Enlightenment Now その18

第8章 富 その3

ここまでピンカーは産業革命以降の世界は2段階の経済成長を成し遂げたことを説明してきた.19世紀の第1の波は科学技術の応用と価値観の変化によって達成された.では20世紀後半からの第2の波はどうやって可能になったのだろうか.ピンカーは経済学者スティーヴン・ラデレットの見解をここで紹介している.

  • では,ここまでうまくいったのはなぜなのだろう.ほかの進歩についても当てはまることだが,様々な好ましいことが生じて互いに好影響を与え合っている.だからドミノの最初の1ピースを特定するのは難しい.
  • それは原油価格の上昇のためだとか,人口の多い中国でたまたまうまくいったからだなどという皮肉屋の説明は,よく調べられて棄却されている.ラデレットたちエキスパートは5つの要因を挙げている.
  • 第1の要因は共産主義(および侵襲的社会主義)の凋落だ.ラデレットはこう書いている.「1976年に毛沢東はたった1人で世界の貧困問題の傾向を大きく変えた.その年に彼は死んだのだ」 見てきたように市場経済は経済成長を激しく推進させるが,全体主義的計画経済は供給不足と不況そしてしばしば飢饉を引き起こす.市場経済は分業の利益と需要あるものを供給するインセンティブを創り出すだけでなく,価格メカニズムによる情報伝達を通じて何億人もの人々の行動を調整することができるのだ.
  • 集団主義,中央コントロール,政府による独占と窒息的な官僚統制からオープン経済への移行が様々な地域で1980年代に大きく進んだ.これには訒小平による中国の改革,ソ連の崩壊と東欧の開放,インド,ブラジル,ベトナムにおける経済の自由化が含まれる.
  • インテリは資本主義擁護論を読むとつばを吐きかける傾向があるが,その経済的な利益はあまりにも明白で数字を挙げる必要もないほどだ.それは地理や歴史や文化を共有する朝鮮半島の2つの国の夜間の衛星写真により文字通り宇宙から観測することもできる.似たようなペア,東西ドイツボツワナジンバブエ,チリとベネズエラも同じような結果になっている.
  • そして,以下のことを指摘しておくことは重要だ.それはこのような開発途上国でうまく市場経済が花開いた場所は右派が夢見るようなレッセフェール無政府状態になっていたわけではないということだ.程度は様々ながらこれらの政府は教育,公衆衛生,インフラ,農業,職業訓練社会保障,貧困抑制プログラムに投資している.
  • 第2の要因はリーダーシップだ.毛沢東は中国に共産主義を押しつけただけではない.彼は気まぐれな誇大妄想患者であり,大躍進やら文化大革命などという馬鹿げたスキームを導入した.1970年から1990年にかけて停滞した多くの国ではやはりイデオロギー,宗教,部族主義的パラノイド,自己誇大アジェンダに侵されたサイコパスが国を率いていたのだ.そして彼等は共産主義へのシンパシーの程度に応じて米ソのどちらかから援助を受けた.この援助は「彼は最低野郎かも知れないが,我々側の最低野郎だ」というロジックで正当化された.1990年以降は民主主義が広がり,よりましなリーダーが国を率いるようになったのだ.
  • 第3の要因は冷戦の終了だ.それはカーペットの下に隠れていた馬鹿げた独裁者を引きずり出しただけではない.1960年以降途上国にはびこっていた内戦の多くを終了させた.内戦はヒューマニティへの厄災であるだけでなく経済的にも厄災だ.設備やリソースは破壊され,子供は教育の機会を奪われる.
  • 第4の要因はグローバル化だ.コンテナ船と航空運輸の発達,タリフの自由化により貿易は爆発的に拡大した.古典経済学はより大きな貿易ネットワークは皆に平均して利益を与えることを示している.比較優位の原則により皆が利益を受けるのだ.そして特に貧困層が大きな利益を受ける.
  • グローバル化という言葉は政治スペクトラムの多くの部分に恐怖を呼び起こす.ディートンはこう指摘している.「グローバル化は多くの人々を犠牲にしてごく一部をリッチにするためのネオリベラルの陰謀だというものもいる.もしそうなら,それはこれ以上ないほど失敗していることになる.それは10億人の人々を意図しない結果(もしとても良い結果をそう呼んでもいいならだが)に導いたことになるだろう.」
  • 確かに,ちょうど200年前の産業革命の時と同じように途上国の産業化は現在の富裕国水準で見ると厳しい労働環境を生みだしており,それを非難するものもいる.19世紀のロマン主義運動の一部は「暗い悪魔のような製粉所」への反感から生まれた.そのような産業化への嫌悪はC. P. スノーのいう第2文化の聖なる価値の一部になっている.スノーによる次の文章ほど,彼の敵対者リーヴィスを憤激させたものはない:「こぎれいな椅子に座って『物質的水準などどうでもいい』と言い放つのは簡単だ.個人的選択として産業化を否定するのもいいだろう.そしてもしあなたが,食べるものもなく,我が子が幼くして死んでいく中でも,さらに自分の20年の寿命を投げ出しても,それを選択するなら,私はあなたのその嫌悪をリスペクトしてもいい.しかしそれを選択の自由を持たない他人に押しつけるのなら全くリスペクトできない.実際にどんな国においても産業化で都市での働き口が見つかれば皆工場へ向かったのだ」
  • スノーの指摘は全く正鵠を得ている.産業化で健康状態は良くなり,寿命は延びた.そして人々は自ら工場へ向かったのだ.このスノーの議論は50年後のラデレットの主張の中に繰り返されている.しばしば工場の床は汗まみれと批判されるが,実際には農場で働くより遙かにましなのだ.(ラデレットの1990年代のインドネシアの状況の記述が紹介されている)
  • 産業化による雇用の増加による恵みは物質的生活水準の上昇だけではない.女性にとって産業化によって生じた職を得ることはまさに伝統的なジェンダーロールからの解放だったのだ.そしてこれも19世紀にも第二次世界大戦後にも同じように当てはまる.(2000年代のインドにおける女性の解放が説明されている)
  • そしてこのような産業化の長期的な利益を得るために,必ず残酷な労働環境を受け入れなければならないわけではない.そうでない歴史的な成り行きもあり得ただろう.世界がよりリッチになり,貿易が盛んになれば,消費者の抗議によりそのような労働条件による商品は拒否されるようになる.そして実際に後に見るように労働条件は改善されてきたのだ.
  • 最後の第5の要因は最も重要なものだ.それは科学と技術だ.命はより安く得られるようになった.1単位の労働時間で買える食品,健康,教育,衣服,住居,その他必需品および贅沢品は増え続けている.子供は裸足からサンダル履きになり,大人はサッカーゲームを観戦できるようになる.さらに健康や農業やビジネスのアドバイスはただで受けられるようになった.
  • 今日世界中の大人の半数はスマホを持っている.道路や郵便サービスや新聞や銀行がない地域では,スマホなどのモバイル機器は主要な富の創造手段になっている.(世界の途上国での実態が紹介されている)
  • 知識の重要性の増加はグローバル開発のルールを変えた.開発援助の専門家の間には(特に腐敗した政府の元にある国への)食糧や資金的な援助の有効性について論争がある.しかし薬品,電力,作物品種などの技術援助,そして農業やビジネスや公衆衛生のノウハウの伝授の有効性については皆一致している.
  • これまで私は一人あたりのGDPを強調してきたが,知識の重要性はウェルビーイングについてのその尺度の有効性も減少させる.先ほどの国別の数字ではアフリカはやや劣後している.しかし同じ1ドルで買える健康や寿命や教育が大きく下がっているので実際にはそれよりも状況はよいのだ.
  • それでも一人あたりGDPの数字は人々の繁栄のすべての指標と相関している.特に寿命,健康,栄養と強く相関している.そしてそれより明確さは劣るが,平和,自由,人権のような重要な倫理的価値とも相関しているのだ.
  • このソマリアからスウェーデンまでの連続体の中で,片方の端には貧しく暴力的で抑圧的で不幸な国が並び,もう片方の端には豊かで平和でリベラルで幸せな国が並ぶ.相関と因果は異なるし,教育,地理,歴史,文化も要因になっているだろう.しかし統計エキスパートが分析すると,どうやら経済成長は実際に人々の福祉の大きな要因であるようだ.


ラデレットは5要因としており,ピンカーもそれに依拠しているが,最初の3要因は互いに深く関連しているように思われる.共産主義イデオロギーを利用したサイコパス的独裁者が冷戦下でその国の経済成長を大きく損ねたが,ソ連の崩壊と毛沢東の死亡(とそれに続く訒小平によるイデオロギーの骨抜き)により1990年代以降全世界規模で市場経済化が進んだとまとめることができるだろう.根拠なき信念であるイデオロギーはここでも大厄災を生みだしたのだ.グローバル化はそれを批判する進歩恐怖派が多いのでピンカーは丁寧に論じている.そして最も重要なのはここでも技術と知識だということになる.ピンカーは本章を以下のアカデミック小話で終わらせている.

とある大学の学部長のところに精霊が現れ,金か名声か知性かどれか1つの願いを叶えようと申し出る.学部長はこう答えた.「それは簡単なことだ.私は学者であり,人生を物事の理解のために捧げてきたのだ.もちろん知性の願いを選ぶよ.」 精霊は頷いて手を振り,煙とともに消えた.煙が晴れると学部長は額に手を当てて一心不乱に何事か思考していた.1分たち,10分たち,15分がたった.ついに学部長は顔を上げた.「やれやれ」彼はつぶやいた.「私は金を願うべきだったのだ」

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ラデレットによる20世紀後半の途上国の経済成長についての一冊

The Great Surge: The Ascent of the Developing World (English Edition)

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