読書中 「The God Delusion」 第8章 その1

The God Delusion

The God Delusion




ドーキンスは本書にも見られるようにその激しい宗教への攻撃姿勢で知られている.この姿勢に対する一般的な反応は「どうしてそこまで厳しくいうのか」というところであろう.ドーキンス自身も同僚からの最も多い反応は「どうしてそんなに厳しいのか.それほど有害なのか.そのほかの無害のナンセンスといっしょで放って置けばいいじゃないか」というものだと認めている.ドーキンスにとって特に腹立たしい意見は,ドーキンスのこの妥協を許さない姿勢は彼が敵視している(宗教的)原理主義ときわめてよく似ているという「言いがかり」なのだろう.本章はそういう意見への回答となっている.


結局この問題は科学的ナンセンスに対してどういう態度をとるべきなのかという問題と深くつながっているような気がする.身の回りでもマイナスイオンや血液型性格判定などに対してどのような態度をとるべきなのかは結構悩ましい問題だ.そして宗教に対する態度はその究極になるのかもしれない.これはデネットの,気持ちよく呪文にかかっている人の呪文を解くべきかという問題意識にもつながるのだろう.


ドーキンスは,まず自分の立場が「原理主義」とは異なることを強く主張する.反証可能な主張であるかどうか.あるいは反証があれば自分の意見の誤りを認める用意があるかどうかが科学の主張と原理主義の主張のもっとも異なるところだという主張だ.
このあたりは文化相対主義者からいつも言い返されて苦々しく思っているのだろう,結構ねばり強く説明しようとしている.


さらにもっとレベルの低い議論にも辟易してるのだろう.原理主義は「熱意」の問題とは異なると丁寧に解説している.確かに激しく主張したからといって原理主義だと非難されたのではたまったものではないだろう.そして何故熱意を持って反宗教を主張するのかについては,宗教の原理主義は科学を転覆させ,知性を吸い取るのだと答え,スティーヴン・グールドの弟子だった若き有望な古生物学者カート・ワイズの転落の様子を紹介している.それによると彼は進化と聖書の矛盾に葛藤し,聖書をシンボル的に解釈できずに古生物学を捨ててしまったらしい.



さらにドーキンスは宗教的な絶対論(absolutism)について,絶対論は通常強い宗教的な信仰から生まれ,宗教が邪悪な力を持ちうることの大きな理由になっているとして激しく糾弾する.イスラム社会の多くで,神への冒涜や背教に対して死刑を宣告されることが今でもあることや,英国ですら1922年まで神性冒涜で懲役刑が科されたことがあることなどを紹介している.
またアメリカには強い原理主義キリスト教的な「アメリカンタリバン」なる運動があり,そのサイトにはきわめて原理主義的な主張が多く見られるそうだ.


そしてその典型例として同性愛に対しての態度を特に取り上げている.同性愛はまったく私的で同意ある大人同士の他人に害を与えない行為である.ドーキンスはこれを犯罪とするのはまさに絶対論だとしている.
タリバンアフガニスタンでは同性愛は犯罪だった.生き埋めの刑罰が定められていた.英国ではなんと1967年まで公式には同性愛は犯罪だったのだとなげいている.(チューリングの悲劇は1954年だった.彼は2年間の投獄かホルモン注射の選択を迫られて自殺したのだ)
また「アメリカンタリバン」でも同様らしい.たとえば1988年の大統領候補にもなったロバートソン師はホモは教会で血をまき散らして人々にAIDSを感染させようとしているなどと言っているということらしい.


確かに刑法の議論では被害者のない犯罪というのはなかなか難しい問題だ.日本では同性愛は犯罪にならないが,賭博や売春は犯罪ということになっている.これは社会一般(あるいは経済的弱者)に悪い影響を与えるからという理屈になるだろう.しかしさらに猥褻物販売領布あたりになってくると宗教的絶対論との境目はかなり微妙だ(見たくない人の目に触れてしまうとか,小児ポルノのような問題はあるが,もしそうなら構成要件はもっと狭めるべきだろう).結局守ろうとしている法益を明確化しないと犯罪は絶対論的になってしまうのだろう.
法益を明確化する必要もない宗教的な絶対論に基づく刑法は確かになかなか恐ろしい気がする.



第8章 宗教の何がいけないのか?どうしてそんなに敵視するのか


(1)原理主義と科学の転覆


(2)絶対論の暗黒面


(3)信仰と同性愛