「プリオン説はほんとうか?」




少し前の本だが,真摯な本だという評判通りのなかなか良い本だった.本書はBSEスクレイピー,そしてクロイツフェルト=ヤコブ病の病原体とされているプリオンについて,その病原性について批判的な立場から書かれたものだ.


この病気がなぜ通常のウィルス性ではないと考えられたのか,そしてプリオン説の提唱者プルシナーの偏執的な追求,さらにその強引さ,そしてBSEの英国における蔓延とヒトの感染性クロイツフェルト=ヤコブ病発生にかかる経緯が冷静なタッチで描かれていく.


そもそもなぜウィルス性ではないと考えられたのか.まずそれまでのスクレイピーの感染性の知見として,煮沸,凍結,紫外線,フェノール,クロロフォルム,ホルマリン処理などに対して感染性が消失しないこと,そして免疫反応がないこと,1960年代の電離放射線によるスクレイピーの不活性必要量からの病原体の分子量の推定値が通常のウィルスよりきわめて小さかったことが知られていた.最後にプルシナーは,感染性がタンパク質分解酵素,タンパク質変成剤によって消失するが,核酸分解酵素などには抵抗することを強調し,宿主の脳に特異タンパクを発見し,その分子量が5万程度であることを示して,プリオン説を提唱したのだ.


プルシナーのプリオン説の提唱は実は1982年のことだ.私はもっと最近かと思っていたがそうではない.これはあまりにそれまでの生物学的な常識からかけ離れていたために学界にはなかなか受け入れられなかった.しかしプルシナーの精力的なデータ収集,及びウィルスがまったく見つからないことから徐々に信用されるようになっていき,かつ英国におけるBSE,感染性クロイツフェルト=ヤコブ病の発生から世界的に注目されるようになり,ついに広範囲に受け入れられ,1997年にノーベル賞を受賞する.


著者はこれに対して,なお純粋のプリオンを精製あるいは作成し,それを実験動物に注入することにより発病させるという決定的な実験がなされていない以上,プリオン説はまだ有力仮説に過ぎないという立場を取る.一般の読者から見て初めて知ることになるのはプリオンのみを精製あるいは作成することがきわめて困難だということだ.これまでの実験は常に感染宿主の組織から取られたもので,コンタミネーションがないとは断言できないというのだ.

そして1つづつプリオン説の根拠とされたデータを見ていく.背後にはプルシナーの強引な仕事の進め方がかいま見えるところも研究者の人間模様としてなかなか興味深い.


通常の処理に対して感染性が消失しないのは,感染宿主の組織や,プリオンの凝集体の内側に少数残ったウィルスが感染性を保っているとも解釈可能なこと,免疫発現に対してはウィルスが抑制している可能性もあること,細かくデータを見るとプリオンタンパク質の集積と感染性にはきちんと対応していない部分があると解釈できること,電離放射線実験を今日的に追試すると十分最小のウィルスの分子量に収まることなどを説明している.またスクレイピーに株型があること,宿主を変更したあと累代感染させると発病までの平均期間が3代目まで短くなりその後安定すること,弧発性のプリオン病とされるケースの発生確率にもかかわらず米国やオーストラリアなど牛や羊が多く飼われている国でその頻度の発生が見られないことなど,ウィルス説の方が解釈容易な現象もあることを指摘している.


著者のウィルスへの追求はまだ日の目を見ていないが,少なくとももしこの可能性が少しでもあるなら十分追求に値すると主張している.実務面ではBSE危険部位とされている根拠はプリオンタンパク質の集積部位だということにあるので,もしウィルスが感染源であるならその定義が異なってくる可能性を指摘している.


本書は講談社プルーバックスの一冊だが,通説への批判というなかなか異色な内容で,真摯な科学の営みがどういうものであるかを実に生き生きと語っている.著者のストーリーテリングの才能もなかなかのもので,背景の人間ドラマを描きつつ説明していくスタイルで,内容が専門的であるにもかかわらず飽きさせない.これから科学を目指す若い方に特に推薦できる良書だと思う.