「ゲノム革命」

ゲノム革命―ヒト起源の真実― (早川書房)

ゲノム革命―ヒト起源の真実― (早川書房)


本書は分子人類学者のユージン・E. ハリスによる最新のDNA解析から人類について何がわかってきたのかを一般向けに解説した本でり,かなり専門的で詳しいところまで取り扱われていて充実した本に仕上がっている.原題は「Ancestors in Our Genome」.なお著者の名前ユージン(Eugene*1)は「優れた遺伝子」を意味するもので,いかにもこのような本の著者にふさわしい.

第1章 調べるべきものは形態か遺伝子か*2

まずは系統樹についての解説.簡単な解説を置いても退屈だと言うことで,自伝的なエピソードを付け加えているのがなかなか面白い.ハリスは1990年代に自然人類学専攻の大学院生だったそうだが,当時骨や化石の解剖学的特徴を重視する形態重視派と遺伝子重視派が闘いを繰り広げていた.ハリスは形態重視派の研究室に属し,絶滅霊長類の生態は形態からしかわからないとうぬぼれ*3,当時形態からの系統樹と遺伝子からの系統樹が食い違っていたヒヒ族*4の解剖学的特徴を徹底的に解析する計画を立てる.しかし取りかかってみて,既に膨大に積み重ねられた解剖学的知見に新たに付け加えられる証拠を得る見込みの薄さ,形態から相同と収斂を見分けることの難しさ,調べるべき特徴を選別する際の恣意性の問題に気づき,一方で遺伝子の証拠は互いに独立した数多くの証拠を得られる点で圧倒的に有利であることを理解する.そしてハリスは宗旨替えをして複数の独立のDNA配列を調べ,統計的に信頼できるヒヒ族の系統樹を得ることになる.これは一種の科学者の背教物語であり,信念より証拠を優先する苦しい過程が組み込まれているのが読んでいて大変面白いところだ.

第2章 遺伝子系統樹と合着理論

第2章では合着理論が解説される.ここも具体例を挙げて読者の興味をつなぎながらうまく解説がされている.題材に選ばれたのはヒトとチンパンジーとゴリラの分岐順序の問題だ.背景の分岐学論争も紹介しながら,初期のDNAハイブリダイゼーション方による解像度の限界,1990年代以降のDNA配列の直接比較法とその結果現れる遺伝子ごとに異なる系統樹の問題,パミロと根井によるその解決を取り上げ,種系統樹と遺伝子系統樹の関係を解説する.遺伝子ごとの系統樹は,その遺伝子にかかった自然淘汰の影響を受けることもあるし,多くはランダムなプロセス(「ランダムな系統ソーティング」と呼ばれる)により種系統樹と食い違いうるのだ.このランダムな系統ソーティングは分岐の時間間隔,その間の有効個体数により影響を受ける.最もわかりやすい図解が本書のカバー絵になる.ここは合着理論のわかりやすい解説になっていて素晴らしい.ヒトとチンパンジーとゴリラの分岐順序の問題は1980年代には解決できなかったが,1997年以降合着理論を用いた統計的な解析により解決されることになる.
こうしてヒトとチンパンジーがより近縁という結論が出た.ハリスはここで現在までに得られた知見を整理し,状況は「あいまいさをはらんだ遺伝子の歴史の雲」であるとしている.

  • 何千もの連鎖群から遺伝子系統樹が作られた.ゲノムの2/3はヒトとチンパンジーが最も近縁だが,残りの1/3はそうではない(ヒトとゴリラが最も近縁,あるいはチンパンジーとゴリラが最も近縁)ことを示している.
  • ボノボ,オランウータンも含めて解析すると,ヒトゲノムのうち3%ではヒトとボノボが(チンパンジーボノボより)近縁,1%ではヒトとオランウータンが最も近縁となる.

第3章 ヒトとチンパンジーの分岐

この合着理論を用いると種系統樹と数多くの遺伝子系統樹の雲の状況から過去の進化に関する重要な事実を推測できるようになる.第3章ではヒトとチンパンジーの分岐周りが扱われる.

  • ヒトとチンパンジーの場合,合着期間は長期間にわたって散らばっている.これにより様々な分析が可能になる.
  • 集団遺伝学的分析によるとヒトの有効個体数は現在でもほぼ1万程度だ.ヒトの人口が大きく増え始めたのは5万年前程度であり,それまではヒトの祖先集団の規模は小さかったと考えられる.これに対し共通祖先の有効個体数は,遺伝子合着の態様(種系統樹との一致頻度,合着期間のばらつきがある.一致度は69%,合着期間は400万年にわたってばらついている.),チンパンジーとの分岐とゴリラとの分岐との間隔(節間)から算出でき,ヒトとチンパンジーの共通祖先の有効個体数は52,000〜96,000,さらにゴリラとの共通祖先の有効個体数は(オランウータンとの分岐との節間を用い)45,000〜65,000と算出されている.
  • 分岐年代を決定するには化石から得られる地質学的決定年代を較正基準点として用いる必要がある.現在一般的に用いられているのはオランウータンとの分岐初期の化石とされるシバピテクス(1,300万年前)だ.また種分岐年代は合着年代の最近の年代を推測することによる.これによりチンパンジーとの分岐は540万年前とされている.
  • 種分岐が生じている際に,一気に交雑が途絶えたのかある程度交配が継続したのかを分析する複雑な手法が2012年に発表されている.これによるとヒガシローランドゴリラとニシローランドゴリラ,また2種のオランウータンは数十万年にわたって時折交配を続けた末に種分岐したこと,チンパンジーボノボはもっとずっと素速い進化的分離を経ていることがわかった.ヒトとチンパンジーについて分析すると,この2種はゴリラやオランウータンと同じく数十万年にわたって断続的に交配があったことが明らかになった.
  • この540万年前という分岐年代と,現在主張されている初期人類化石の年代(オロリン610〜570万年前,サヘラントロプス700万年前など)の間には食い違いがある.初期人類化石を探す古人類学者は,多様に分岐している大型類人猿化石の中からどれがヒト系統に属するのかをどのようにして特定するかという難しい問題を抱えていることになるにもかかわらず,「自分の発見した化石はヒト系統だ」と形態にのみ基づいて安易に主張している.食い違いはこれによるのだと思われる.

第4章 過去の人口増減

第4章ではヒト集団の中においての多型を持つ遺伝子の遺伝子系統樹から得られる知見が解説される.ヒトはチンパンジーと分岐した以降有効個体数が10,000程度まで激減した.多くの地域集団間の多型遺伝子の合着を調べると100万年前から300万年前にかけて散らばっており,ヒト集団は進化史の極めて長い間有効個体数が比較的小さいままだったことがわかる.このような小さな集団ではランダムな浮動の影響が大きくなる.
ハリスはここで中立進化,ほぼ中立進化について解説を置き,この結果現生人類集団は(マウスなどに比べて)多くの微弱有害変異体を持っていると推定されること,多因子遺伝子病はこの観点から説明できること,人口が大きく増加した現在では徐々に自然淘汰の影響力が大きくなっていくだろうことなどを解説している.

第5章 ヒトの適応進化とゲノムスキャン解析

第5章では個別の遺伝子解析ではなくゲノム全体をひとまとめにして解析した知見が取り扱われる.ゲノムスキャン解析を行うと数あるDNA変異のうち淘汰を受けて進化したものとランダムな浮動の結果であるものを区別することができる.1つの方法はアミノ酸置換を行う変異と行わない変異の頻度を見ることだ.この結果以下のようなことがわかってきている.

  • 多くの淘汰的な変異は免疫機能や対寄生体防御,化学感受性や嗅覚,アポトーシス精子の生産などと関連している.
  • 精子生産に関連した淘汰がある理由は謎めいているが,おそらく精子競争と関連があるのだろう.実際にチンパンジーはさらにより強い淘汰を受けているようだ.
  • この手法ではタンパク質内のアミノ酸が素速く繰り返し変異したかどうかを検出するために,そういう様式以外の適応変異は検出できない.直立二足歩行,認知能力の増大などはゆっくり進化したのかもしれない.また一回の変異で適応形質が完成してしまうものや遺伝子発現の調節領域の適応的な変異も検出できない.

またゲノムスキャンデータは脳の具体的特徴と特定の遺伝子を関連づけることにも使うことができる.これは神経ゲノミクスと呼ぶことができる.

  • 脳遺伝子はそれ以外の遺伝子より25%ゆっくり進化している.
  • おそらくヒトの脳進化においてはタンパク質の変化より遺伝子制御が重要だったのだろう.
  • 脳の増大はエネルギーコストが大きく,何らかの消化器系の進化とセットになっているはずだという考え方があるが,ゾウやイルカにおいてもエネルギー生産関連遺伝子に淘汰がかかっていることが明らかになってきている.
  • 遺伝子制御領域の解析はこれからだが,予備的な分析ではヒトの子供の脳における遺伝子発現パターンはチンパンジーのそれより相対的に未成熟である(ネオテニー的である)という結果が得られている.これはヒトの脳がより長い間可塑性を維持しており,より長期間学習できるようになっているという考え方と整合的だ.

このほか体毛の喪失や言語についてもわかっていることがまとめられている.

  • アフリカ人のMCIR遺伝子(濃い色素と薄い色素のスイッチ遺伝子:常に濃い皮膚が有利であれば負の淘汰を受けることが予想される)が負の淘汰を受けたはじめた時期を解析すると少なくとも120万年前という結果が得られている.そのころには既に毛皮を失っていたのだと推測できる.
  • ヒトの頭部毛髪のシラミともっとも近縁なシラミはチンパンジーのシラミで,分岐年代はホスト2種の分岐年代とほぼ同じだが,ヒトの陰部シラミともっとも近縁なのはゴリラのシラミであり,その分岐年代はホスト分岐年代より大幅に新しい300〜400万年前だ.これはその当時にゴリラからシラミの水平感染を受けたということを示唆しており,当時ヒトの陰部に競合するシラミがいなかったとするとそれは既に(陰部以外の)毛皮を失っていたことを強く示唆している.
  • FOX2P遺伝子はヒトの系統上で2回アミノ酸変異が生じている.これはゲノムスキャン解析で淘汰影響を見るには少なすぎるが,哺乳類の進化過程でほとんど変化していない遺伝子がヒト系統においてその8%の期間で2回も変異していることは意味ありげだと言える.この遺伝子が制御遺伝子である可能性には興味が持たれる.

第6章 サピエンスの起源

現生人類ホモ・サピエンスの起源についてはミトコンドリアイブが有名だが,核ゲノムの解析によってどのようなことがわかっているのかが第6章のテーマになる.ここでは特にSNP(一塩基多型)の分析結果が中心になる.

  • 核ゲノムの解析によってもサピエンスのアフリカ起源は裏付けられている.遺伝的多様性はアフリカで最も高く,地理的に離れた集団になるにつれて連続的に低くなっている.これは連続創始者効果で説明できる.
  • アフリカのうちどこかという問題は現段階では解決していない.ミトコンドリアは東アフリカを示しているが,核ゲノムは南アフリカを支持している.
  • 現在の核ゲノムデータはHGDP-GEPHパネルを用いているが,これにはサンプルが偏っている(アフリカが少ない)という問題があることが知られている.また研究のトレンドは大規模研究に移りつつある.
  • サピエンスの誕生が,時間をかけていくつかの特徴についてモザイク的に生じたのか,一気に生じたのかという問題:ミトコンドリアイブは単純なシナリオが前提となっているが,それとは異なる多様性を持つ核遺伝子(合着年代が大幅に古い)がいくつか見つかっている.調べられた60個の核遺伝子の合着年代は長い期間に散らばり,平均合着年代は100万年前である.どうやらサピエンスはアフリカの一地域のみで進化したわけではなく,いくつかの分集団に分かれたメタ個体群があって遺伝子流動によってつながっていたらしい.
  • 現代のサピエンスアフリカ集団には,過去現生人類への直接の系統上にない旧人類との交雑の可能性があるようだ.複数回,しかもごく最近(3万5千年前)までの交雑が示唆されている.
  • 出アフリカ後のボトルネックは31,000〜55,000年前頃に生じたと推測される.これはかなりシビアなボトルネックで人口が80〜90%減少したと推測される.ユーラシア人の遺伝的多様性はアフリカ人より30%小さく,微弱有害遺伝子も有意に(約25%)多い.
  • 出アフリカ後もアフリカ集団と20,000〜15,000年前まで交雑が生じている.
  • 今後のリサーチの重要な課題は変異速度の正確な推定だ.これにより今はまだつじつまの合わない断片(出アフリカ年代と東南アジアへの進出年代,人間革命仮説の是非など)をよりうまく統合できる可能性がある.

第7章 現在進行中の進化

冒頭で淘汰痕跡(淘汰を受けた遺伝子の連鎖配列への浄化作用)を解説した後で,現在作用している淘汰についていくつか紹介がある.

  • マラリアに対する耐性遺伝子DARKは,3万年前頃に強い淘汰を受けた痕跡を持つ.
  • 乳糖耐性:独立に何度も,異なる方法による耐性が進化している.

その後今後のゲノムスキャンリサーチの方向性が述べられている.集団人口の増減の影響をうまく取り除く,様々な遺伝子多様性の発現パターンをモデル化し,興味深い領域特定を統計的に行う,感染症関連,代謝関連遺伝子の重要性,より広いゲノムデータベース,多遺伝子性適応の理解と解析手法(環境相関など)などが進むべき方向として示されている.

第8章 古代ゲノム

近時有名になったネアンデルタール,デニソワの古代ゲノム解読と,サピエンス集団との交雑の証拠がまず紹介され,古代ゲノムについての解説が学説史を含めてなされている.また交雑についても,サピエンスのどの集団とどの程度の交雑痕跡があるのか,交雑の方向性はどうなっているかを含めて詳しく紹介されている.
その後にこの交雑はサピエンスにとって有益だったかどうかという考察が置かれている.よくわかってはいないが免疫系では多様性自体が有利になるので,有益だった可能性があるとまとめている.

以上が本書のあらましになる.本書は特に合着理論の一般向けの解説として価値が高い.合着理論は近時大きく進展した分野だが,解説が収録された和書は少ない.私が知る限り一般向けの和書である程度詳しく解説されているはじめての本ではないかと思う.図解も丁寧で大変わかりやすい.また本書の2番目の特徴は,DNA解析を通じてわかってきたヒトについての様々な知見がコンパクトに紹介されているところだ.これも最新の情報がまとめられた本として価値が高い.いろいろな意味で良書だと思う.



関連書籍


原書

Ancestors in Our Genome: The New Science of Human Evolution

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合着理論が本格的に解説されている本としてはこの本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090511

生物系統地理学―種の進化を探る

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もう一冊を挙げるとこれ,私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130704

系統地理学―DNAで解き明かす生きものの自然史 (種生物学研究)

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古代DNAについての一般向けの本としてはまずこれ.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20151106

ネアンデルタール人は私たちと交配した (文春e-book)

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*1:アクセントが後ろにあり.通常はユージーンと表記されることの方が多いような気がする.なおこの名前は20世紀初頭にまだ優生学が今のようなマイナスイメージのないときに流行った名前だとどこかで読んだことがある.Google Ngramで見てみると1930年代に増えだして,60年代から一段と増え,90年代に下火になっている.

*2:これは章題ではなく,私による見出し.以下同様

*3:当時形態派の研究室は9階にあり光り輝くマンハッタンがよく見えてその優越感をさらにあおり立てていたそうだ

*4:伝統的には形態的に近い2種のマンガベイが互いに近縁種とされていたが,当時のタンパク質解析からはそうではない系統樹が支持されていた