「生命をつなぐ進化のふしぎ」

生命(いのち)をつなぐ進化のふしぎ―生物人類学への招待 (ちくま新書)

生命(いのち)をつなぐ進化のふしぎ―生物人類学への招待 (ちくま新書)

  • 作者:内田 亮子
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2008/10
  • メディア: 新書



内田亮子の新刊でちくま新書だ.生物人類学の紹介書ということになるだろうが,単純な概説本ではない.著者独自の切り口から生物としてのヒトを眺め,最近の世界の研究成果を紹介し,関連する興味深いトピックにふれ,さらに生物人類学者としての深いコメントがところどころに挟まっている.新書というあまり固くない様式をうまく生かした独特の本に仕上がっている.

切り口としては,生命や進化をどう説明するか,食事あるいはエネルギー効率,社会,配偶,育児,老化,死という各章で構成されている.最初のどう説明するかという観点からは,何でも必然として説明したがるヒトの認知傾向と,真摯な科学的な営みから生まれる知見とのギャップが語られる.科学者として誠実に説明しようとすることが一般になかなか理解してもらえないという悩み,あるいは憤慨が行間から見えてくるようだが,本文では軽やかにエスキモーの「いやー,そんなものできちゃいましちゃか」という創造神話がお気に入りだと結んでいる.


そこからは最近の生物人類学の知見が,透徹な文章で次々と語られる.まずエネルギー効率のところでは直立二足歩行は長時間の移動のエネルギー効率の最適化であって,これは結局食物獲得のエネルギー効率の問題だろうと結構大胆に書かれている.また人類進化でよく問題になる脳の増大についても因果を大胆に推定していて快感だ.著者によると,「まず脳の増大には社会的なメリットがあったのだろう.そして増大するためにはどこか別のところでエネルギー効率を上げなくてはならない.それをヒトでは消化効率の向上(調理,肉食)で行っている.」という順序になるようだ.著者による興味深い推測や指摘には,このほか貨幣経済システムでは,ヒトの脳が慣れ親しんだ社会的互恵性とは多少異なる情報処理をしている可能性があるとか,ヒトと動物の最大の差は知識の世代間累積ではないかなどがある.
逆にわかっていないところは,はっきりわかっていないと書かれている.たとえば何故チンパンジーの雄がグループによる襲撃を行うのかの究極因,何故ヒトで格差のない平等社会と恒常的な食料配分が生じたのかの究極因はよくわかっていないとしている.


ところどころに著者が特に興味深いと考えているトピックがちょっと詳しく紹介されていて,そのメリハリも新書らしいところだ.ブチハイエナのメスが集団の中で優位であり,生殖器がオスのものに類似しているのは有名だが,この生殖器により,オスから強制的に交尾されることを避けることができて,メスの優位性と共進化したのだろうという議論とか,天敵のいない島ではオポッサムの寿命が延びるリサーチなどが詳しく語られている.


著者自身の研究にかかるものもちょっと詳しく紹介されている.オランウータンの頭骨測定から,オスの成長具合に多型があることを発表し,後にオスの成長・繁殖戦略としてのスニーキー戦略が見つかった話や,血中テストステロンの測定方法の革新や,男性のテストステロン濃度が20-40歳で上昇するのは生殖機能に必要なためではなく,人類史上のホンの最近の出来事かもしれないなどの議論が紹介されている.


フェミニズムと関連した話題もいろいろと語られている.一夫多妻制度は人類の自然の傾向などと議論されることがあるが,それは「条件が許せば」という話であって,その「条件」は農耕以降に満たされたという要素が大きく,また当初は女性側の選択という要素も大きかったはずだが,ある時点から男性が自分たちの力や能力を勘違いして女性蔑視へと暴走してしまったのではないかという記述や,少子化に関連して1人の子どもに多大な投資をするという親の行動は,生物学的には暴走であるが,意識的な利得計算をしていることも確かだという記述があって,女性研究者としての抑えきれない主張がちょっと顔をのぞかせているようで,本書の魅力の一部といえるだろう.
その中にはチンパンジー観察のフィールドで出会った現地の女性割礼のエピソードが語られていて,「人権侵害であり,女児たちの命さえおびやかすことにもなる女性割礼が悪習であると発言しただけで,それ以上のことは何もできなかった私は確かにナイーブである」などの記述がある.1人の女性として,人類学者として,どう対処すればよかったのか,どう向き合うべきなのか,無念の気持ちがにじんでいて胸を打たれる.女性割礼について,著者は,通常女性学の運動家によってジェンダー論の枠組みで議論されるが,異なる次元の認識と理解が必要だとし,「この慣習は男性の傲慢からというより,人間という生き物の哀れな猜疑心から生まれたものである」とコメントしている.


最終章では,生物としてのヒトと現代社会の不適合として,肥満,成人病,身体の成長と心の成長のアンバランス,人口密度と遠距離移動による感染症の脅威,大量殺戮が技術的に可能になっていることなどをあげている.そのなかではCO2排出に加えて人口増加圧についても,国際間で同じ程度の関心を持つべきであり,インドなどにおいて,女性への教育,家族計画啓蒙が必要ではないかという主張を行っている.確かに問題なのはCO2だけじゃないだろうというもっともな主張だ.


というわけで,本書は新書ということである程度自由に書かれていて,しかし非常に濃密なヒトについての本に仕上がっている.コンテンツとして私としてもっとも評価したいのは最近数年間の面白いリサーチ結果が数多く紹介されていることだ.巻末にはしっかり引用元が書かれてあり,非常に良心的な作りだ.この高いコストパフォーマンスには脱帽である.


最後に本書で紹介されている最近の知見の一部を抜粋しておこう.

  • カリマンタンのオランウータンとスマトラのオランウータンでは,主食の果実の豊凶のあるなしに差があり,豊凶があるカリマンタンのオランウータンは果実が豊富な時期に食いだめして脂肪をため込んで少ない季節に備えるという適応が見られる.1998
  • ヒトの女性が授乳中に妊娠しにくいのはホルモンを通じてだとされてきたが,それよりも単純に栄養状態が効いているらしい.2001
  • 農耕以降にデンプン消化能力にも進化適応が生じている可能性がある.穀類をよく食べる人類集団(日本人を含む)ではよりアミラーゼ遺伝子のコピー数が多い.2007
  • ネズミは人間型食事とチンパンジー型食事(菜食)によって消化酵素遺伝子の発現パターンが異なってくる.2008
  • アメリカの32年,12000人のデータからは「肥満は伝染する」ことが示されている.2007(太った人が周りにいると個人的な基準がずれてくるからではないかと推測されている)
  • ヒト以外の霊長類の新皮質の相対的な大きさは社会の中の「裏切り」の頻度と正の相関がある.2004
  • 脳の各部位の大きさを霊長類の中で比較すると,ヒトでは扁桃複合体の一部が大きい.2007
  • ヒトにおいて信頼ゲームを行うときにオキシトシンをスプレーで嗅がせると有意に相手を信頼するようになる.2005
  • 自己申告で料金を払うコーヒーメーカーに眼の写真を貼ると花の写真に比べて有意に支払われる比率が上がる.2006
  • 年ごとの10万個体当たりの集団間の抗争が原因とされる死亡率の平均は狩猟採集民とチンパンジーで大差ない.2006
  • 15の社会の比較的研究から互恵的懲罰行動と利他的行動の変異には正の相関がある.2004
  • 社会的脳仮説を肉食動物,偶蹄類,コウモリ,鳥類,霊長類に拡大して検証したところ,脳の大きさにもっとも効いているのはつがいがユニットになって生活しているかどうかという点だった.2007(このことから異性のパートナーとうまく暮らすということが脳にとって大変負荷のかかることで,情報処理の必要性が生じているという可能性がある)
  • ヒトのメイトチョイスが臭いによるMHCの型に影響されているのは知られているが,視覚的にも同じ情報を得ている可能性がある.(自分とのMHC型の変異性が高い男性の顔ほど女性から見て魅力的と判定されている)2005
  • アイスランドの記録からは遠縁の婚姻の方が有意に子どもや孫の数が多い.2008
  • ワキモンユタトカゲでは成長・繁殖行動に3戦略あってグーチョキパーの関係になっている.2003
  • 歯のエナメルから見るとネアンデルタール人の成長は現代人ほど遅くなかったようだ.2006
  • ヒトの子どもの成長の遅さは,多くのエネルギーが必要になる身体の成長を遅らせてエネルギーを節約し,食料調達能力,社会性を発達させるという戦略ではないか.2007
  • カロリー制限の寿命延長効果は,単なる活性酸素量の問題ではなく,サーキュインと呼ばれるタンパク質が関係してミトコンドリア機能が向上しているらしい.2008
  • キイロヒヒの父親は父性が不確実であるように見えるが,自分の血縁である子どもを見分けて選別的に世話をする.2003
  • 80カ国200万人の調査によると中年期のヒトの幸福感は,40-50歳で憂鬱感がピークになり,その後上昇,70歳では(健康であれば)20歳の時と同じ程度幸福になる.2008
  • HIV-IはアフリカのサルのSIVがカメルーンのチンパンジーに広がり,そこからヒトに感染した.2006


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  • 発売日: 2007/01/30
  • メディア: 単行本


内田の手による非常に端正な本だ.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070312