Enlightenment Now その19

第9章 不平等 その1


前章でピンカーは世界全体が19世紀と20世紀後半以降の2段階ブーストによってリッチになったことを説明した.しかしではそれは全員に行き渡ったのだろうか.言葉を換えると「格差は拡大したのではないのか」が懐疑派から当然疑問としてあげられるだろう.ピンカーはこのテーマをこういう形で始めている.

  • 「ではそれで皆リッチになったのか?」というのは2010年代の先進国で当然なされる質問だ.そこでは誰もが「経済的不平等」に取り憑かれているのだ.「一番リッチな1%が最近の数十年のすべての成長をすくい取り,それ以外の人々は徐々に沈みつつある」というのは新しい「常識」になっている.もしそうなら前章で採り上げた成長は何ら祝福すべきものではなくなってしまう.
  • 「経済的不平等」は永らく左派の挙げる論点だった.そしてリーマンショック後の不況でもそれは採り上げられ,2011年には「ウォール街を占拠せよ」運動につながり,2016年には民主党予備選でサンダース旋風を巻き起こした.しかし同じ2016年にそれはドナルド・トランプを大統領にさせるのに一役買うことになった.彼は「米国は第3世界の国並みに落ちぶれたが,それは移民と貿易のせいだ」と主張したのだ.右派と左派のスペクトラムの両端は,異なる理由で「経済的不平等」に激怒し,めくり上がって同じように「現代経済にシニカルな見方を取る」ようになった.
  • 本当に「増大する格差」が大多数の市民を惨めな状態に追い込んだのだろうか?
  • 確かにほとんどの西洋国家,特に米国とその他英語圏の国家で経済的不平等は1980年に最低になったあと増大し続けている.米国のジニ係数1984年の0.44から2012年には0.51に上昇している.またトップ1%の富裕層の所得シェアは1980年の8%から2015年の18%に上昇している.(トップ0.1%の数字は2%から8%になっている)
  • 格差として語られている現象の中に深刻で検討されるべきものがあるのは疑いない.その検討は,特に格差論者が叫ぶ「市場経済と技術進歩と貿易の放棄」という破滅的なアジェンダからの打開に向けて重要だ.
  • 「格差」はとんでもなく複雑で分析しにくい.私が本章が必要だと判断したのは,実に多くの人々がディストピア的論理に惑わされて格差を現代社会が人類の状況を改善できなかった証拠と受け取っているからだ.これから見ていくようにそれは多くの理由で誤っているのだ.
  • まず押さえておくべきは,「格差」自体は人々のウェルビーイングの基礎的構成要素ではないということだ.それは健康や経済的繁栄や知識や安全や平和などとは異なるのだ.
  • これはロシアの小話を考えるとわかりやすい.「ボリスとイゴールはともに貧乏だった.でもボリスは痩せたヤギを持っていた.ある日妖精がイゴールのところにやってきて願い事を1つ叶えようと申し出る.イゴールはこういった『ボリスのヤギが死ねばいい』」確かに2人の格差は減るが,誰の状況もよくなりはしない.哲学者のフランクフルトも同じ問題をこう説明している.「不平等自体はモラル的に受け入れられないものではない.受け入れられないのは貧困だ.皆が持つものが同じであることは重要ではない.皆が十分に持っているかどうかが重要なのだ」
  • この格差と貧困の混同は「富は有限で一定で,ゼロサムで分けるしかない」という「塊の誤謬」から来る.しかし前章で見たように富はそういうものではない.指数関数的に富が増えている中で格差が増大していても貧しいものもより豊かになっていることは十分あり得るのだ.
  • 専門家ですら塊の誤謬的な表現を用いる.トーマス・ピケティは「貧しい方の半数の人口は,過去と同じように貧しい.2010年には世界の富の5%を持つだけであり,それは1910年の時と同じだ」と書いている.しかし2010年の世界全体の富は1910年のそれより圧倒的に大きい.彼等は「同じように貧しい」のではなく「遙かに豊か」になっているはずだ.
  • さらに有害な塊の誤謬は「富裕層が豊かになっているのは彼等が貧しい人々からより多くを盗んだからに違いない」というものだ.J. K. ローリングのハリー・ポッターシリーズは4億部以上売れている.それを楽しむために購入した人々は一人あたり10ドルをローリングに支払っているとしよう.ローリングは億万長者になり格差は上昇する.しかし(ローリングは人々が喜んで支払う価格で素晴らしい物語を提供したのであり)皆よりいい状態になっているのだ.
  • もちろん貧困だけでなく格差を憂うべき理由もあるだろう.多くの人々は実際にイゴールのように感じ,周りの人との比較の上で幸福を得るのだろう.これは社会心理学にある古いアイデアだ.しかしこのアイデアはあくまで個人的観点にとどめておくべきだ.途上国で周りの女性と同じように産んだ子供の半分を亡くし50歳で死ぬシーマと先進国で教育を受け海外旅行も楽しみ80歳で死ぬ中流下層のサリーを想像してみよう.サリーが同じ国のスーパーリッチのような財産を持っていないことで幸福になれないとしても,どちらがより恵まれた人生だろうか.
  • そしてこのような仮想実験にあまり意味はない.実際にはまず間違いなくサリーの方が幸福だからだ.実際のデータは第18章でみることにするが,リッチな国の人々は平均的に貧しい国の人々よりも幸福なのだ.
  • しかしそれでも格差が広がって周りがリッチになると人々は惨めになるのだろうか.疫学者のリチャード・ウィルキンソンとケイト・ピケットは「所得格差の大きな国は殺人,投獄,十代の妊娠,嬰児死亡率,疾病,精神疾病,社会的自身,肥満,薬物中毒が高い」と主張した.彼等の主張は「格差が病気を作る」というものだ.
  • この「分断レベル理論」は「左翼のすべてを説明する新しい理論」と呼ばれている.それはもつれた相関関係の塊をたった1つの因果で説明しようというその他の理論と同じく問題のある理論だ.そもそも人々が地元にいる直接のライバルではないJ. K. ローリングやセルゲイ・ブリンの存在によって不安になるかどうかは全く明らかではない.さらに平等なフランスやスウェーデンと不平等なブラジルや南アフリカは格差以外にも様々な点で異なっている.平等的な国は,より豊かで,より教育程度が高く,統治に優れ,文化的均一度も高いのだ.要するにウガンダよりデンマークに住む方が幸福な理由な格差以外にも様々に考えられるということだ.サンプルを先進国に限ってみても相関はどの国を計算に入れるかの選択によりはかなく消えるようなものに過ぎない.裕福で不平等なシンガポールや香港のような国は,しばしばより貧しく平等的な東欧の国よりも社会的に健全だ.
  • そして何より社会学者ジョナサン・ケリーとマリア・エヴァンズによる68社会20万人を使ったリサーチによりこの「格差が不幸を作る理論」は完全に否定されているのだ.途上国では格差は人々を(上昇の希望を与えることにより)鼓舞している.そして先進国では不平等は不幸との関連を見いだせなかった.(東欧諸国のデータは興味深い.格差は共産主義時代を知っている世代には痛みを持って受け止められているが,若い世代の幸福感には影響を与えないか,逆に希望を与えているのだ)
  • 格差とウェルビーイングについての移り気な関係はまた別のよくある誤謬に結びつく.それは格差と不公平の混同だ.心理学の多くのリサーチは,人々,特に小さい子供は偶然手に入ったものを分けるには,全員がそれにより少なくしか得られないとしても平等に分けることを好むことを示している.一部の心理学者はこれを富を分配する際の「不平等回避」と名付けた.しかし最近のスターマン,シェスキン,ブルームのリサーチは,人々はそれがフェアであると感じれば(ハードワーカーにより分配が増えるような)不平等な分配を好むことを報告している.つまり人々は自分の国が能力主義であれば経済的不平等でも満足するが,能力主義でなければ怒るということなのだ.これが福祉クイーンや不法移民,あるいは銀行家やスーパーリッチが我々を騙しているという最近の政治的主張の背景ということになる.
  • このような心理学的効果を問題にするほか,不平等を経済全体の非効率性(不況,金融の不安定性,世代間所得移転の不活性化,金持ちによる政治問題への不当に大きな影響など)に結びつけようとする試みもある.確かにこれらの問題も重要だ.しかしこれも相関から因果への跳躍だ.私はジニ係数の縮小を目標にするよりも個別の経済問題の解決を具体的に考える方が良いと考える.確かに政治への金の影響は民主主義の根幹にかかわる問題だ,しかしそれは所得格差とは別の問題だ.


ここまでがピンカーによる「経済的不平等はそれ自体が人類のウェルビーイングの問題ではない,そしてそれは不公平や貧困と混同すべきではない」という主張になる.これを前置きにして個々まで格差が歴史的にどうなってきたかのデータチェックということになる.このような長大な前置きを置かざるを得ないのが近年の米国の政治的状況ということだろう.日本でも小泉政権の後半ぐらいから「格差」問題は政治的なイッシューとして論争のテーマになった.そして「格差」が声高に叫ばれるときには,やはり貧困問題や不公平問題との混同があるように感じられる.それは別に語られるべき問題なのだ.


なおこのピンカーの議論でちょっと気になるのは社会心理でおなじみの「自分の社会的ライバルとの比較における幸福感」を簡単に棄却している部分だ.確かに政策の是非を議論する際のウェルビーイングの構成要素にこの心理をどの程度まで入れ込むべきかはなかなか難しい問題だ.しかしそれもまたヒトが進化で得てきた本性の1つでもある.もちろん1国の中の経済的格差が直接「自分の社会的ライバルとの比較における幸福感」を決めることはないだろうが,相関はありそうだ.後段ではデータによる「格差が不幸を生むという主張」の否定もあるが,単にいろいろな要素が含まれているデータによる格差と幸福感の分析だけでこの社会心理の問題を否定できるというわけでもないだろう.そもそもこの効果を打ち消しているような「自分も上に上がれるかも知れないという希望」を与えるような格差なのかどうかはどう決まるかも気になるところだ.政策議論の中の価値判断も絡んでなかなか決着のつかない部分ではあるかもしれないがもう少し丁寧に扱っても良かったのではないかという印象だ