「犯罪の生物学」

犯罪の生物学―遺伝・進化・環境・倫理

犯罪の生物学―遺伝・進化・環境・倫理


デヴィッド・ロウ*1による2002年の「Biology and Crime」の邦訳である.犯罪と生物学についての様々な視点からのトピックを簡単に紹介する入門書という位置づけになるだろう.かねてから有名な本であり,訳出されて喜ばしい.*2

19世紀の骨相学の過ちから後,長らく犯罪学においては「犯罪の原因は社会にあるのであり,生物学的な原因はあり得ない」というイデオロギーに染まっており,生物学的な要因を持ち出すのはいわばタブーであった.本書によるとそれは1980年代以降少しづつ変わりつつあるということだが,なお犯罪学のメインストリームではないのだろう.そういう中で書かれた入門書として,行動遺伝学,分子遺伝学,神経イメージング,進化理論における知見と犯罪学,刑事政策へのインプリケーションを扱っているのが本書の立ち位置である.


さてロウはまず,骨相学の誤りも,それが科学的な言明であったからこそ誤りだとわかったのであり,犯罪の至近的要因,究極的要因について科学的に考えることは重要であると前振りし,すべての行動が生物学的な現象であることは当然であり,世界中の文化で犯罪とされることに強い普遍性があることをまず指摘している.ここは犯罪学が属する社会学の中でいかに社会構築的な考えが強いかを物語っているところなのだろう.


さて個別のトピックについては,まず行動遺伝学のあらましを紹介し,その知見を簡単に説明するところから始めている.
その中心的な知見である「犯罪傾向に一定の遺伝率があることは明らかである」ことを示した後,いくつかの論争についても触れている.
若者に特有の一時の非行と生涯変わらない犯罪傾向という2つの犯罪傾向は離散的なものかどうか.(前者の方が遺伝率が低いことが観察される)ロウは,このような傾向が単一遺伝子で決まる性質であるとは考えられないので,これは連続体の中にあるのではないかとしている.
精神障害と犯罪傾向については,統合失調症は奇怪でまれな犯罪の一因となっているとともに,注意欠陥多動性障害,行為障害は犯罪傾向とのあいだにある程度の相関が見られると述べている.このあたりは事実とは言え,かなり思い切った記述になっている.
最終的にロウは,「犯罪傾向はある程度の遺伝率を示す.しかし犯罪の原因はさまざまであり,性格を含む様々な要因が遺伝率を作っている.また明らかに環境との相互作用がある」と結論している.犯罪に単一の原因があるわけではないというのは,刑事政策的な応用から見て非常に重要な点だろう.


次に進化的な考察を紹介する.
性淘汰理論,血縁淘汰,生活史戦略を簡単に紹介し,より男性が攻撃的でリスク受容的であること,若者期ほどリスク受容的であること,血縁関係においてより協力的であることが,男女の犯罪傾向の性差,犯罪の年齢別曲線の形状,子供の虐待において継子の場合の方がリスクが高いこと,共犯者における血縁者の割合などをうまく説明することを説明している.
同性,同年齢における犯罪傾向の個人差については,条件付き適応,代替的適応,さらに頻度依存淘汰にかかる代替戦略をあげている.(代替的適応の説明は残念ながら理解できないものとなっている.何らかの誤解があるように思われる)そしてサイコパスについて代替戦略である可能性を示唆している.
紹介されているのは有名どころを含め初歩的な部分だが,犯罪学の主流からはかなり衝撃的な部分であるのかもしれない.


次は犯罪傾向と相関する生物学的な特徴をもって,識別検査ができるかというトピック.
衝動抑制能力,テストステロン,セロトニン,安静時心拍数,皮膚伝導検査,MRIによる前頭前野灰白質の厚さなどが検討される.安静時心拍数や皮膚伝導検査は,「脳の覚醒水準が低い人は,いわば自己投薬として犯罪などの刺激を求める」という考えに基づいているものだそうだ.
ロウは少なくともこれまで提唱されてきた社会環境からの犯罪の予測と同等かそれ以上の予測を,生物学的な測定(特に安静時心拍数と前頭前野皮質の厚さ)を組み合わせて判断することから得ることができるようになったと主張している.淡々と書かれているがここも結構衝撃的な内容だろう.


つづいて分子遺伝学のトピック.
分子遺伝学の初歩を紹介してから,いくつか話題になった遺伝子(ドーパミンD4受容体遺伝子,MAMO遺伝子)を取り上げる.ロウの結論は,「確かに犯罪傾向と相関する単一遺伝子はあるようだ,しかしそれは1つずつではごくわずかに犯罪傾向を変えるに過ぎない.多くの遺伝子が作用して犯罪傾向の相対が決まっていると考えられ,何らかの単一遺伝子で犯罪傾向をスクリーニングできるようにはなっていない」というものだ.


遺伝が犯罪傾向をある程度説明できるとして環境はどうなのか.
まず環境からの影響を調査するときに,そもそも遺伝がその環境と犯罪傾向に影響を与えている可能性をよく軽視することがあること(ある環境と犯罪傾向が相関したからといって,その裏に両方に影響を与える遺伝的な要素がある可能性がある)に注意を向けてから,これまで得られたいくつかの知見を紹介している.
まず近隣地域の効果は(遺伝要素を調整後は)あまりない.友人グループ間で犯罪傾向が相関する原因には,遺伝的に似ているものが集まる効果と,友人が影響を実際に与え合う効果の両方があるだろう.破綻した家庭と犯罪傾向の相関も,そもそも犯罪傾向の高い子供(と親)がいる家庭が破綻しやすいという効果もあるので割り引かなければならない.
ロウは,このように環境が圧倒的に重要だというこれまでの見解は妥当しないことを説明した上で,しかしいずれにしても個々の犯罪傾向は遺伝子と環境の相互作用の結果であるので,どちらも影響を与えるし,どちらか一方だけで考えるべきではないと注意している.
犯罪の環境からの影響に関連して,歴史的な犯罪率の変化の原因についてもここで議論されている.ロウは様々な議論があるが,まず数十年単位で大きく変わることから遺伝だけで決まっているわけではなく,何らかの社会的要因があるはずだが,対照実験ができるわけではないので何が正しいかを判断するのは難しいと述べている.「ヤバい経済学」でおなじみのレヴィットの「妊娠中絶率の上昇による1990年代の犯罪の減少」という仮説も紹介されているが判断は留保されている.



犯罪傾向を幾分か予測できる識別テストがあり,わずかとはいえ,犯罪傾向に相関する遺伝子もあるという知見を受けて,ではこれが刑事政策に与えるインプリケーションはどういうことになるのか.
ロウはまずこれまでの刑事司法アプローチ(自由意思で悪いことをしたものを罰する)から,医療的治療アプローチ(可能なものについては予防,治療を行う)に幾分か転換できる可能性を示唆する.
なお自由意思について,それが小さいことを示す生物学的知見から責任棄却,情状酌量できるかという問題にも触れている.現在の刑法理論でも責任阻却や情状酌量が認められているが,例えばその証明に遺伝学的なもの(生物学的マーカー)が使えるかということが問題になるだろう.現時点でアメリカの法廷は遺伝学的な証拠を頑として認めないそうだ.日本でもそうであろう.ロウはこのような知見が科学的により水準の高い承認を得るにつれて認められるようになるかもしれないと書いている.
次に,生物学的マーカーから将来の犯罪傾向を予測して予防措置をとることの是非が論じられている.ロウは遺伝的知識が深刻な倫理的ジレンマを生みだしうることを指摘し,false positiveの問題がある以上,本当に何らかの犯罪を犯してからでなければアクションを起こすべきではないだろうと示唆している.また遺伝的なマーカーに対し優生学的な対策を考えることは,非常に多くの遺伝子がそれぞれ小さな影響を与えていることから見て現実的ではないだろうとのみコメントしている.
本書ではこのような倫理と絡む部分については,問題の所在を指摘し,是非については入門書としてオープンクエスチョンのままにおいている.読者は事実の問題を踏まえ,価値の問題としてそれぞれに考えることが求められるということだろう.


本書は入門書として手際よく様々なトピックを処理しており,まず生物学的視点と犯罪の関係を知りたい人には大変有用な書物に仕上がっている.私も至近要因のところについてはあまり知識がなかったので,安静時心拍数と犯罪傾向の関連とかは興味深い話題だった.進化的な部分については,性差や年齢カーブなどは言い尽くされた部分であり新味はないが,個人差にかかる部分はなおわかっていないことが多く,今後の注目分野であろう.本書ではパーソナリティ研究分野でスタンダードになりつつあるビッグファイブと一般知性にかかる分析フレームをとっていない.これらの個人差が進化的に何故あるのかという問題を絡めて今後の研究の進展を期待したい.

ロウは最後に,刑事司法システムは法の下の平等という原則から統制実験ができないために,科学的なアプローチがとられにくいのだとコメントしている.これには大いに同感だ.確かに医学においては統制実験ができる.刑事政策においても「将来のより良い刑事司法確立」のためなら,様々な統制実験をデザインしても良いのではないだろうか.



関連書籍


原書

Biology and Crime

Biology and Crime


このほかにはこんな本も出しているようだ.

The Limits of Family Influence: Genes, Experience, and Behavior (Genes, Experience and Behavior)

The Limits of Family Influence: Genes, Experience, and Behavior (Genes, Experience and Behavior)



90年代のアメリカの犯罪率低下は,それに先立つ妊娠中絶を認める判例が原因であるという説が書かれているレヴィットの本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060517

ヤバい経済学 [増補改訂版]

ヤバい経済学 [増補改訂版]

*1:ロウはこの分野の第一人者だが,2003年に逝去された.大変残念だ.

*2:本書は犯罪学の専門家によって訳出されていて犯罪の部分については安心感がある.ただ生物学についてはあまりバックグラウンドがないようで,専門用語が微妙なのは良いとして,訳文には一部こなれていないところがある.例えばadaptive strategyを「養子戦略」と訳してあったりしていて,読むときには注意が必要だ