日本人間行動進化学会(HBESJ)創設者の長谷川寿一・眞理子ご夫妻にとり,今年度は,寿一先生がこの3月で東大を退官,眞理子先生が昨年4月に総研大の学長に就任という節目の年にあたるということから記念講演会と謝恩パーティによる「節目を祝う会」が2月23日に開かれる運びとなった.光栄にも私にもご案内いただいたので,枯れ木も山の賑わいと参加させていただいた.ありがたく嬉しい限りである.
場所はご夫妻ご成婚の地でもある東京神田錦町の学士会館.受付を済ませると,式次第が特製のクリアホルダーとともに手渡される.キクマルのシルエットの中にクジャクやダマジカなどの動物がデザインされたしゃれたものだ.本催しの英語タイトルは「Celebrating the history of Hasegawa & Hasegawa Labs」ということになるらしい.
記念講演会
講演会の司会は佐倉統.司会も業績紹介者もいろいろ思い出話も散りばめながらの進行になる.
- 自分は寿一先生の一番弟子だと自負している.卒論指導で一行一行丁寧に赤を入れてもらった.その後は動物行動から科学論に移ってしまったが,ご近所から夫妻の成り行きをみさせていただいた.
続いて眞理子先生の業績紹介.紹介者は森田理仁
- 人類学の学科から霊長類へ,ニホンザル,チンパンジー,ダマジカ,ソイシープ,クジャク,ヒトと研究対象を広げ,HBESJ立ち上げの中心となる.現在思春期プロジェクトのコホート調査に取り組まれている.
- 様々な政府委員を務め,国家公安委員は2期10年.2006年から総研大に移り,2017年に学長に.
- 5年前に総研大で自分がとある失態をしでかして落ち込んでいたときに,「世の中にはグレーゾーンのことはいっぱいある.途中で何とかしようとしてかえっておかしくなるより,やってしまっていいんだ.それを後に活かせればいい」と話をしてもらったことは忘れられない.
寿一先生の業績紹介は平石界.ものすごく緊張している,初めての国際学会の発表の時ぐらいだといいながら流れるように業績紹介.
- 学芸大附属高校で眞理子先生とは同じクラスだった.つきあい始めたのは大学に入ってからと聞いている.
- 21世紀COEの心と言葉,新学術領域の共感性などいろいろなプロジェクトをリーダーとして運営,雑誌や東大出版会の編集への関わり,東大教養学部学部長,東大副学長として八面六臂の活躍など大きく重い役職を同時にこなされた.
- 寿一先生との最初の出会いは自分の東大入学直後の駒場の大教室での新進気鋭の助教授としての講義だった.その後2年生の冬に実験演習があり,学生グループに囚人ジレンマをプレーさせるというものがあった.先生はTFTといういい戦略があるという一般的な教示をしながら,1人の学生だけにパブロフを伝授しておくという仕掛けをしていた.しかししっかりスレていた自分たちはすぐにそれを見破り,みなでその学生をこてんぱんに負かしてしまった.その他,とある建物の屋上でバーベキューをしたり,カリフォルニアでワインをいっぱい積み込んだレンタカーで現れたり,ウィーンの深夜に先生の運転でドライブしていたらいつの間にか市電のレールの上を爆走していたりとか楽しい思い出はいっぱいある.
ここからお二人による記念講演に
記念講演第1部 50年の歩み 御礼をこめて
- (眞理子)ありがとうございます.でも私はまだ引退しませんから.学長1年目で年度計画とかいろいろやっている最中だ.それで退官記念とか言う名目ではなく,節目の会としてもらった
- (寿一)(略歴を説明しながら)1952年生まれ,川崎市出身です.大田区に移って学芸大附属高校に入ることになった.そこで3年間眞理子と同級生でした.
- まず研究生活を中心とした話をしたい.研究対象は大型哺乳類と鳥類ということになるが,大きくみると3つのステージになる.霊長類の社会,行動生態学,人間行動進化ということになる.
- (眞理子)第1期は霊長類研究.最初は千葉でニホンザルの観察をした.そこではニホンザル生息地域が天然記念物指定を受けていて,その地域外では農業害獣として扱われていた.しかしサルはそんなことは関係なく動く.そこで保護と農業災害防止をどう両立すればいいかという調査に県としての予算が下りていて,それに基づいた調査だった,1974年から調査開始.2人とも大学3年生だった.
- その当時は日本の霊長類学は,京大の霊長類研究の伝統が強く,群れにはオスのボスザルがいてそれが仕切っている,メスは従属的という理解が一般的だった.今日的にみるとなんとも性差別的だが,当時の主流の霊長類研究者にはそういう自覚すらなかった.
- (寿一)私は群れの定量的な記述.眞理子は母子関係の観察だった.このときの研究は本にできた.
野生ニホンザルの育児行動 (1983年) (Monad books〈7〉)
- 作者: 長谷川真理子
- 出版社/メーカー: 海鳴社
- 発売日: 1983/05
- メディア: ?
- この商品を含むブログを見る
- 次はチンパンジー.1970年代というのは,ヒトともっとも近縁なのがチンパンジーだということがようやくわかり始めた時期で,社会生態の解明はまだ黎明期だった.研究するには面白い時期だったと言える.
- サイトはタンガニーカ湖に面したマハレの森.グドールさんにもいろいろ教えてもらった.
- (眞理子)ヒトとチンパンジーの近縁性については1974年(3年生)当時の想い出がある.当時は分子研究者はヒトとチンパンジーが最近縁だと主張し,形態学者はそれを受け入れず,大論争になっていた.そしてある東大の講義ではある著名な形態学者が(特に名は伏すが)「分子なんかダメだ,あんなのはどうせしばらくしたらつぶれる」といっていた.
- (寿一)Google scholarで自分たちの論文を引用数別に並べると,その半分はチンパンジーの論文になる.つまり自分たちの業績インパクトはこのチンパンジー研究が中心になっている.チンパンジーについては私は性行動,眞理子は母子関係,育児を調べた.
- 第2期は行動生態学.実は日本の霊長類学界にはちょっと愛想が尽きた部分もあって,行動生態研究に進むことになった.
- (眞理子)振り返って考えてみると,当時の日本の霊長類学界は世界の潮流と孤絶し,日本の研究者だけでまとまっていた.本来科学に国境はない.でも交流なく,新しい研究動向が入らない.しかし高い自己評価とプライドはあって「孤高」を保つという感じだった.研究者たちは「国粋主義」的で,それは本当に嫌だった.
- そして行動生態学に進み,論争を戦うことになった.今日の司会の佐倉さんはそのときの戦友の1人だ.
生態学者・伊藤嘉昭伝 もっとも基礎的なことがもっとも役に立つ: 生態学者・伊藤嘉昭伝
- 作者: 辻和希
- 出版社/メーカー: 海游舎
- 発売日: 2017/03/15
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (6件) を見る
- (寿一)当時のことは伊藤嘉昭さんの追悼本に寄稿した.社会生物学が黒船のように日本の学界に入ってきた.それは伝統的生物学観と鋭く対立した.それまでは霊長類学は霊長類だけやるということだったが,行動生態学は統合的な生物観を持ち,霊長類も生物の1つであるということになる.
- ドーキンスのselfish geneはアフリカに行くときにプレマックに勧められて持っていった.この本で人生が随分変わった.ちょうど今40周年記念版がでているが,この本には佐倉さんの推薦文がある「この1冊の書物によって,温かくて親しみやすい生物の世界は,ドライでクールなデジタル情報の世界に変換された」その通りだ.
- 作者: リチャード・ドーキンス,日?敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2018/02/15
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (3件) を見る
- (眞理子)伊藤嘉昭さんから直接教えを受けたことはないが,最大の恩人の1人だ.1986年から特定研究「生物の適応戦略と社会構造」に参加した.様々な生物を行動生態学的にリサーチし,たくさん本が出た.また多くの国際的な研究者も招待して話をすることができた.ハミルトンもその1人だ.クラットンブロックともそこで出合い,ちょうど科研費が出たので彼の研究室に行くということでケンブリッジに旅立った,
- ケンブリッジは人生の転換点だった.ダマジカ,ソイシープ,クジャクを扱った.最先端の理論に基づいて,大規模なチームで観察する.当時日本ではすべて1人でこつこつやる方式だったので驚いた.リーダーがいて,観察のプロがいて,学生ボランティアがたくさんいて,統計専門家がいて全員で1つのテーマを追いかける.
- 最初はクラットンブロックの歴史的な研究で有名なアカシカをやりたいと言ったが,アカシカは調べ尽くしてもうあまり面白いことは残っていないからといって,ダマジカの配偶者選択のテーマを勧められた.しかし当時の自分はサルしか知らない,ダマジカがどんな動物か知らない.配偶者選択の理論も知らない.しかし観察チームのヘッドを務めることになっている.とにかく調べて,論文を大急ぎで読んで,あたかも昔から知っているような顔をしてフィールドに出た.アフリカからイギリスに行って,ダマジカのフィールドはなんとか伯領の中だと聞いてようやく少し文化的な研究環境になるかと思ったら,付属の農場の廃牛小屋が宿泊施設で,トイレは病人用の簡易トイレを持ち込んで,男性陣が毎日外に穴を掘って埋める.風呂なし1ヶ月という現場だった.まあアフリカで鍛えていたので乗り切れたが.
- ソイシープのフィールドはセントヒルダ島という島で,これもすごいところだった.ここで群の動態と性比の関係を調べた.野生の子羊を捕まえて定期的に体重測定する.島は陸軍とナショナルトラストとネイチャーコンサーバティブの管理地に3分されていて,我々はコンサーバティブの区分にいたが,トイレは陸軍管理地まで借りに行くというようなところだった.
- (寿一)そのころ私は伊豆の公園でクジャクのリサーチを始めた.クジャクのオスの飾りはダーウィンも悩ませた性淘汰産物.性淘汰の実証は90年代になって盛んになった.英国でクジャクのメスはオスの飾りの目玉の数を元に配偶者選択を行っているというリサーチがでて,これは学生と追試するのにちょうどいいと考えてシャボテン公園のクジャクで調べ始めた.ところが何年やっても検証できない.結局ネガティブな結果を論文発表することになった.では一体彼等は何を元に配偶者選択をしているのか.それはこれから解明されていくだろう.
- 第3期は人間行動進化.最初のきっかけは1990年にシチリア島で開かれた動物の子殺しについてのシンポジウムだった.これは60人で集まり缶詰になって1週間議論するというハードなもので,そこでデイリーとウィルソンと知り合うことができた.サルやアザラシの話に混じり,デイリーとウィルソンはヒトの子殺しの話をした.そうか,ヒトも社会生物学の対象になるんだと実感した.それからHBESにも参加するようになった.
- (眞理子)HBESについてはここで告白しておくことがある.実は1997年のHBESでポスター賞をもらったが,その際に賞金が出ていた.それを一緒に手伝ってくれた平石さんたちに分配していなかった.このことは心に小さなトゲとしてずーっと残っていた,今日ここで告白しておきたい.
- (寿一)心理学において「進化」の扱いは70年代から2010年代にかけて随分変わってきた.70年代には進化はほとんど無視されていた.90年代からヒトの心も進化産物であることが意識されるようになった.
- 作者: ヘレナクローニン,Helena Cronin,長谷川真理子
- 出版社/メーカー: 工作舎
- 発売日: 1994/07
- メディア: 単行本
- クリック: 31回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- (眞理子)私の人間行動進化へのきっかけはヘレナ・クローニンのアリとクジャクの翻訳作業だ.工作舎から翻訳を頼まれ,厚い本だったので行く先々に持ち込んで作業した.この翻訳は大変勉強になった.マダガスカルでキツネザルのリサーチを手伝っていた時に4枚カード問題と心のバイアスのリサーチの話が出てきた.そうかこうすればいいのかと,それが心のなかの転換点だった.
- 当時は専修大学で教養課程の先生をしていた.すると院生ももてないし,研究環境もない.だから何かアイデアがあると,こちら(寿一先生)に吹き込んで東大の院生にやってもらうということを繰り返した.平石さんはまさにこの4枚カード問題を研究した.
- 作者: チャールズ・ダーウィン
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/11/11
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
- (寿一)ダーウィンはヒトの心の進化も考えていた.それは「人間の由来」に書かれている.眞理子が訳したこの本は最近文庫化された.そこから100年してようやく研究者たちは心の進化を考えるようになったのだ.
- 1997年に進化心理学を日本にも根付かせようと研究会を立ち上げた.最初は目黒の会議室で,巌佐さん,山村さん,佐倉さんたちといろいろ相談した.そしてシンポジウムを開き,それが後のHBESJにつながっていった.
- 2000年代には第20回のHBES国際学会を京都で開くことができた.そして2008年に研究会だった人間行動進化研究会を学会に改組した.
- (眞理子)人間行動進化の研究業績としては日本における殺人の研究がある.デイリーとウィルソンは殺人データを用いて様々な研究をしていたが,アジアのデータがないからやってほしいといわれていた.それで日本のデータを調べて「Homecide by means in Japan」という論文を出した.ここでは日本の独自性が見つかった.世界のどこでも殺人のピークは若い男性の20代なのだが,日本ではそのピークがどんどん低くなり,2000年代にはむしろ40代から50代の男性の方が高いという状況になっていたのだ.この要因についても分析した.
- (寿一)ヒトの進化的研究は詰まるところ「ヒトはどのような特別なチンパンジーなのか」というところになる.それは協力,共感,知性などいろいろある.そしてそれは最近の興味にもつながっている.
- 最近の興味はあえて言えば第4期ということになるのかもしれない.行動生態的な視点だけではなく,分子,神経,内分泌.法,政治,精神医学など統合的にヒトを理解したいのだ.そういう研究学科を東大に立ち上げることに最近力を注いできて,専任2人の体制を作ることができた.
- 作者: 長谷川寿一,長谷川真理子
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2000/04/01
- メディア: 単行本
- 購入: 10人 クリック: 44回
- この商品を含むブログ (61件) を見る
- ここまでが研究業績の話だが,次は教育活動について.まず2人で教科書「進化と人間行動」を出せた.これは2人でおこなう駒場の大教室の一般教養の講義に用いたが,眞理子の人気もあり大変な人気講座になって,当時1年で1500人が受講した.これは東大生の1/2が受講している勘定になる.この講義は現在も大槻さんたちによって継続していて1000人の受講者を集めている.
- (眞理子)総研大に移るまで15年間専修と早稲田で一般教養を教えた.当時は頼まれごとは何でも受けることにしていて,イエール大学のアリソン・リチャーズさんからピーボディ博物館長になって忙しいから,副学長になって忙しいからと頼まれて,客員教授として教えにいったこともある.
- (寿一)駒場で3〜4年生に人間行動科学を教え,これは人気コースになった.
- 社会貢献.眞理子はたくさんの本を書き,翻訳書も多く出した.私は東大出版会にかかわり,また「知の三部作」に寄稿した.また「はじめて出合う心理学」は今でも入門書として売れていて有り難い限りだ.
- 作者: 長谷川寿一,東條正城,大島尚,丹野義彦,廣中直行
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 2008/04/03
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 11回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
- (眞理子)私大時代には政府委員も頼まれれば受けた.主なものとしては国家公安委員と新日中友好協会などがあるが,その他多くの政府委員となった.その中で内閣府の科学技術政策に関する調査委員になれて,いろいろ提言できる立場になったのは良かったが,残念ながら国家公安委員との兼務はダメだということで2007年には引いてしまった.これは今でもちょっと残念だ.国家公安委員としてはとにかくデータに基づいてやってくれということを言い続けた.それまでは勘と経験と度胸というKKDがまかり通っていたので,しつこく言い続けた.最近は少し変わりつつあると思う.
- (寿一)いろいろな会長や部長を引き受けた.東大の運動会にかかわったときには神宮にも六大学の応援に行った.東大はなかなか勝てないので1点でも入るとベンチの上でみんなで踊る.あれは面白かった.
- 1ついいことができたと思っているのは,マハレ国立公園の創設にかかわれたことだ.大阪府に匹敵する面積が国立公園として指定され,住民に立ち退いてもらってチンパンジーが保護される.これでチンパンジーたちへの恩返しができたと思っている.
- 最後は学内業務.現在大学の研究者は管理業務の負担が増加して研究時間がとれないことが問題になっている.事務局にもお手伝いいただいて問題の改善に取り組んだ.総合的教育改革にもかかわった.
- (眞理子)2006年に総研大に移った.そこで「マクロからミクロまで統合した進化」「社会と科学」という2つのコースを作った.最初に当時の学長から勧誘されたときには好きなようにやってもらっていいといわれていたが,実際に行ってみると小姑がいっぱいいてなかなか大変だった.それでもとってもいい学科が2つ作れたと思っている.
第2部 アルバム
ここからはいろいろな写真が40秒ずつ映されて解説されるというアルバム時間.すべて楽しかったが,面白かったものを少し紹介しよう.
- 高校の想い出.まだ単なる同級生だったが,修学旅行では一緒のグループになって同じ写真に収まっている.
- 1972年に2人そろって東大に進学.駒場祭をきっかけにつきあうように.
- 1974年からの千葉のフィールド.恥ずかしいほど70年代.当時から眞理子先生はいつもリスクテイカーということで崖のてっぺんにいる写真.
- 愛車はスバルREX.軽くてどこにでも入っていけて調査にも役立った.
- 結婚に至ったきっかけは寿一先生が千葉のフィールドで田んぼに入ったサルを追い払おうとして飛び降りたときにそこにあったタケを踏み抜いたこと.それで眞理子先生がかいがいしく看病してくれて,親たちもどうせ結婚するんだったらさっさと結婚しろということになり,マスター2年の時に結婚した.
- 1977年4月10日結婚.(眞理子)これは最悪の写真,私はこのときずーっと怒っていてぶすっとしているから.これは挨拶に立った教授の「これで新婦も家庭に入り...」という発言に激怒しているからだ.(寿一)眞理子とつきあいのある方はよくごぞんじと思うが,彼女は怒るとふくれて口をきかない.何も結婚式でと思いました(会場爆笑)
- 1979年からタンザニアでチンパンジーの調査.(眞理子)タンガニーカ湖のほとりにあるケングエ山に女性として初めて登頂.そのときに向かいの崖にコロブスが現れた.スケッチして戻って図鑑と照合するとどれとも合致しない.新亜種発見と思って早速論文にしてNatureに投稿したが受理されなかった.(寿一)亜種でNatureはちょっと厳しいですね(会場爆笑)それでもプリマテスには載りました.
- 観察ベースの小屋はあったが,窓にはガラスがない.食材は現地調達.タンパク源はタンガニーカ湖の魚だが,自分で釣るか,網元になって現地の人に網を提供して捕れたものから1匹もらうということになる.このティラピアは日本に戻って調べたら1センチ1万円もする高級鑑賞魚だった.20センチ級を毎日のように食べていたから,そういう意味では豪勢だった.後はニワトリ.庭で飼って時々締めて食すのだが,しばしばヒョウにやられる.やられる断末魔を聞くと,ああ食べておけばよかったと思ったものだ.
- 天井がなくて屋根の材木が剥き出し.ここをネズミが走り,それを狙ってヘビがやってくる.中には猛毒のブラックマンバ2メートル級も現れる.壁を垂直に簡単に登ってネズミを追いかけるのだが,時に屋根からベッドに落ちてくる.絶叫しながらの日々だった.
- トイレはこれ(コンクリートに穴があるだけ).これでもコンクリートがあるので,この辺では最高級のトイレだった.
- 1982年に帰国.眞理子は東大理学部の助手に,寿一は1年遅れて1983年から東大助手に.この頃にネコのコテツを飼い始めた.
- 1986年に眞理子はケンブリッジに.寿一は日本に残って志賀高原でサルの観察を(くわえタバコの渋い写真).これも時代ですね.この志賀のサイトは今でも観察フィールドになっている.1988〜1991年に帝京で助教授をやってから東大助教授として戻ってくる.眞理子は1990年から専修で助教授に(カーリーヘアーの写真)
- (眞理子)1992年と1994年にイエールの客員教授として現地で教えた.アリソンは大学から車で1時間もかかるコネチカットのニューヘイブンに17世紀に建てられたもとホテルだったという家に住んでいた.彼女は女性でばりばりの研究者かつキャリアウーマンで,リーダーとはこうしたものかと大いに教わった.
- 1997年ケンブリッジ再訪.アカシカのフィールドのラム島での写真.ショートヘアにしたのはこの頃.2000年に専修から早稲田に移る.早稲田は面白かった.学生たちは,同じテストをすると東大生にはかなわないが,発想が独特で面白い人が多かった.
- 2004年にはスリランカでクジャクを調べようとした.研究環境が整っていなくて断念したが,実際にインドクジャクの野生の求愛行動を観察できた.やはり大した鳥だ.
- (寿一)2004年からCOE心と言葉.いろいろヒト科学を統合しようとして,駒場にfMRIを導入することができた.この頃チンパンジーの脳活動を記録しようとトライした.それはうまく行かなかったが,今の林原でのリサーチにつながっている.
- (眞理子)私学当時には,研究環境は整っていなくて,それ以外にもいろいろ大変なことがあったが,時間だけは自由になった.受け持ち7コマを月曜日5コマ火曜日の午前中2コマと詰め込んで,自由になる時間を最大化し,世界中を回った.これはガラパゴス,これは北極圏.
- そして2004年にキクマルがやってきた.
- 新日中友好協会は,中国側が共産主義一枚岩で面白い議論はできなかったし,尖閣問題で活動が実質停止になってしまった,しかし日本側の様々な人と知り合いになれた.
- 国家公安委員をやっていると2年に一度ぐらい園遊会に呼ばれる.(寿一)配偶者として出席できて,動物学つながりで秋篠宮ご家族とお話しができた.
- 2014年コギクがやってきた.
質疑応答
- (Q)さきほどのスライドの中で全共闘の文字があったが,背景を教えて欲しい.
- (A)あれは千葉のフィールドでの話.私たちが東大に入った1972年には東大紛争は終結していたが,そこここにその跡があった.実習を始めますといって院生が入ってきていきなり全共闘の話を始め出したりするそういう時代だった.安田講堂攻防の時に最後まで放水をベニア板で防いで耐えて,催涙ガス弾でついに降伏したという伝説の岩野さんという人がいて,岩野さんとその仲間たちが千葉の調査を手伝ってくれた.小屋で一緒に寝泊まりするので,夜になると「闘争が・・・」「革マルが・・・」などという話が始まる.随分つきあわされた.中身には共感できなかったが,いろいろ面白かったという経験だ.
花束贈呈の後,永田総研大副学長より閉会の辞
閉会の辞
- 私がここでこういう大役に指名されたのは,東大事務局として寿一先生に仕え,今総研大副学長として眞理子先生に仕えているというご縁からだろうと思う.
- 眞理子先生について一番覚えているのは,かなり以前に何かのシンポジウムが駒場の900番教室であって,そのときにパネラーだった眞理子先生が「私はチンパンジー以外には興味がありません」と断言されたことだ.そのとき寿一先生に仕えていた私は,「えっ,すると寿一先生はどうなるのか」と思ったのを覚えている.それはずっとトゲのように私の心に残っていた.ところが総研大で眞理子先生に仕えるようになって,入学式で若手研究者の挨拶を一緒に並んで聞く機会があった.その若手研究者は「レアチャンスはレアではない」と力説していた.それは一生懸命努力すればチャンスは訪れるという励ましだったが,それ聞きながら眞理子先生はぽつっとこうもらされた.「私にとってのレアチャンスはとし君と結婚したことかな」これを聞いて私の長年の胸のつかえは一気に取れて,大変気持ちがよくなりました.
- 寿一先生とはいろいろな東大の改革を一緒にやらせていただいた.部下としては大変やりやすく,思い切って仕事ができました.しかしある朝こう言われたのは未だに忘れられません.「永田さん,私は今日変な夢を見ましたよ,なぜか崖のてっぺんに立っているんだが,永田さんがいて「飛べっ」といいながら私の背中を押すんだよ」そんなプレッシャーをかけていたとは思いもしませんでした.
- その他様々なドタバタもありました.多発的紛失事件,欧州でのクレジットカード全面停止事件,車のキーの大捜索事件などなど.
- この閉会の辞の依頼メールには「眞理子はあと10年は活躍するつもりで,そうするといずれ叙勲ということもあるでしょう,それで「節目の会」だが,自分にとっては「偲ぶ会」だと思っています」とあった.それは「老兵は死なず,ただ消え去るのみ」という趣旨だろう.このマッカーサーの言葉は後進に道を譲るという意味にとるのが普通だが,実は大統領選挙に立候補するつもりだという読み方もある.そして寿一先生の言葉は後者だろうと思う.節目を越えてのご活躍を期待したい.
以上で記念講演は終了だ.笑いの絶えない大変楽しい講演会だった.
謝恩パーティ
引き続き場所を変えての立食パーティとなった.司会は倉島治.寿一先生はこの学士会館のワインのアドバイザーもされているということで,念入りによったワインが並べられた.
乾杯の音頭やお祝いのメッセージには,高校の同級生,大学関係者,共同研究者,留学生,キクマルとコギクの里親,そしてフィンランドから駆けつけたご一家など多彩な方々がマイクを持たれた.また最後のご夫妻のご挨拶ではほとんど夫婦漫才のようなやりとりもあって会場は爆笑に包まれ,あっという間の2時間が過ぎ去った.なお寿一先生の今後の予定については今は発表できないが,話が進んでいて,ご引退ということではないそうだ.それは大変嬉しい知らせだった.
私からの謝意
というわけで節目の会は何度強調しても足りない大変楽しいひとときだった.
さて,当日もご夫妻には直接お祝いを申し上げることができたが,ここであたらめてお二人に私から心からの謝意を表明しておきたい.
私のご夫妻との関わりは,進化についての科学啓蒙書の書き手としての眞理子先生のファンになったことから始まる.それは1992年の紀伊國屋書店から出た「クジャクの雄はなぜ美しい」の初版本で,当時ドーキンスの利己的な遺伝子に衝撃を受け,行動生態学を一から勉強していた私にとって,トピックが興味深いだけでなく明晰な解説と論理的でかつわかりやすい散文にいっぺんにファンになった.その後訳書もあわせて眞理子先生の本は全部入手して読むことになり,その過程で共訳者としての寿一先生の存在を知ることになる.
その後,1999年頃ダーウィン著作集の刊行記念講演会か何かでご夫妻の講演を直接聞く機会があり,そこから芋づる式にご夫妻の講演予定を入手して都合がつく限り聴いていくことになる(当時は今ほどインターネットで簡単にそういう情報がわかるようにはなっていなかった).しばらくして今度人間行動進化の研究会を立ち上げるというお話をうかがって,何としても聴講したくなった私は直接の面識ないまま寿一先生にメールを差し上げて,参加させてもらいたい旨書き送った.そうしたら思いがけず温かいご了解のメールをいただいた.あのときの嬉しい気持ちは忘れられない.それ以来研究会,そしてその後身のHBESJには欠かさず参加させてもらって,ご夫妻と挨拶させていただくようになって今日に至っている.この学会への参加は,その知的内容と温かな雰囲気をもって,私の人生の大きな喜びの一部になっている.本当にありがとうございます.
そしてそもそもこのブログを公開しているのもご夫妻に大いに関わりがある.このブログは2000年頃うかがったご夫妻の「D計画」の理念とともにある(と自分では位置づけている).「D計画」とは世の中にダーウィンをもっと啓蒙し,様々な問題解決に進化の視点を加えようという壮大なものだ.このブログは自分の読んだり経験したことのまさにログとして,自分で後で読み返すために書いているものだが,しかしもし役立つのならと思って,単なるメモではなく書評やノートの体裁にして公開している.そして長年書き続けていると時に読者の方から役に立ったといわれることもある.それもまた大変嬉しい経験だ.このような経験ができるのもご夫妻の理念をうかがう機会があったればこそだと思っている.本当にありがとうございます.今後ともますますのご活躍を祈念いたしております.