Inside Jokes 第11章 その3 

Inside Jokes: Using Humor to Reverse-Engineer the Mind (The MIT Press)

Inside Jokes: Using Humor to Reverse-Engineer the Mind (The MIT Press)


第11章 周縁部:ノンジョーク,バッドジョーク,ニアジョーク(承前)



ハーレーたちによる様々なユーモアの周辺事象の説明は続いている.


D ウィットと関連事象


ハーレーたちは,ウィットは賢さのディスプレーであり,ユーモアの喜びに近いし多くは重なるが,典型的には異なるとしている.それは考察を促すもので,だから笑いではなく,賞賛や眉をあげるのが基本的な反応になるということだ.


ハーレーたちは純粋の賢さディスプレーからダジャレまでの段階をこう示している

  • もし人に真実を告げたいなら,笑わせることだ.そうできなければ殺される.
  • 勝ち札を持っているときには,フェアに振る舞う方がいい.
  • 人に何か言われるより悪いことは,何も言われないことだけだ
  • 私は全てを知るのに十分なほど若くない.
  • 私はどんなことにも惑わされない,誘惑を除いては.
  • 道徳は絵画と同じだ.それはあるところに線を引くのだ.

ハーレーたちは,視覚的なダジャレ(文字を絵に見えるようにしてダジャレを表現したもの)をいくつか見せて,これらはユーモアではなく,単に賢いだけだとしている.そして多くのジョークはおかしくて賢い,つまりオーバーラップしているのだと指摘する.

  • トラックが高速を走っている.「この先,橋脚低し.注意」の看板が目に入るが,あっと思ったときには橋が迫っている.運転手は慌ててブレーキを踏むが間に合わず,トラックは橋に接触し,挟まって橋の真下で止まってしまった.そのあとには大渋滞.ようやく警官が現れて嫌味たっぷりにこう聞く「橋に挟まったのか」運転手は「いやなに,橋を配達していたんだが,ここでガス欠になったというわけさ」


これらはユーモアの要素の上に,その切り返しの賢さと嫌味な警官をやっつける快感が加わっているということになる.ハーレーたちはどの文化にも,若い男(最近は女性のことも)がウィットで難関を切り抜け,威張ったやつをやっつけるお話がある(ジャックと豆の木ティル・オイレンシュピーゲルなど)ともいっている.これらもオーバーラップの例だということだろう.



E 期待の操作におけるヒューロン説


参照ジョー

  • 女の子がトランペット奏者とデートした.帰ってきたところをルームメイトから質問される.「どうだった?金管楽器奏者のキッスってすごいの?」「全然,乾いてて硬くて小さくて全然だめ」次の日はチューバ奏者とのデートだった.「今度のキッスはどうだった」「ゲロゲロ,厚ぼったくてべろべろでぶるんぶるんした肉の塊よ,二度とごめんだわ」次の日のデートはフレンチホルン奏者とだった.「今度こそどうだった?」「キッスはまあまあってところかしら,でも抱き方は気に入ったわ」


まずハーレーたちは「期待は操作できるのか」という設問を出している.


そしてまず,ある種の牧師や説教者にとっては可能だと指摘する.彼らは音楽でムードを盛り上げ,信者の手を取り,「キリストの降臨」などと言いながらひたいに手を当てることで女性信者にキリストのタッチを感じさせ卒倒させることができる.これは巧妙な期待の操作だ.キリストのタッチという意識的な期待と,牧師の手のタッチという無意識の期待のタイミングを操作することによって可能になる.期待と現実のタイミングが少しずれると大きな感情の刺激になるのだ.



さらにこれに関連しているのものとしてヒューロンの音楽の説明をあげる.これは「音楽による感情は全て期待のマネジメントにより生じる」というものだ.

音楽の聞き手には,何らかの期待が高まり,それが巧妙にずれるとマイクロ感情(期待,緊張,予測とあっていたか,生じたことへの反応,ゆっくりとした評価)がせめぎ合い,ネガティブな値とポジティブな値の差により,エンドルフィンが放出される.

ここはかなり詳細に図入りで解説されている.なかなか興味深い仮説だということなのだろう.



そしてこれはユーモアの説明にも当てはまるというのがハーレーたちの指摘したいところだ.これまで解説した喜びに加えて,オチ直前のマイクロ感情のマイナスから直後のプラスの差により喜びが追加されるという現象もあり,うまくそれを音楽家やコメディアンによって操作されることがあるということだ.さらにこれらは音楽やユーモアに中毒だというときにそれは比喩というより文字通りであることを示唆している.


ハーレーたちは,このような直前と直後の落差に反応する喜びは,ノーマルな認知感情の副産物とも考えられ,これらはユーモアの祖先型だったのだろうとも推測している.そしてそこから別の報酬システムへと進化し,コメディアンに操作されるようになったのだというわけだ.


というわけで本章において,ユーモアの周辺・関連現象についてもハーレーたちの仮説はおおむね頑健であることを示したということになる.やや苦しい説明もないわけでもないだろうが,全体としてはうまく説明できており,かなり説得的だと評価できるだろう.