読書中 「The Stuff of Thought」 第3章 その2

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


さてピンカーの説に対する極端説のその1は序節でも振られていたフォダーの極端生得主義説だ.
フォダーの議論は単純なところから始まっているのだと言う.まず言語を習得するときには何らかの生得的概念とその組み合わせになることはまちがいない.そしてそのどこまでが生得的だと考えるべきなのだろう.

ピンカーの挙げる例はまず「青」と「四角」から「青い四角」ができるというものだ.
次に単語の場合にはどうか
「母」は「女性」の「親」で,「kill」は「cause to become not alive」なのか.


フォダーはここでほとんどの単語は生得的概念だと主張するそうだ.
その議論は定義は常に失敗するからというものだ.


killをcause to become not aliveと定義しても,火曜日に毒を盛って水曜日に死んだ場合cause to become not aliveとは言えてもkillとは言えない.そして哲学者は「知る」「科学」「善」「説明する」「電子」などをより単純なユニットで定義することができないのだ.そして人々が実際に言語を使っているときには組み合わせ概念を使っているようには使わない.
ここである概念がより基礎的な概念の組み合わせにより定義できないなら,その概念自体が基礎的な概念となり,そしてそれは生得的であるはずだ.もちろん胎児がキャブレターの意味を知って生まれてくるわけではない.現実世界の鍵に触発(リリース)される必要がある.

フォダーは例外も認めているそうだ.テクニカルなジャーゴンや「素数」などの数学用語,皿洗い機などの複合語は基礎的概念ではないとしている.しかし辞書にある残りの半分の単語はそれが50,000だろうが10万だろうが基礎的だと主張している.さらに他言語の単語で英語で単純に定義できないものがあればそれも含むのだからもっとあるだろう.そしてもしそれが進化生物学に反する(進化はキャブレターのようなものを予想して用意できるはずがない)なら,フォダーは(その敵の経験主義者と同じく)進化生物学自体をなぜなに物語だと吹き飛ばすのだ.もし常識に反するなら常識が間違っているのだ.科学の発見は常識に打ち勝つ.量子論を見よというわけだ.フォダーの同盟者,マッシモ・ピアテリ=パルマーニは(そしてチョムスキーも)こう議論している.免疫システムはいつ出会うかわからない抗原のために抗体の組み合わせを用意しているではないか.言語も同じではないのか.


これはなかなかすごい議論だ.ある意味感心してしまう.おそらく最初の「定義できないから生得的」と言うところに飛躍があるのだろうが,そこをきちんと論理的につかない限りいくら進化を持ち出しても駄目だというのはなかなか敵に回すと手強い論者だ.


ピンカーも同じく,「単語の意味はより基礎的なユニットに分解できない」というところに誤りがあるのだろうといっている.それでも,ウェゲナーの大陸移動説まで持ち出して,常識が何であれ突き進むその姿勢には感銘している様子だ.
ただし,常識に反した主張を行うには,証拠が薄すぎると指摘している.


ピンカーは免疫を持ち出すなら,その背後にある強い淘汰圧についての理解が必要だとまっとうな指摘をしている.確かに脳が通常不要なまでの多くの生得的概念を用意する方が有利になる淘汰圧はありそうにないだろう.そして淘汰圧があるなら,子供がわかりやすく学習できる方に強く働いているはずだと主張している.ピンカーに対して免疫のような生物進化的な物事を持ち出すのは分が悪そうだ.



さらにピンカーは学習者の利益という点から見て本質的な議論をしている.言語を使って有意義なことを行うには,動作や成果を区分けしたサブ概念を持った方が有利だろうという議論だ.
何かを「溶かす」ためには溶かすというのは溶けるように原因を与えることで,原因を与えること一般について何らかのアイデアがなければならないだろうというわけだ.これももっともな議論のように思う.


第3章 50,000の生得的概念(そしてその他の言語と思考に関するラディカルな理論)


(1)極端生得主義