読書中 「Moral Minds」 第1章 その2

Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong

Moral Minds: How Nature Designed Our Universal Sense of Right and Wrong


第1節で道徳は論理ではないことを示した後,そうでないという主張を論破するのが第2節だ.
具体的にはカントの道徳律とそれをゴールに設定したピアジェとコールベルグ道徳心理学を批判する.

ハウザーはまず,社会は私たちにいろいろなルールを教えてくれるが,何故それに従わなければならないのだろうと問いかける.そしてデカルトなどの哲学者は論理と合理性で導けると考えていた,そしてこれには2派あると説明する.善をその結果最大幸福を導くものと功利的に考える派と,すべての行動は原理原則から(結果とは別に)善悪に識別できるという義務論的に考える派だ.


まずカントの定言命法(汝の意志の格率が同時に普遍的な立法の原理として通用しうるように行為せよ「純粋実践理性の根本法則」といわれるもの)
ハウザーによれば,この主張は特定の状況に依存しないので普遍的に成り立つ,つまりこの普遍的なルールのみが合理的な人に十分な理由を持つ行為原則を与えることになる.そしてそうであるなら,道徳はコマンドラインで与えられるハウツウマニュアルのようなものになるはずだという.このあたりからは私の哲学リテラシーのなさからいって,なかなか苦しい読書だ.何とかついて行ってみよう.

カントによる定言命法の内容の例は以下のようなものになる.

  • 黄金律;自分が取り扱って欲しいように他人を取り扱え
  • 他人を手段としてのみ利用してはならない.希望や目的を持った人として扱え

そして具体的な導き方はこのようになる.

    1. 行動にかかる原則を宣言する
    2. それを普遍的法則と宣言する
    3. 世界と他人のいる社会に当てはめてみる
    4. うまくいきそうだったら,自分もこの原則を守れるか考えてみる
    5. OKならそれは道徳的な行動だ.


これをつかうと
たとえば,飢えていれば金持ちの友人から後で返すと偽って金を借りても良いかを考えると.ステップ3の世界にあてはまらないことからこれは否定される.このステップから,カントの道徳律はすべての人に当てはまるものでなくてはならないことがわかる.つまり盗みは嘘や殺人はのぞかれるのだ.


ここからはハウザーの批判だ.
ハウザーは,嘘がいけないならナチスからユダヤ人をかくまうこともできなくなる,また数人の命を救うために1人の命を犠牲にすることも許されないだろうとコメントしている.


そしてハウザーはここで一転して道徳心理学に話を広げる.
道徳心理学においてはジャン・ピアジェとローレンス・コールベルグが経験により,ルールとしての道徳律を学習するというモデルを出しているということだ.彼等によると学習のゴールはカントの道徳律になる.彼等は特に「正義」に議論をフォーカスし,どのように未熟な子供が経験により成熟した正義の概念を持つようになるのか説明しているらしい.


ハウザーは,確かに子供の道徳観は年とともに変わっていくが何故どのように変わっていくのは明らかではないとコメントしている.子供はいろいろなこと(宿題をやれ,ブロッコリを食べろ,風呂に入れ,食べ物で遊ぶな,道路に飛び出すな,)をいわれる.そしてあるものは道徳として認知してあるものはそうでない.子供は道徳と文化慣習をどう区別するのか.ここを説明できないモデルは役に立たないというのがハウザーの主張のようだ.要するにこれはカントの道徳律を行動主義的に説明していくモデルに対する批判らしい.

そしてハウザーはさらにカントでは説明できない例を挙げていく.
中絶は悪なのか女性の権利なのか?それは他人の視点に立っても解決できない.共感はバイアスを産むが問題を解決できるわけではない.人を手段として利用してはならない? ではコックを雇って料理をさせるのは? 彼がユダヤ教徒と知ってかつ豚料理を頼むのは? アリストテレス,ヒューム,ニーチェはカントに反対の立場だ.彼等はコールベルグのいう最終的なステージに到達していないのだろうか?

なかなか辛らつな批判だ.
ハウザーの主張のここのポイントは私たちの道徳判断はその理由付けに先立っているのかそうでないのかが問題なのだということだ.もし私たちが,先に直感的に善悪を判断して,後付で理由を探しているのだとすると,ピアジェ・コールベルグのいう子供の道徳発達は単なる理由付けのうまさの発達にすぎないといことになるということだ.



第1章 何がいけないのか


(2)間違った論理