as a Natural Phenomenon

Breaking the Spell: Religion as a Natural Phenomenon




最後に付録が残っている.これは本筋を追うのにじゃまにならないように巻末に並べられているが,哲学者としてのデネットにとってはどうしても言及しておきたい部分ということになる.これで本書は読了だ.次はいよいよドーキンスのThe God Delusionの登攀開始だ.


まず付録A ミームについて


ミームは定義が曖昧に成らざるを得ず,ミーム懐疑主義がなくならないが,ミームは自然選択の3条件さえ満たせばよく,遺伝子に似ていなくてもよいことには注意が必要だ.ミームは基質依存がなく,そして,その実装方式にも依存しないのだとしてミームの概念を擁護する.


付録B 科学についてのいくつかの質問


宗教に対しての科学の擁護論が収められている.まず自由と民主主義を保つ世俗的な法律に従うのはこの惑星でもっともいい取引のひとつだとし,宗教の自由を認める体制内にあるなら,宗教側も誠実に相手と対話しなければならない,相手を説得するには信仰だけでは不十分だと主張する.


では科学的な論争とは何か?科学者は常に正しいわけではない.しかし彼等は,自己抑制とレビューのシステムに従い,自分の主張と自分自身を分ける規律に従うことで,主張の正直さを保っているのだ.狂気の科学者の主張でもチェックシステムに従いそれが正しいかどうかを科学者の狂気と別に調べられる.として物事の分析と対話における科学の有効性を主張する.


ここでソフトサイエンスとハードサイエンスの話になり,ハード側の人は人文科学を科学と見ていない人もいるし,科学だとしてもまったく違う原理で動いていると考えている人もいる,人類学では生物系の人と文化系の人が互いに軽蔑の色を隠せないと嘆く.何とか橋を架けようとしている少数のハード側の学者たち(ボイヤー,アトラン,クロンク,ダンバー,ダーラム,スペルバー)はイデオロジカルな批判にさらされなければならないという.


心理学,経済学,政治科学,社会学でも事情は同じだ,フロイト派やマルクス派から脱構築主義や機能主義まで,これらの分野にはイデオロギーが大きく影を落としているといい,イデオロギーとは何かに話が進む.

イデオロギーは何が真実かだけでなく何が公正かを問題にする思考様式だ.これがハードサイエンスとソフトサイエンスの分かれ目だとデネットはいう.社会科学は人についての事実だけでなく,人はいかに生きるべきかを考える.リサーチアジェンダの最初からモラルが絡むのだ.すると誰かをイデオロギー的だと呼ぶことは,その人のモラル判断に反対だと言っていることと同じことになる.

そこからあるべき態度としてデネットは次のように主張する.

ある文化を調べるのに道徳的な正しい価値がどこにもないという立場にたつ必要はない.単に客観的に観察すればよいだけだ.帝国的普遍主義はスタート地点としてはよくない.自分の価値観を述べたとしても,それが普遍的だと主張することと同じではない.科学者は宗教家と違ってそこは謙虚であるべきだ.誰もが「オープンな心」でどのような立場の人とも会話できるべきだ.そしてそのような会話は,仮に正確に定義できなくても,共有できる理想が仮定できれば可能なはずだ.


付録C 都市伝説とミームの実験について


スペルバーとボイヤーとアトランはミーム的視点の有用性に疑問を持っている.特にその複製の正確性が大きく劣っているところに疑問がある,人の心理を探索するにはミームについて考えない方がよいというのだ.人が置かれた様々な状況を無視してミームを論ずるべきではないという.

これはミーム信奉者が約束しすぎていることから生じるミスコミュニケーションだ.ミーム学は心理学を放逐するわけではないのだ.(集団遺伝学が生態学を放逐するわけでないのと同じように)ミーム学を進めるには人の心理は重要だ.


またスペルバーは同じような文化的な現象は,共通の起源というより収斂する場合が圧倒的に多いだろうと言っている.
しかしデネットはそうではないと予想し,実験を提唱している.いろいろな伝説を作りタグを付けて様々な場所で流すのだ.そしてそれがどうなるか観察しよう.スペルバーが正しければほとんどの伝説は消えてなくなり,すでに知っている話に収斂するだろう,そしてそうはならないだろうと主張している.


付録D 解釈の不確定さ


クインの翻訳の不確定さの法則についての解説が収められている.