Virtue Signaling その2


Virtue Signaling: Essays on Darwinian Politics & Free Speech (English Edition)

Virtue Signaling: Essays on Darwinian Politics & Free Speech (English Edition)

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第1エッセイ 政治的クジャク

 
本書では各エッセイの前にミラーの解説がある.最初のエッセイについてはこういう説明になっている.

  • 「Virtue Signaling」という言葉はどこから来たのだろうか.英国のジャーナリストのバーソロミューが2015年に使ったのがきっかけだという人もいれば,ある合理主義者のブログが2013年に使ったのがきっかけだという人もいる.
  • それ以前から「合理主義と効果的利他主義」サブカルチャーの中では信号理論が多くのイデオロジカルな行動を説明できること,そしてシグナリングが政治的議論の合理性を失わせていることが広く知られていた.
  • 私もこの言葉を使い出したのは数年前からだが,政治的な「Virtue Signaling」については1990年代の中頃から考えていた.私は1992年からロンドンにいて,ヘレナ・クローニンが主催するLSEのダーウィンセミナーに出席していた.そこに毎週通ううちに政治シンクタンクのDemosの人々と知り合った.本エッセイは彼等のDemos Quarterly Journalに進化心理学の視点からということで1996年に寄稿したものだ.この寄稿では(当時研究していた)性淘汰を広く扱うことはせずに政治的な事柄に焦点を絞った.
  • 私は自分の政治的態度を見せびらかしたりしない中道派の両親に育てられたが,コロンビア大学に進んで,多くの真逆な態度を目にすることになった.学生たちは寮の壁にポスターを貼り,バックパックにステッカーをつけ,セミナーの議論で自分の政治的態度を誇示した.しかしその政治的立場から見て実効性のある行動をとることには無関心なようだった.
  • 1985年にコロンビア大学で燃え上がったアパルトヘイト抗議行動は特に印象的だった.彼等は建物の多くの部屋を占領し,夜通しネルソン・マンデラ解放の歌を歌い続けた.
  • 10年後ロンドンで初めてこれを理解する道具を手に入れた.学生たちはオスのクジャクだったのだ.彼等は自分たちの性格的個性と道徳的な徳を見せびらかしていたのだ.

 
ここからがエッセイになる.
 

Political Peacocks. Demos Quarterly , 10 (special issue on evolutionary psychology), pp. 9-11 ( 1996)

  • 1985年にコロンビア大学で突然アパルトヘイトへの抗議行動が燃え上がった.彼等はキャンパスの多くの建物を占拠し,大学側に運用ファンドから南アフリカで経済活動を行っている企業の株式を売り払うように要求した.私はその突然性,熱意,学生間の意見の一致を不思議に思った.なぜ多くのミドルクラスの北米の白人学生が投獄されるリスクをものともせずに地球の裏側の貧しい黒人のために立ち上がったのだろう.
  • 保守派の学生新聞はこの出来事を年一の春の求愛儀式だと皮肉った.私は当時これをひどい記事だと思ったが,今では真実が含まれているのかもしれないと思うようになった.
  • 彼等の政治的な要求は通らなかった.しかし抗議行動は若い男女が仲良くなることについては非常に効果的だった.多くの場合イデオロジカルなコミットメントは薄っぺらいものだったし,抗議行動はちょうど半期の試験前には収まってしまったが,そのときに作られた男女の関係は時に何年も続いたのだ.
  • 仮説はこうだ:政治的イデオロギーの誇示行動は,クジャクの羽やナイチンゲールのさえずりのようにある種の求愛ディスプレーとして機能している.この仮説が正しいなら政治的主張は単に求愛のためだということになり,すべての政治的議論が矮小化されるリスクがあることになる.
  • これを避けるベストな方法は,政治的議論の性的な含意を無視することではなく,これを最も強力な理論つまりダーウィンの性淘汰理論で分析することだ.

 

歴史

 
ここでミラーは政治科学ジャーナルの読者向けに性淘汰理論の学説史とメスの選り好み型性淘汰の概要を説明している.このタイプの性淘汰のポイントについてミラーはこう説明している.「配偶者選択は感覚器と脳しか持たないメスの動物が自然の条件下で実行可能な最高の優生学的遺伝子スクリーニング手法なのだ」と.
またここではヒトの配偶者選択が双方向であること,女性は化粧や美しい服装でディスプレイする傾向があり,男性は本や音楽などの創作物,所有不動産などを用いる傾向があることも説明している.このあたりは初歩の進化心理学の解説にもなっている.
 

アイデア

 
ここでミラーはヒトの様々な文化的産物が,進化と切り離されて議論される傾向があることを見る.ドーキンスやデネットもヒトの進化ではなくミームの進化として文化を見ている.ミラーに言わせると,これはヒトの文化があまりにコスト高でしばしばイデオロギー執着的であるから自然淘汰産物には思われないからだろうということになる.しかし性淘汰を考慮すると風景は変わってくる.ミラーはこう自分の仮説を提示している.

  • 私の仮説はイデオロジカルな行動のペイオフの大部分は繁殖にあるというものだ.言語,文化,音楽,芸術,神話を可能にするヒトの能力は男女双方向の配偶者選択型性淘汰により作られた.これら求愛儀式のための能力による技術的な成果は予期されない副産物なのだ.
  • 言語こそイデオロジカルなディスプレイの鍵だ.言語は自然界におけるテレパシーのような奇跡だ.統語論と意味論というトリックにより複雑なアイデアを別個体の脳に伝えることができる.これにより求愛儀式のアリーナは物理的なものから概念的なものに拡大された.
  • 一旦この型の性淘汰過程が始まると,それは強い淘汰圧となり,ランナウェイする.
  • この過程の素晴らしい効果は大きな脳だ.そして問題含みな効果がイデオロジカルな能力への効果,つまりこのイデオロジカル能力が,世界を正確に捉えるよりも,より新奇で興味深く遊興的的内容へと向かう淘汰圧を受けることだ.この効果は多くのトピックに関連するが,ここでは政治的なものに焦点を絞ることにする.

 

インプリケーション

 

  • 多くの人はほとんど政治的権力を持たない.しかし強い政治的な信念を持ち,それを(正しい社会的文脈の中で)強く頻繁に大声で表現する.
  • この行動は経済学的には理解できない.私の指摘は,このような政治的イデオロジカルな主張が生みだす個人的な利益は,政治的なものではなく社会的,性的なものだということだ.
  • このアイデアは多くの謎を解決する.なぜ男性の方がより保守的で権威主義的で右派的で非共感主導的なのか.なぜ人々は中年になるとより保守的になるのか.なぜ男性の方がより政治家になるのか.なぜほとんどのイデオロジカルな革命は男性革命家に主導されたのか.
  • これらの謎は,政治的イデオロギーが政治的利益の合理的な反映だと考えると解決できない.政治経済的な観点から見ると政治的な利益はすべての人に偏りなくあるはずだ.しかし性淘汰的に考えると,特定のグループより繁殖に関心があることが理解できる.
  • 性淘汰理論からは,若い男性が繁殖行動でより積極的でリスクテイキング的であることを容易に理解できる.
  • 少し難解なのは,政治的イデオロギーのどの側面をより若い男性がディスプレイしがちであるかという問題だ.私たちの学生を用いた調査によると,彼等は互いにその政治的イデオロギーをパーソナリティのプロキシーとして利用している.保守派は野心を持ち利己的で配偶相手を保護してリソースを供給することに優れると受け取られ,リベラルはやさしく共感的で子育てや関係維持に優れると受け取られる.
  • 配偶選択における性差を考えると,男性が保守派を,女性がリベラルをよりディスプレイしがちであることは驚くべきことではなくなる.男性は(無意識に)社会的経済的優位性をアピールし,女性は(やはり無意識に)子育て能力をアピールしているのだ.中年になってより保守派になるのは増加した社会的な優位性が反映するためだ.
  • より微妙なのは,配偶選択が社会的なゲームであるために,政治的イデオロギーも何らかの最適値に向かうのではなく,ゲーム理論の不安定な均衡ダイナミクスの中で進化することだ.
  • これがある大学の学生の大半があるとき突然イデオロジカルになることを説明する.求愛アリーナは気まぐれにある政治イッシューから別の政治イッシューに移り変わる.しかし一定数以上の学生がアパルトヘイトに反対するかどうかがその心が適正かどうかのリトマス試験紙になると考えるようになると,誰もがアパルトヘイトに反対するしかなくなるのだ.これは生物学的には頻度依存型淘汰と呼ばれる.
  • 多くの人が政治的意見を世界をよくする合理的な方法提示ではなくパーソナリティを誇示する求愛ディスプレイと受け取るのであれば,政治アナリストはどうすればいいのだろう,
  • 実践的な解決はヒトの心の進化の説明を受け入れた上で分析することだろう.ヒトは政治的意見について,まず強大な脳を持ちアイデアに取り憑かれたハイパー霊長類として反応する.そしてそれから二次的に現代社会の市民として反応するのだ.
  • この見方は世論調査員や扇動政治家やスピーチライターを驚かすことはないだろう.彼等は人々のイデオロギーへの渇望を飯の種にしているのだから.しかし社会科学者は(もっと合理主義的に考えていただろうから)驚くだろう.
  • 幸運なことに性淘汰は我々の心を形作る唯一の力ではない.血縁淘汰や互恵利他主義などは政治的合理性への本能に効いているだろう.性淘汰なしに私たちはこのようなカラフルなイデオロジカルな動物にはならなかっただろう.しかしその他の社会淘汰の力なしにはこの性的に変幻自在なイデオロギーを現実とすり合わせることもできないのだ.

 
ちょうど「The Mating Mind」を書いている頃に書かれた論文で,ヒトの特徴の多くを性淘汰から説明しようとするミラーの姿勢が良く出ている.ヒトの性淘汰がパーソナリティディスプレイに向かうだろうという議論もこの頃から考えていたこともわかる.そして性淘汰産物であることの検証のキーは性差にあるが,ここで双方向淘汰による微妙な問題が生じることが理解を難しくしていることも論じられている.
 
ここで問題になっているのは80年代のアメリカ東海岸のキャンパスの状況だが,日本とは随分状況が異なっている.70年代の全共闘世代の学生運動が男女のあいだをとりもったのかどうか私にはよくわからないが,80年代以降は政治活動に熱心なことがキャンパスで広く求愛ディスプレイとして機能していたようには思えない.(むしろそういう男性は普通の女子学生から引かれる方が多いのではないだろうか)これも移り気な性淘汰装飾の特徴をよく示しているということかもしれない.
 
このミラーの広範囲なヒトの特徴を性淘汰から説明しようとする議論はいかにも大風呂敷的だが,しかしじっくり考えるとその説得力の高さに唖然とせざるを得ないところがある.それは最初に「The Mating Mind」を読んだときに強く感じたことだが,今このエッセイを読んでみて改めてそう感じてしまう.
言語は嘘を簡単につけるまさにチープトークの道具だが,評価軸を内容の正確性から,内容の新奇性,途方もなさ,想像力に移すと,その持ち主の脳の能力についての正直な信号となるのかもしれない.なかなかスリリングだ.