Enlightenment Now その2



<第1部 啓蒙運動>

ピンカーの新著.全体は3部構成で,第1部は「Enlightenment」と題されている.定冠詞のTheがついていないので,18世紀の啓蒙運動を特に指しているわけではないが,啓発とか啓蒙と訳すよりも,より一般的な意味を込めて啓蒙運動とする方がいいように思う.


冒頭の引用は英国の数学者ホワイトヘッドのものだ.これが18世紀の啓蒙運動についての最も的確な表現だと言うことだろう.

18世紀のコモンセンスは,そしてそれによる人々の苦しみについての明白な事実とヒトの本性にある明白な欲求についての理解は,世界に対して道徳的な浄化として作用した. アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド


冒頭をピンカーはこう始めている.

  • 何十年も言語や心やヒトの本性についてパブリックレクチャーを行っていると,時に手ごわい奇妙な質問に出くわすものだ.「ベストな言語はどれか」「貝に意識はあるのか」「自分の心をインターネットにアップロードできるようになるのはいつか」・・・
  • でも最も引き付けられた質問は,心は脳活動のパターンによるものだという講義を行ったときに学生から寄せられた次の質問だった.「じゃあ,なぜ生きるべきなのか」彼女の率直なトーンは自殺を考えているわけでも皮肉を言っているわけでもないことを示していた.彼女はただ,もし伝統的な宗教の不滅の魂の存在についての信念を科学が否定しているのならどうやって人生の意味と目的を見つければいいのか知りたかったのだ.
  • 私は「この世にくだらない質問などというものはない」というポリシーでやってきたので,即興で回答を始めた,質問者にも聴衆にも,そして自分自身にも驚きだったが,私は即興でおおむね次のようにうまく答えることができた.
  • そういう質問をするからにはあなたは自分の信念についてのreason*1を探しているのだろう.つまりあなたは自分にとって何が重要かを探し出して正当化することについてreasonにコミットしているのだ.そして人生を生きるべきreasonはたくさんある.
  • あなたは意識あるものとして栄えることができる.・・・・・・ あなたは,友人や家族や知り合いを愛し,尊敬し,助け,親切にすることができ,それにより互いに贈り贈られたものを楽しむことができる.
  • そしてreasonは,これらはどれもあなただけに当てはまるわけでないことを教えてくれる.あなたは自分について期待するものを他者に提供するようにする責任があるのだ.あなたは他の意識的存在の幸福をはぐくむことができる.他者に健康,知識,自由,資産,安全,美しさ,平和を与えることができる.歴史は,私たちが他者に同情しその能力を人々の状況改善に使うときに「進歩」をひきおこせることを示している.そしてあなたはその進歩が継続するように行動できるのだ.


心が脳活動パターンによるものだという講義をしていて,いきなり人生の意味についての質問にこう答えられるというのは,素晴らしい.もちろんこれはピンカーが常にある程度このようなことを考えていたからできたことなのだろう.そしてこう述懐している.

  • 人生の意味を説明するのは通常の大学教授のジョブディスクリプションにはない.そして私の持つテクニカルな知識や(あるかどうかは疑わしいにせよ)個人的叡智をたよりにするだけでは彼女が求める答えは出せなかっただろう.でも私は200年以上前の信念と価値をその答えにそそぎ込んでいることについて自覚していた.その理念こそ「啓蒙運動*2」なのだ.


ここからピンカーは本書の目的を解説する.

  • 「啓蒙運動」の原則,つまり「我々は理性と思いやりをもって人類の繁栄を押し進めることができる」というのは当たり前で,ありふれていて,古くさいと思われるかもしれない.しかし私が本書を書くことにしたのは,そうではないと気づいたからだ.
  • かつて無いほど,理性(合理主義)と科学とヒューマニズムと進歩の理念に対して本気の擁護が必要になっている.
  • 我々は,新生児がほとんど死なないこと,多くの人が80年以上の寿命をもつこと,食べ物や清浄な水が簡単に手にはいること,・・・・・を当たり前に思っている.しかしこれは何か宇宙的生得的権利ではなく,人類が獲得してきたものなのだ.かつての世界は戦争,疾病,無知,命に関わる悪意がごく普通に存在する世界だった.そして我々は一国が時にその状態に戻りうることを知っている.
  • 私は彼女の質問以来,しばしばこの「啓蒙運動」の理念を述べ直す必要があることに気づかされた.それはそういう質問がメールボックスに入ってくるというだけではなく,人類の進歩の観点を忘却することが実存的恐怖以上の厄災をもたらしかねないからだ.
  • 「啓蒙運動」の理念は理性によるものだ.しかしそれは常に別のヒトの本性と戦い続けてきた.すなわち,部族への忠誠,権威への服従,神秘思考,悪業者の不運の願望などだ.
  • 2010年代の政治は「自分たちの国が悪意をもつ派閥に地獄に引きずり込まれそうになっており,それは国を昔のようにグレートに戻す*3強いリーダーによってのみ防げる」と描写する勢力の興隆をもたらしている.そしてそれに対する最も強い批判者は「現代文明の体制は失敗しており,生活は危機に瀕している」と主張する.
  • 両派は「今の体制をぶっこわすことで世界はよりよくなる」というぞっとするような点で合意しているのだ.


ここでピンカーは啓蒙運動の擁護の必要性をよく示す逸話を紹介している.イスラム過激派を分析するアナリストによると,「西洋は自分たちのリベラルな価値について語らない.それに自信がないのだ.しかしISは自分たちの価値について自信たっぷりだ」というのだ.そしてこの第1部の序言をこう結んでいる.

  • 本書は21世紀の言語と概念を持って「啓蒙運動」の理念をもう一度述べる試みだ.
  • まずヒトの状況を理解するためのフレームワークを解説する.
  • そして啓蒙運動の理念を21世紀にふさわしいやり方つまりデータで裏付ける.啓蒙運動は役に立つのだ.その裏付けとなる理性(合理主義),科学,ヒューマニズムは過小評価されている.
  • この理念はインテリによってしばしば無関心,懐疑,時にあざけりを受けている.しかし正しく評価されるなら「啓蒙運動」の理念は,実際のところ,感動的で啓発的で高貴であり,そして人生を生きる理由になるのだ.


本書の性格を非常によく示している力のこもった巻頭言という印象だ.

*1:日本語だと「理性」と「合理主義」と「理由」はかなり違った意味になるのでちょっと訳しにくいところだ.

*2:ここでは定冠詞をつけたthe Enlightenmentと表記されている.これは18世紀ヨーロッパに起こった啓蒙運動を指すことになる.ここでは定冠詞付きのものを「」で表すことにある.

*3:もちろん「make America great again」,つまりドナルド・トランプ大統領一派のことを指している