本書はスティーヴン・ピンカーの最新刊.テーマは共有知識になる.ここでいう「共有知識(common knowledge)」とは,単に皆が同じことを知っているというだけではなく,皆が同じことを知っていて,さらに皆が「皆が同じことを知っている」ことを知っていて,さらに皆が「皆が『皆が同じことを知っている』ことを知っている」ことを知っていて・・・(以降永遠に続く)という無限再帰言及状態にあるような知識を指す.
最初にこのテーマだと聞いた時には,心の理論関連の本になるのかと思ったが,本書の内容はそれより遥かに広く,実は共有知識はある種の協力問題について非常に重要な役割を果たし,ヒトの心のあり方や社会のあり方に大きくかかわっているということを扱っている.これはこれまであまり議論されてこなかったテーマであり,本書では全編に渡って非常に興味深い議論が繰り広げられている.副題は「Common Knowledge and the Mysteries of Money, Power, and Everyday Life(共有知識,そして通貨,権力,毎日の生活の謎)」とされている.
序言
ピンカーは冒頭で,自分は生涯をかけて人々がどのように考えているかを考察してきたが,その中で最も魅了される究極のテーマは「人々が他人の考えをどう考えるか,そして他人が自分たちの考えをどう考えているかをどう考えるか,さらに他人が自分たちの考えをどう考えているかをどう考えているかをどう考えるか」ということだと述べている.そして本書は「Words and Rules」(未邦訳)に続く,自分自身の研究テーマについての本だと位置づけている.
また「The Stuff of Thought(邦題:思考する言語)」でなぜ人々が婉曲的な言葉を使うのかを考察し,それは直接的語法は共有知識を作ってしまうからだとも説明したが,本書ではその議論を拡張してより考察を深めたと予告している.
第1章 皇帝,ゾウ,そしてマッツォボール
第1章は導入章で,共有知識とは何か,それがどのようにヒトにとって重要なのかが紹介されている.
章題にある皇帝とはもちろん「裸の王様(The Emperor's New Clothes)」のことを指している*1.そしてピンカーは,すでに皆「皇帝が裸である」ことは知っていたが他の人もそう思っているかどうかはわからなかったが,子供の一言によって,「皇帝が裸である」ことを皆が知っていて,それをまた皆が知っていて・・・という状況に変化したのだと説明する,そしてこれが「共有知識」の状況であり,単に皆がある事実についての知識(個人知識:private knowledge)を共有している状態(shared knowledge)とは異なるのだと解説がある*2.そして本書のメインアイデアが提示されている.
- 共有知識は個人知識とは異なる.何かを公に知ることは,それ以前にすでに知っていたとしても,全く状況を変える.
- 共有知識が変化させるのは人々の協調行動の能力だ.
- だから人々はそれに非常に敏感だ.
- そして公の社会活動の多くの部分は協調問題への解決としての共有知識の観点から理解できる
- また個人的な関係の多くも協調問題であり,共有知識が重要な要素になる.
- 共有知識は協調問題の平衡点を動かし得るが,どこが平衡点になるかはしばしば利益のコンフリクト状態にあるので,我々は時に共有知識を避けるようにする.
次に,進化生物学はこれまで利他主義の進化について考察を行い.特に互恵利他と繰り返し囚人ジレンマゲームに注目が集まっていたが,ヒトの社会のもう1つの大きな協力行動が見過ごされてきたとコメントされる.それはある種の相利状況における協調問題であり,その解は共有知識で与えられることが指摘される.そしてその共有知識は直接会話によるもののほか,共有突出性(common salience),フォーカルポイント,慣習が関連し,さらにそれはプライバシーとパブリック,名声,流行,規範,儀式などにも絡み,心の理論と再帰的メンタライジングと深い関係があるとも指摘される.
また共有知識がからむ興味深い問題として,スーパーボウルテレビコマーシャルの価値,暗号通貨の信認性,独裁下の反体制運動の成否,SNSのシェアボタンと炎上,キャンセルカルチャーが挙げられて簡単に解説されている.
第2章 共有知識と常識
第2章のテーマはそもそも共有知識がなぜ重要な問題となるのかだ.
冒頭で,この章では「共有知識の論理はしばしば常識への攻撃になる」ことを説明したいと予告がある.そして共有知識という特別な状況が与えるインプリケーションが解説される.
- 第1に,私たちは「他の人々が何を知らないか」から世界についての事実を推論できる.第2に,協調するには共有知識の無限に続く状況が真に必要になる.第3に合理的なエージェントは互いに意見が不一致であることに合意できない.これらは一見ばかげた主張に思われるだろう.そして確かにこれらは理想化された状況における結論であり現実的ではない部分もある.しかしこれらはヒトがおかれた状況について重要な洞察を与えてくれる.
最初の「私たちは「他の人々が何を知らないか」から世界についての事実を推論できる」ことについて,ピンカーは有名なパズル問題が数多くあることを紹介している.その1つは3人の客ABCがレストランに入り,店員から「全員ビールで良いですか」と聞かれる問題だ.Aが「わからない」,Bも「わからない」と答えると残ったCには答えがわかる*3.そして我々はこのような相手が何を知っていて,何を知らないかまで要素にする心理ゲームを日常的に行っているのだと指摘する*4.
第2の「協調するには共有知識の無限に続く状況が真に必要になる」については,典型的な待ち合わせ場所を決める協調ゲームで,テキストメッセージの交互やり取りの場合,最後のメッセージのあとで通信途絶の可能性(あるいはメッセージにエラーが紛れ込む可能性)がある限り,確認の確認の確認・・・という問題が生じ,完全に両者が安心できる状況(これが共有知識がある状態ということになる)にはならないことが説明される*5.そしてこれも日常生活で,自動車が歩行者の横断を待つ時のアイコンタクトなどの問題にからむと説明される.
第3の(最もトリッキーな)「合理的なエージェントは互いに意見が不一致であることに合意できない」ことに関しては(ベイズの定理に関連した)数学者ロバート・オーマンの定理が紹介される.それは「もし(合理的な)2人が同じ事前確率を持ち,そして(それぞれ異なる情報をもとに算出した)2人の事後確率が共有知識であれば,(事後確率が共有知識となっている状況の下で合理的に事後確率を計算しつづければ)2人の事後確率は一致する」というものだ.ここでは具体例を上げて丁寧な説明があり,やはり単なるshared knowledge(互いに相手の出した事後確率を知っている)ではこの結論は出ずに,共有知識(知っていることを相手が知っていてそれをまた・・・)でなければならないことが解説されている.ピンカーは,それぞれの計算する事後確率はそれぞれが持つすべての情報が凝縮したようなものであり,事後確率を共有知識とする合理的な人々というのはすべての情報を持つ単一の心のようなものになるのだと説明している.では現実の人々が(価値観ではなく事実の問題についても)しばしば意見を一致させられないのはなぜか.ピンカーはオーマンの定理は理想モデルであり(ヒトは時に非合理であり,議論は真実を探す以外の目的でなされることが多く,自己欺瞞の問題もある.また事前確率も価値観がからんで食い違うことが多い),ベンチマークとして機能するものだと指摘している*6.
この章は共有知識が持つ不思議な性質をわかりやすく解説してくれるもので,これまで(パズルをふくめて)どこかで聞いたような話が繋がっていくとともに,最後にいかにも知的パズルのようなオーマンの定理が登場して大変楽しい.
第3章 楽しみとゲーム
第3章は協調ゲームを上手く解決するための共有知識の重要性がテーマになる.前段でノンゼロサムゲームの種類,ヒトの協力をめぐってよく取り上げられる囚人ジレンマはその1つにすぎないこと,そして協調ゲームの構造(複数あるナッシュ均衡の中でどこを選ぶかが問題になり,共有知識がそれを解決できる)が解説される.
- 囚人ジレンマゲームにおいては,言語による会話は問題を解決できない.それは利益のコンフリクトがあり,プレイヤーが嘘をついて相手を信用させれば相手を搾取できるからだ.信号理論では,信頼できる信号にはハンディキャップコストが必要だとされ,なぜそのようなコストがなさそうな言語が進化できたのか,そしてなぜ人々は会話においておおむね正直なのかが問題とされていた.そして副産物説,ノウハウ交換などの相利あるいは直接互恵性説,ゴシップ交換などの間接互恵性説,性淘汰ハンディキャップコスト説などが提唱されていたが決め手には欠けていた.
- しかし純粋なコーディネーションゲームには利益のコンフリクトがないので,このチープトークの問題はない.これは,これまで見過ごされてきた言語進化の究極因なのかもしれない.
- 協調ゲームの解決には(直接会話による合意*7が難しい時に)フォーカルポイントが有用になる.そして慣習はそれを与えることができる.これは文化人類学における大問題である文化慣習の有用性の議論の答え(様々な恣意的に見える文化慣習は協調ゲームにおけるフォーカルポイントを与えるという意味で有用だ)かもしれない.
- 複数のナッシュ均衡間に若干の利益のコンフリクトがある協調ゲームは「男女の戦い」と呼ばれる.複数あるナッシュ均衡のどこかにたどり着くにはやはり共有知識が重要になる.
- 「スタグハント」ゲームにおいては,利益の相反はないが,複数のナッシュ均衡の利得に大小がある(だから一種の協調ゲームになる).大きい方の均衡にたどり着くためには共有知識が重要になる.
- 「チキン」「タカハト」などのゲーム(それぞれの構造が解説されている,相互裏切りが双方にとって最悪の結果で,どうそれを避けるかが1つのポイントになる)においても,相互裏切りを避けるには共有知識やフォーカルポイントが重要になることがある.たとえばどちらが強いかが明確,あるいはそれぞれの領域や境界およびどちらがそれを越えているかどうかが明確であれば.それがフォーカルポイントになり,(弱い方,越境した方が譲歩することにより)相互裏切りを避けられる,あるいは予測可能な仲介者の存在や,すでにある規範や慣習がフォーカルポイントになり,相互裏切りを避けられる場合がある.
- 様々な法律システムの特徴は,このようなフォーカルポイントの(双方最悪の結果を避けられる)マジックによって説明可能かもしれない*8.
本章は協調ゲームの解を得るための共有知識の有用性が解説されているが,それこそが言語や慣習の存在の(これまでほとんど論じられてこなかった)究極因かもしれないと示唆されていて,非常にエキサイティングだ.
第4章 心を読む者の心を読む
第4章では共有知識を作る認知プロセス,特に共有知識の無限性と,心の理論の再帰的レイヤーの深さに限界があることの問題が扱われる.
冒頭では,ヒトは他者がどう考えているかに強い興味を持っているが,その深さ(彼らがそれを読んでいることをあなたが知っていることを彼らが気付いていることをあなたが知る*9ことを・・・)には限界があることが前振りされている.
- 共有知識には無限の再帰的言及が含まれている.ではなぜヒトは共有知識をうまく使いこなせるのか,どのような認知プロセスになっているのかが問題になる.これについては3つの考え方がある.
- 第1は,実際に再帰的に記述されている(最後は,「・・・」とか「これが無限に続く」とかで処理している)というもの,第2は自己言及的に記述されているというもの,第3は,共有知識は実際には「自明性」「顕著性」によっているというものになる.
- いずれにせよ私たちは,何らかの方法で無限再帰言及を避けて共有知識を認知しているはずだ.問題は本当に人々はこれらの方法を使っていて,時に別の方法にシフトしているのかということだ.
ここでピンカーは心の理論を概説し,その再帰的メンタライジングの深さについて普通の人は第4オーダーあたりから困難を感じる(個人差,状況による違いはある)こと,再帰的なメンタライジングの理解には単なる再帰的な文章の理解とは全く異なる認知的な困難さがあること*10が指摘される.
- この認知的な困難さに対してヒトは似たような種類の再帰的な心の内容をまとめて概念化することにより処理している(その例として,はったり,隠し事,騙し,疑い,説得,さらにそれをスクリプト化したものとして,不倫の状況,スキャンダル,議論などが挙げられている).これらを駆使すると,たとえばポーの「盗まれた手紙」のようなプロットが理解できる.実際にはあまり生じないような論理的なパズルのような状況は,そのような処理が出来ずに理解が難しくなる.そして共有知識は,「皆が同じことを知っていて,さらに皆が「皆が同じことを知っている」ことを知っていて,・・・無限に続く」という概念(再帰的表現)で理解可能になるというのが第1の考え方であり,これはあり得るだろう.
- 第2の考え方は,(論理的には可能だが)不自然で反直感的だ.ヒトが実際にこれを用いている証拠はない.
- 第3の考え方は,それが共有知識になっているに違いないという自明な状況があるというもので,これは定義的にも共有知識になり得る.例としては,公の場面で目撃されること(皆が皆それを見ていることを見ている),会話的コミュニケーション(話し手が聞き手に,理解してほしいという意図とともに理解可能なアイデアを伝えていれば,その状況が共有知識を作りだす)がある.そしてフォーカルポイント(誰もがそれを思いつくだろう)も一種の「自明な状況」を作り出す.これは最も認知的な負荷が低い共有知識の認知になる(これを表すフレーズが「it’s out there」になる*11).そしてこれはフォーカルポイントが協調ゲームを解決できる理由になる.
ここからピンカーは,実際にヒトの共有知識についての認知プロセスがどうなっているか(再帰的表現か,自明な状況か)について,自身が行ったものも含めた実験結果を詳しく紹介している(ヒトは実際に共有知識を認知できる.それは「自明な状況」的な認知プロセスであることが多く,再帰的表現の場合,明示的な深さは2〜3段程度までのことが多い.そしてこの両者のプロセスはスイッチすることもある).
また共有知識と経済の関係も様々に議論されている.ケインズの美人投票と相場のバブル,ネイゲルの「平均の2/3が勝者」投票ゲーム,株式市場のミームストック銘柄,銀行取り付けの力学なども扱われていて,なかなか楽しい.またここでは社会心理学の「傍観者効果」についても,共有知識やメンタライジングの深さから議論されている.
本章は無限再帰言及的概念をヒトの認知がどのように処理しているかという至近メカニズム的な内容で,トリッキーなアイデアが説得的に解説されていて読みどころになっている.
第5章 社会関係のデパートメント
第5章のテーマは人々の社会的関係にみられる共有知識.冒頭はマイモニデスの「慈善の梯子」から始まる.
- マイモニデスは「施す」ことを8つのレベルに順序づけた.そして順序づけの要素の1つが施し手と受け手の知識の状態(施し手は受け手が誰かを知っているか,受け手は施し手が誰かを知っているか,誰が施し手で誰が受け手かを互いに知っているか,それが共有知識になっているか・・・)になる.実際に慈善の評判はこのような事情に左右される(ゲイツ財団やジョブズのやり方などが例として上げられている).なぜこのような共有知識的な状況が慈善の価値を決めると感じられるのだろうか.
- 一方的な寄付は利他的行為の極ともいえるものだ.これまでヒトの利他性については互恵性から説明されていた.であれば慈善行為はできるだけ宣伝する方が良いはずだが,実際の評価は逆になっている.ここで見過ごされていたのは社会選択だろう.友人や取引相手として選択してもらうためには,自分が(そう宣伝しているだけではなく)真に寛容であると考えてもらわなければならない.共有知識状況にしているということは無私無欲からかけ離れていると認識される.これは「効率的利他主義」がうまく広がらない理由でもあるだろう.
ここからピンカーは人々の実際の慈善の高潔性についての認識がマイモニデスの慈善の梯子に当てはまっているかを調べたリサーチを詳しく紹介している.結果はおおむね当てはまっているというものになるが,(shared knowledgeの場合と共有知識の場合の差など)細かな段階ごとの詳細はなかなか面白い.
そしてピンカーはこのような(社会選択における)社会的評価と再帰的メンタライジング間の緊張(自分が顕示的宣伝をしていないことを示そうとする行為は,その意図を見抜かれれば逆効果になる.このような読み合いが緊張を生む)が様々な社会的パラドクスの理解の鍵になっていると議論を進める.ここでいう社会的パラドクスとは「地位にこだわっていないと示すことにより地位を得ようとする」「謙遜することにより自分が優れていることを示そうとする」「自分が操作的ではないことを示すことにより他人を操作しようとする」みたいなことだ(全部で14例示されている).
- この緊張の結果,私たちのシグナリングは繊細なものになっていく.社会選択の舞台となる社会関係ゲームは一種の長期的繰り返し協調ゲームとして理解できる.そしてそれは繰り返されるゲームにおけるシグナリングを通じて作られる長期的評判の共有知識が均衡解となるものだ.
- フィスクは社会関係を「共同体」「権威ランキング」「平等マッチング」「市場プライシング」の4種類としている.
- 「共同体」は家族,部族,ギルド,組合,チームなどメンバー間にみられるもので,望ましい均衡(協力)に至るには同じ共同体であることを示すフォーカルポイント(しばしば儀式,血縁メタファーで与えられる.コストリーシグナルとしてのばかげた信念の提示も含まれる)が重要になる.
- 「権威ランキング」は階層的な関係に普遍的にみられる.権威を争う状況の典型例はタカハトゲームで,やはりフォーカルポイントが重要になる.ここでは過剰な自己宣伝は逆効果になりがちで,長期的なフォーカルポイントは誰が真の実力を持つかの共有知識によることになり,名声や名誉が重要な要素となる.
- 「平等マッチング」は「公平」「フェア」と呼ばれることもある.「1ドル山分けゲーム」では完全な50:50がフォーカルポイントになる.
- 以上の3つは同じ社会に同時にみられるが,状況や文化によってどれが当てはまるか,どのぐらいの割合でみられるかが異なる.よい友人同士は通常「共同体」関係だが,職場で「権威ランキング」に従うこともあれば,勘定を割り勘(平等マッチング)にすることもある.西洋文化では土地は売買するが,花嫁はそうしない.しかしこれが逆の文化圏もある.
- 「市場プライシング」の存在は現代社会の特徴で,目的追求のために合理的に設計された制度(法と規則で定められた組織,通貨,利息,クレジットなど)とともにある.現代社会の人々は何がこの関係に含まれ,何がそうでないかの区別に敏感だ.
- このような社会関係は個人間だけでなく,集団(階層,人種,宗教,民族,国家)間でも生じ,これらの集団は共同体,地位などのディスプレイを行う.集団間に抗争関係があると,突発的衝突の犠牲者は団結のシンボルになり,共同体的な怒りが生じることがある(真珠湾攻撃を含むいくつかの歴史的な例が示されている).
- 共同体的な怒りの反応は,「復讐」と考えるより(もしそうなら怒りは加害者だけに向かい,被害と罰の均衡が意識されるはずだ),協調ゲームの解決(この出来事がタカハトゲームのフォーカルポイントにならないためには,第三者の見ている中ですぐに反撃する必要がある)として考える方が理解しやすい.(実際の国際紛争がフォーカルポイントを争っていると解釈する方がわかりやすい例がいくつか挙げられている)
本章ではヒトの様々な社会関係において共有知識が重要になっている場面が多数あることが深く解説されている.それぞれの社会関係についてはこれまでも様々に議論解説されているものだが,共有知識の視点を持つと新しい面が見えてくるようで興味深い.
第6章 笑う,泣く,赤面,凝視,睨みつけ
第6章のテーマは感情のあからさまな表現が共有知識生成機能を持つことだ.冒頭ではダーウィンの「人および動物の感情表現について」などにも触れながら人の感情表現についての簡単な解説があり,そこからなぜそれがあるのかというテーマに移る.
- (単なる顔の表情を越えた)笑い,泣き,赤面,アイコンタクトの存在は「それが共有知識を生成できる」ことで説明できるかもしれない.これらは自覚的であり,自覚的であることが相手にもわかるので共有知識を生成できるのだ.
ここからピンカーは個別の議論に進む.
- 笑いは地位や権威に対するチャレンジについての共有知識を作ることが出来る.笑いは自覚的で相手から見て明らかで,互いに顔を見ながら権威を嘲笑すれば,「この権威は実は大したことない」ということが,それを表立って発言しなくとも共有知識になるのだ.笑いの多くがパブリックな場面で生じ,伝染性があり,基本的に不随意であるのはこのためかもしれない.リサーチによると多くの爆笑のトリガーは実は大して面白くなく,爆笑が生じる大きな要素になるのはちょっとした侮辱,不調和,妨害だそうだ.だとすると笑いの(適応的)機能の一部は,優位性の転覆によりタカハトゲームのある均衡から別の均衡への遷移を起こすことだとして説明できる.
- 家族や友人間で生じる軽い冗談による笑いは,この関係が「権威ランキング」ではなく「共同体」であることを示す共有知識シグナルとなる.
- これだけでは笑いは説明しきれないのかもしれない(そうでないユーモアの例や駄洒落について,またジョークについても考察されている)
- 泣きは笑いと対比されることが多いが,やはり不随意的で自身が泣いていることに自覚的で相手から見て泣いていることが明らかであり,共有知識を生成するようにデザインされていると考えられる.泣きは喪失,敗北のシグナルとなり,その共有知識はタカハトゲームの均衡の遷移を起こす.実際に子供のケンカにおいて片方が泣き出すのは明らかに敗北し,抵抗を諦めたあとだ.
- ただしこれは歓喜の涙,荘厳さに触れた際の涙を説明できない.(より広い泣きの説明についていくつかの考察がなされている)
- 赤面も不随意的で自覚的で相手から見て明らかであり,やはり共有知識を生成できる*12.赤面のトリガーは困惑(embarrasment)と恥の感覚になり,罪悪感はそうではない.困惑は社会規範からの逸脱が公になること,恥は倫理規範からの逸脱が公になることで生じるが,罪悪感は公になったかどうかにかかわらない.そして赤面は(公になった自分の規範違反に対しての)声に出さない,かつ(不随意であるために)単なる口頭の謝罪より信頼できる謝罪の機能を持つと考えることが出来る.それは「はい,私はしくじりました.そして自分がしくじったこと,それが守るべき規範違反であったことを自覚しています」といっているのだ.このような自覚がある者は,自覚ない者に比べて,社会選択の相手としてましになるだろう.単に注目されただけで赤面するケースはどうか.これはおそらく,注目を浴びた場面で傲岸に思われるのを防ぐ機能があるのだろう.
- さらに赤面は謝罪の共有知識を生成するだけでなく,この規範違反自体が共有知識であることが特に強いトリガーとなる.(それを確かめた実験,なぜそうなのかについて詳しい説明がある)
- 目は心の窓であり,互いに相手を見つめることで相手の心を読みあうことになる.だからアイコンタクトは究極の共有知識生成源となる.アイコンタクトする動物はヒトだけではないが,ヒトは,白目で視線方向が分かりやすくなるように進化しており,アイコンタクトが進化的に特に重要であったことを示唆している.実際に闘争場面や配偶者選択場面ではアイコンタクトは重要だ.
- 闘争場面において相手の目を直視するのはタカハトゲームのタカを選択する意思表示だ.目をそらすのはハトの選択を示す.恋人同士は見つめあって,それが相互的であることを確認する.とはいえ,相手の目を見て話す物腰柔らかい人が常にケンカに直面するわけではない.
- それはアイコンタクトが単に睨み合っているだけではなくもっと微妙なものだからだ.会話においては鼻のあたりや唇を見ながら時々目を見る.目を見る時も右目を見ることと左目を見ることを無意識的にスイッチする.その中で少し長めに目を見るのが意味を持つアイコンタクトになる.
- アイコンタクトは協調ゲームの均衡を決めるだけでなく,「これまでプライベート知識や相互知識だったものがこれからは共有知識になる」ことを意味することができる.たとえばオープンシークレット(明らかで,皆知っていることがある(たとえばある女性は太っている)が,誰も皆それを知っているかを確かめずに,気付いていないかのように振る舞う)はアイコンタクトによって破壊される(だからパーティで誰かが不用意にそれを言ったあとは皆目を合わさないように顔を伏せることになる).アイコンタクトはヒトの社会生活にとって非常に重要なのだ*13.
- 相手を激しく睨みつけることは,怒りのシグナルとされている.これは自分が搾取に対して(合理性を越えた)反撃する意志を表示している.最後通牒ゲームで多くの人がかなり平等な配分を提示するのは,相手が合理性を越えて拒否する可能性を考慮しているためだ.そして繰り返し最後通牒ゲームは一種の協調ゲームになり,「プレーヤーは侵害に対して反撃するような性質であること」が共有知識になることにより,より平等な均衡が得られる(強欲な提示者と合理的受諾者という均衡ではなく,公平な提示者と不平等提示に非合理に反撃する相手という均衡になる)と考えられる.
本章の議論も,笑い,泣き,赤面,アイコンタクトの究極因についての新しい説明で,なかなかエキサイティングだ.
第7章 イタチの言葉*14
第7章のテーマはオフレコードの間接スピーチ(Off-record indirect speech)はなぜあるのか,なぜ人は言いたいことを直接言わないことがあるのかだ.ピンカーはこのテーマについては2007年の「The Stuff of Thought(邦題:思考する言語)」で,交渉場面においては曖昧な表現がゲーム理論的に有利であることを詳細に論じている.そしてその後の自らの知見の進展により共有知識の要素を折り込むとさらに正確にこの状況が説明できることに気付いたので,ここではより洗練された見方を示すとしている.
- 困難な交渉場面において人々はめったに自分の意図を直接的に示さない.(ここで間接スピーチの具体例として,交通違反切符を切られた時のわいろの申し出,女性への誘い文句*15などが紹介されている)
- この間接スピーチの有利性は「否定可能性論理」に基づいてゲーム理論的に説明できる.わいろの申し出の場合,相手が正直な警官だったら,曖昧なわいろ申し出は「それはわいろの申し出ではない」と言い張れる.するとドライバーにとって警官が正直か腐敗しているか分からない状況下で違反切符受諾,直接的わいろの申し出,曖昧な申し出の3つの選択の中で,曖昧な申し出が最も有利になるのだ.このゲーム理論の状況では,ペイオフ表とプレーヤーが合理的であることは共有知識となっている.
- ここで,曖昧さの程度(それがわいろの申し出と解釈される確率)を入れ込んで数理モデル化*16すると,合理的な選択はそれぞれのペイオフと警官の腐敗割合に応じて受諾か直接的わいろのどちらかの申し出を行うというものになる.このモデルが見過ごしているのは,実際には正直な警官のわいろ判断と腐敗警官のわいろ判断の閾値が異なる(正直な警官はのちの裁判で揉めると自分の成績に響くのでわいろ判断には慎重になるが,腐敗警官は積極的にわいろ判断した方が実入りが良くなる*17)という点だ.この点を入れ込むとペイオフや警官の腐敗割合に応じて曖昧さを調整することが合理的になる.そして人々は実際におおむねそのように振る舞う.ただし腐敗割合が100%と教示されても直接的な申し出は避けようとする(ピンカー自身が行った実験結果が紹介されている).(ここで,何かを依頼する時の間接的な言い方や性的誘い文句についても,同様の分析がある)
- なぜ人々は交渉においてその必要がなさそうな時も直接的な言い方を避けようとするのだろうか.1つの理由は理解できる相手に直接的に要求するような会話は,そのような要求の存在の共有知識を作ってしまうからだ.そして共有知識は後戻りできない社会関係の変化を作り出す(一旦性的誘いをしてしまえば断られたあとも友人関係には戻れない).そのような社会関係の変化を望まない場合,人々は間接スピーチを好むということになる.(ピンカー自身による直接スピーチが共有知識を作り出すことについての実験結果が説明されている.詳細*18はなかなか面白い)
- もう1つの理由は,当事者にはその要求意図が明白でも,第三者には(その文脈が完全に明らかでないので)否定可能性が高くなり得る,そして当事者はそれに基づいて行動できるということだ.(これについてのピンカー自身の行った実験結果が説明されている)
- つまり間接スピーチはより望ましい社会生活を可能にするということだ.ただしこれには暗黒面もある.婉曲表現は残忍行動も可能にすることがあるのだ(ナチの収容所での表現が例として上げられている).
本章の議論は婉曲表現についての過去の説明を共有知識という視点を加えてブラッシュアップしたものになる.途中の数理モデルとかピンカー自身の実験の詳細とかは大変興味深い.
第8章 キャンセル本能
第8章のテーマは現代アメリカアカデミアのキャンセルカルチャー.ここもピンカーがかつて論じた部分を共有知識という視点を加えて深掘りするものになっている.
冒頭でポリコレ的に物議を醸す「質問」が大量に並べられていて面白い.ピンカーはこれらのテーマが,表現の自由,学問の自由(これらがいかに重要なのかについても丁寧な説明がある)が認められていにもかかわらず,社会正義派の検閲に晒されている現状を説明する.そしてこの表現の自由の侵害がアカデミアで行われる理由は,1つには人々はどんな事実を信じるかについて真実性よりもが倫理性を優先するためだが,もう1つにはそのある事実の主張が公共空間で行われると共有知識になり,既往倫理規範への挑戦となるからであり,だから本書で扱うのだとしている.
- なぜ人々はキャンセル運動に加担するのか.それは攻撃される群集にいるより攻撃的する群集にいる方が良いという理由もあるが,少なくともきっかけには倫理が絡んでいる.彼らは倫理秩序を守ろうとしているのだ(特に歴史的に迫害されてきた少数派への加害を守ろうとしている時に当てはまる).
- しかしほとんどの場合キャンセルされる側がそういう倫理秩序に挑戦しているわけではない.彼らはキャンセル側の倫理基準を受け入れており,その上で実証的な事実について主張しているだけだ.
- しかしヒトには事実の問題と正当性の問題をごちゃまぜにしてしまう傾向がある.私は「Rationality(邦題:人はどこまで合理的か)」で論じたが,人々は普段の日常的な問題については客観的なリアリティを尊重するが,歴史,社会,自然現象の原因などの大きく深い問題については,客観的な解答は得られないと直感し,容易に高尚そうな神話に依存する.
- アカデミアはそのような深い問題についての客観的な知識を得るためにあるが,しかし大学人もヒトであり,自分の倫理的立場に親和的な事実の主張を真実と受け入れやすい.それらは共同の信念となり,部族の絆となる.なお悪いことに人文学の分野で有力なポストモダン派はアカデミアの使命は真実の追究ではなく社会正義の追求だとし,事実と価値の混同に拍車をかけている.
- そしてここに共有知識の問題が絡む.社会正義戦士たちは,自分たちが大事にする倫理規範に疑問を挟むかのような事実が(たとえそれが科学的に健全なものであっても)共有知識になっては困るのだ.共有知識はルールを変える力を持つ.だから公の場での異端について検閲やキャンセルということになる*19.最近の調査によるとアカデミアの1/4は検閲に問題を感じないと答え,その傾向は若いほど強い.
ここでピンカーは「社会に大きな害悪を与えるならば,そのアイデアは抑圧されるべきだ」という考え方について「人種と知性,知性の遺伝性の有無」を例にして,様々な点から検討を行っている.そしてまずデフォルトとして表現の自由があるべきこと,異端のアイデアは真実でありうるし,そうでないとしてもそれが真実でないことを示すことが理解に繋がること,真実であったとしても(そもそも倫理は真実が何かにより崩壊しないものであり)より深い理解から議論が出来るはずであることから.検閲とキャンセルカルチャーに否定的な主張を行っている.
本章は確かに共有知識を用いたブラッシュアップの部分もあるが,むしろキャンセルカルチャー全般について強く批判することが主眼のような書き振りになっている.この熱の入り方はピンカー自身キャンセルカルチャーの標的になったことが影響しているのかもしれない.
第9章 過激な正直さ,合理的な偽善
第9章のテーマは「共有知識」を避けるべき場面だ.冒頭では言語だけでなくアイコンタクト,儀式,慣習などで共有知識が作られることがもう一度整理されている.そして我々は様々な方法で作られた共有知識で大規模な協力を可能にしているが,片方で(条件依存的に)それを避けようとすることもあること(目を合わさないようにする,知らないふりをするなど)が指摘されている.
- なぜ我々は時にある知識が共有知識となることを避けるのか.確かに我々の社会はより透明によりオープンなものになってきている.科学やジャーナリズムは神話を葬り去ることに対して躊躇しないし,我々は市場経済と合理的法制度の元に生きている.
- しかし実際には,「完全な正直さを求めること」自体が,究極の不正直だ.政治家が本当に正直になれば票を失う*20.プライベート知識が全くない状況というのは1984やかつての共産主義東ドイツのような世界だ.人間同士の関係性は多くのプライベート知識やshared knowledgeを共有知識にしないという偽善の上に成りたっている*21.日常の冗談や皮肉がすべてオープンになるなら,私たちの関係性や評判は粉々に砕け散るだろう.
- なぜそうなっているのか.ヒトの進化的ニッチは巨大な相互依存性だ.その一部には利他的な協力があるが,多くは相利的協力だ.その多くは協調問題であり,共有知識が協力の鍵になる.日常の社会関係は慣習の上に成りたっている.この慣習に疑問を抱かせることは相利的協力の破壊に繋がる.社会慣習を崩すような知識を公にしないことには合理性があるのだ.(共同体メンバーは平等,権威ランキングには正当性があるなどの例が示されている)
- また想像の中では欲望はリミットレスだ.私たちはそれはプライベート知識に留め置いて,日常的には(共有知識である)倫理や慣習の制限の中で行動している.皆,相対する人々も様々な欲望を持っていることに薄々気付いているが,それは知らないことにして生活している.すべて公にしては社会生活は破壊的になるだろう.この偽善の合理性の理解は社会生活の維持にとって重要だ*22.
要するに協調問題を解くための共有知識による平衡解自体が,共有知識によって覆されてしまう,あるいは別の平衡解に移動するという複雑な構造があり,ヒトの心理や行動はそれに大きく影響を受けているということになる.
そしてピンカーは最後にこう書いて本書を締めくくっている.
- これらの考察はすべて再帰的メンタライジングの実践だ.その自らの出力をフィードバックさせる認知的パワーは私のすべての著書のテーマとなっていて,何十年もヒトの認知を考えてきたあとでも畏敬の念を起こさせる.
- それは詩から形而上学にわたる言語の巨大な表現力の基礎となっていて,生存と繁殖のために進化したヒトの知性が,なぜ科学,哲学,数学を扱えるようになったか,なぜ規範や制度にみられるヒトの進歩が可能になったのかを説明する.
- そしてそれは,合理性自体に限界がないことを示唆する.かりに特定の合理性の応用に問題があったとしても,一旦ステップバックし,合理的に分析し,問題を解決するより高い次元での合理性を実現できる.
- それは私たちが最高に特殊である点だ.私たちは考察するだけではない,考察についての考察についての考察についての考察について考察するのだ.
本書は共有知識という再帰的メンタライジングと深い関係にある現象が,相利的協力を押し進める鍵となることからヒトの社会のあり方や進化に大きくかかわっていることを説得的に示した一冊になる.このテーマについてこれまでここまで深く議論されている類書はなく,本書はその意味で非常に新鮮で,しかも内容も深い.特にヒトの協力の多くは利他的な協力というよりも相利的協力で,かつ相利的協力には協調問題があって,だから共通知識は重要なのだというのは(それまで協力の進化という時に利他的協力ばかりが議論されていた中で)非常に啓発的だ.そして共通知識を解きほどいていく中で,ヒトの社会関係における共通知識の重要性が指摘され,さらに無限再帰h言及的概念認知の謎,言語進化の謎,笑い・泣き・赤面・アイコンタクトの謎の解決が提示される.
またこれまでのピンカーの様々な議論との関連も随所に解説があり,興味深い.ピンカー自身のリサーチも随所で紹介されているし,実際に婉曲話法やキャンセルカルチャーについてのピンカー自身の議論もブラッシュアップされている.本書はある意味認知科学者としてのピンカーの議論の再構成を試みた一冊になっていると思う.
テーマだけ聞くと非常に狭い話題を扱ったトリッキーな一冊であるような印象だが,実際には非常に広く深い.ヒトの認知,進化,協力に興味のある人にはぜひ勧めたい一冊だ.
関連書籍
本書で言及されているピンカー自身の著書
英語の動詞の過去形や名詞の複数形の規則型と不規則型からヒトの心にある「概念」の成り立ちや機能について考察する一冊.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170728/1501247091
言語の諸特性からヒトの心を読み解いていく一冊.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20080925/1222344711
同邦訳 啓蒙運動への懐疑論への返答として書かれた合理性についての一冊.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2021/11/14/112814
同邦訳
*1:ちなみにゾウは「the elephant in the room」(誰もが気付いているがあえて触れないようにしているもの)という英語の慣用句,マッツォボールはコメディドラマ「となりのサインフェルド」における(異性の友人に一旦愛してると告白してしまったら,それをなかったことにはできないことを示す)セリフ「that’s a pretty big matzo ball hanging out there」から来ている.
*2:ピンカーは普通の英語の用法ではcommon knowledgeがしばしば単に皆が同じことを知っている状態を指すこともあり,本来はmutual knowledgeの方が望ましかったが,すでにテクニカルタームとしてのmutual knowledgeは別の概念になってしまっていると解説している.日本語でもcommon knowledgeはゲーム理論の文脈では共有知識とされる(ので本ブログではこう訳している)が,shared knowledgeを共有知識とし,common knowledgeは共通知識という用語を使う場合もあるようだ.ただ日常的にはこの区別はあまり意識されずに,普通に共有知識,あるいは共通知識と言った場合にshared knowledgeを指していることも多いだろう
*3:Aがビール以外を望むなら「わからない」とは答えずに「No」と答えるはずだ.Bについても同じで,この時点でCはAもBもビールを注文したいことがわかる.この「全員ビールですね」問題のほかサルタンの妻の不倫問題,心理学者の歯のほうれん草問題などが紹介されている.
*4:そのような例としてエドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」のプロットや,哲学者カスカートとクラインの著書「プラトンとかものはし,バーに寄り道」の中のジョークが紹介されている
*5:ではなぜ現実世界ではこの協調問題がかなりの程度上手く解決できるのかもピンカーは説明してくれている.それは協調できることの(できない場合と比べた)メリットの大きさと自分が相手と同じ理解に達している確率を考慮して期待値を最大にするように合理的に行動できるからだということになる.またコンピュータの相互接続時にも同じ問題があって,それを解決するためのプロトコルがあることも紹介されている
*6:ピンカーはここで事態を改善するための方策として,ベイズ的に(自分の信念についての事後確率を明示しながら)議論する試み,議論を戦争としてではなくダンスとして捉える試みなどを紹介している
*7:これ自体が共有知識になることが第4章で説明されている
*8:もちろん,これが警察が不要だということを意味するわけではないと,ピンカーは付け加えている.真に強いものは常に裏切りが有利になり慣習など無視するかもしれない.だから予測可能な罰システムは重要になる
*9:「あなたが知る」まで(you’ll know they know you know they read it)は2010年ごろのブラックベリーの広告に実際に使われた文言だそうだ
*10:単なる再帰的な文章では,ある段階の内容はその前段階の範囲が狭まる形で与えられ,前段階の内容のみから理解可能だが,再帰的なメンタライジングではある段階の内容にはそれまですべての前段階の内容(さらにそれは異なる心において同じ概念について異なる内容でありうる)の把握が必要になることが決定的に異なるのだと解説されている
*11:日本語のうまい言い回しが思いつかない.近いのは寅さんの「それを言っちゃあ,おしまいよ」だろうか.
*12:肌の黒い人々も赤面し,それに自覚的で相手から見てもすぐわかることが,丁寧に説明されている.表情のユニバーサリティと人種差別が絡んでいろいろ議論があったようだ
*13:MicrosoftのホロレンズやAppleのヴィジョンプロが売れないのや,対面のミーティングがオンラインミーティングより好まれるのはこのためではないかと示唆されている
*14:「weasel words」は,曖昧な言い方での逃げ口上,ごまかしを意味する英語の慣用句
*15:アメリカでは「あがっていって僕の版画を見ていかない?(Would you like to come up and see my etchings?)」が古典的だが,最近では「Netflix観てまったりしよう(Netflix and Chill)」の方が有名な定型スラングだそうだ.
*16:ただし正直な警官が曖昧な表現をわいろと判断してしまえば,言い逃れは出来ないということが前提になっている
*17:ここもゲーム理論的に説明されている
*18:たとえば,性的誘いが曖昧な場合は,高次のメンタライジングになるほど確信度が下がるのに対して,直接要求の場合は完全な共有知識がすぐに成立する
*19:最近はde-platformingとも言うそうだ.ピンカーは「プラットフォームから下ろす」という言い方のはまさに問題のアイデアが共有知識になることを問題視していることをよく示しているとコメントしている
*20:歴代大統領の正直な発言が人気失墜に繋がった例がいくつか紹介されている
*21:完璧な正直さがいかにうまくいかないかを表す映画のプロットや実際に行われた実験の悲惨な結果が紹介されている
*22:その他の合理的な偽善の例として,警察がすべての犯罪を取り締まるわけではないこと,民主制の投票者にはお馬鹿な人たちもいること,時には人の命と救うためのコストがトレードオフになること,国際関係における曖昧戦略などが挙げられている





