「その数学が戦略を決める」

その数学が戦略を決める

その数学が戦略を決める



スティーヴン・レヴィットの「ヤバい経済学」とちょっとかぶった,統計応用のお話.レヴィットの方はヒトがインセンティブにどう反応しているかについて統計を利用して調べて純粋におもしろがっている雰囲気だが,本書は違う,どこまでもどう役に立つかという問題意識であり,びしっと一本プラグマティズムの筋が通っている.はるかに実践的ではるかに徹底的.いわゆる「身も蓋もない世界」を描き出している.


本書のすさまじいところは,単純な回帰分析が,いわゆる「専門家」よりはるかに信頼できるという驚愕の事実が次々と紹介されるところだ.ヴィンテージワインの価格推移予想から始まって,「マネーボール」でも紹介された,野球選手の実績評価など次々と専門家の予想のでたらめぶりが明らかになる.その中でも衝撃的な逸話は,単純な回帰分析の予想の方が,最高裁判事違憲判断について,法律の専門家の予想よりも正確だという事実だ.


最初はインターネットとコンピュータパワーが可能にした数々の回帰分析によるマーケティング革命話.アマゾンのお勧め本の紹介や,お見合いサイトの相性判定,そして最先端のマーケティングとしては,逃げそうな消費者を予想してそこに効率的にサービスを行うという手法まで実行されている.今やあるブランドに盲目的な忠誠を持つ客はどうせ逃げないからと低いサービスしか受けられず,結構価格に甘いが浮気性と判定された人にサービスが集中している可能性があるというのだ.これからはウェブサイトから無料クーポンが贈られてきたら高い代金を払いすぎていた可能性を心配すべきなのかもしれない.

ここでカジノで,負けが込んでこれ以上熱くさせると二度と帰ってこなくなる客を回帰分析で予想して,マネージャーがそっと近寄り,「今日はツキがないようですね,どうぞ奥様とレストランで御食事でもなさってください.これはホテルからのサービスです」と肩をたたいて,またのお越しを願うという話が紹介されている.さすがアメリカ.


そして回帰分析を一歩進めると,ネットにおいて無作為抽出実験を行えるところに行き着く.ある販促手法が有効かどうか知りたければ,一定数の顧客を無作為抽出して,販促ありとなしでどうなるかデータをとって見ればいいのだ.クレジットの勧誘で右上に女性の写真を入れるのは利下げ4.5%と等価だとかありとあらゆるデータがとれる.昔はダイレクトメールで行っていたことが,今やウェブページを無作為化することで簡単にマーケティング実験ができるのだ.ウェブデザインから本の題名まで何でも調べることできる.ミシンを2台まとめて買うと割り引くというセールは予想を裏切って,(ご近所との共同購入という形で)売り上げに大きく寄与するという結果とかも面白いし,本書の題名自体(Super Crunchers (原題)の方が著者が最初に考えた The End of Intuition より63%クリックが多かったそうだ)これによるリサーチで決めたらしい.(残念ながら邦題「その数学が戦略を決める」はそうではない)


次に紹介されるのは政策決定,ある政策が,政策目標の実現に役立つかどうか,回帰分析で判断しようという流れだ.再犯率を下げるために有効な刑事政策,貧困をなくすための有効な福祉政策などの立案に利用される流れが生じつつあるというのだ.これも衝撃.


そして医療診断の世界だ.日本ではほとんど導入されていないが,アメリカでは統計的な根拠を基にした診断(コンピューターによる診断支援ソフトの利用という形をとる)が普及しつつあるという.(そして確かに明確に誤診が減るのだ)患者が医者に論文の提示を求めることもあるというアメリカならではだ.しかも診断アルゴリズムはまさに検索の世界であり,コンピューター支援ソフトを使うのは考えてみれば非常に賢明だ.こちらの方がはるかに良いのではと思ってしまう.


回帰分析と並んで今急速に発達しつつあるニューラルネットワークの手法が次に紹介される.ここでの衝撃の逸話は映画のシナリオがあたるかどうかについて,ニューラルネットワークソフトの的中率が専門家をはるかに凌駕しているということだ.近い将来私達はソフトがOKといったシナリオや小説ばかり目にすることになるのかもしれない.そしてこれは引用回数を増やしたい学者の論文の解析にももちろん使えるのだ.


最後に本書はこのような計算革命の暗黒面にふれる.
このようなマーケット革命は消費者1人1人にとっては脅威だ.今や消費者はマーケットの力を頼ってのんびりしていてはどこまでも高い買い物をさせられるリスクと向かい合っている.ちょっと油断すれば消費者1人1人に対して,彼/彼女が払うであろう上限予想金額を個別提示することだって簡単にできるのだ.これはまた簡単に差別を引き起こせるという微妙な問題も含む.(人種そのものをキーに使わなくとも,人種と相関の高いパラメーターを使えば結果は人種差別的になりうる)
また専門家の判断が無くなれば,いわゆる「頭脳判断業務」はどんどん少なくなり,マニュアル通りの仕事ばかりになる.アメリカの銀行の融資係はかつては高給を取る判断業務だったが,今や信用クレジット判定は単純アルゴリズムの適用に過ぎずそのプレステージは大幅に下がっているそうだ.
また計算手法はなかなか直感でわからないような間違いをしてしまいがちなところも怖いところだ.(特にそれが政策判断や病気の診断に使われればそうだ)最後に著者は統計リテラシーをつけることを進めて本書を締めている.



なかなか衝撃的な本だ.日本ではこのような回帰分析はビジネスや医療,法律の世界での利用がアメリカに比べて相当遅れているのだが,しかしその有用性はおそらく世界共通であり,いずれこのような世界にどんどん突入していくのだろう.おそらく医者や弁護士もその一部業務についてはだんだんマニュアル仕事に変わっていくのだろう.それにしてもいわゆる「専門家」がいかにいい加減なことが多いか,自らの経験と照らしても,しみじみと,確かにそうだなあと思わせる本であった.



関連書籍


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最近増補改訂版が出た.早速入手して読んでみたが,増補分は100ページほどあるが,ブログになっているちょこっとしたお話が多くてやや軽い.すでに持っている人が買い直すにはちょっとコストパフォーマンスは微妙だ.初版の私の書評はこちら
http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060517#1147872703


マネーボール

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アスレチックスが統計的な選手評価で成功していくノンフィクション.実は統計利用の部分はちょっと誇張があるような気がする.


Moneyball: The Art of Winning an Unfair Game

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同原書



The Blind Side

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同じ著者がNFLについて書いているもの,また統計利用ネタかと思って購入して読んでみたが,全然統計利用の本ではなく,パスラッシャーとオフェンスラインの戦術進化と,前途有望なレフトタックルの逸話を描くノンフィクションだった.(アメリカンフットボールはサッカーやバスケと違ってすぐボールデッドになる細切れスポーツなので統計処理は可能だと思われるが,野球ほどシチュエーションがデジタルではないこと,選手の相互作用が多くて,純粋な個人パフォーマンスにかかる統計があまりないことなどで統計利用は難しいようだ)もっともそれはそれでとても面白かった.



メジャーリーグの数理科学(上)(下)

メジャーリーグの数理科学〈上〉 (シュプリンガー数学リーディングス)

メジャーリーグの数理科学〈上〉 (シュプリンガー数学リーディングス)

メジャーリーグの数理科学〈下〉 (シュプリンガー数学リーディングス)

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野球の統計利用に興味がある人には文句なくお勧め.
野手の打撃評価には,大きく分けると,同じ選手のクローンが攻撃し続ければ1試合に何点とれるかというシミュレーション型と,過去の得点データと打撃成績を回帰分析して,ヒットや本塁打の得点貢献を重み付けする型の2手法があるなどの蘊蓄がたっぷり詰まっている.