書評 「思考と意味の取り扱いガイド」

思考と意味の取扱いガイド

思考と意味の取扱いガイド

  • 作者: レイ・ジャッケンドフ,大堀壽夫,貝森有祐,山泉実
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2019/06/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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本書はレイ・ジャッケンドフによるこれまでに形作ってきた思考や意味についての考え方をまとめた本になる.ジャッケンドフはもともとチョムスキーのもとで生成文法を学び,その後認知的視点から言語,思考,意味について考察を深めてきた.その考察は膨大なものになるが,本書ではエビデンスの詳細には踏み込まずに,ジャッケンドフのアイデアの筋道を語る形になっている,
 

第1部 言語,言葉,意味

 
冒頭で「言語と思考の関係はどうなっているのか」という問題が提起される.そしてジャッケンドフはこの問題を取り扱うにあたって「日常的視点」と「認知的視点」を峻別し,本書はどこまでも認知的視点から問題を考察していくという方針を示す.そして過去多くの認知科学からの言語への取り組みは「文法」を考えるものだったが,本書は「意味」を考えるのだとする.そして本書は「思考と意味はほぼ完全に無意識的である」ことを読者に納得させるために書かれたと宣言する.なかなかスリリングな始め方だ.
 
ジャッケンドフは最初に「言語とは何か」を扱う.まず(チョムスキー直伝の)心的文法を解説し,具体的な場面ではまず伝えたい思考が先にあり相手も同じ心的文法を持つことを前提に心的文法を用いて発話するのだとする.

  • 個別の言語とは各人の頭にある心的文法を便宜上同じものと見做して理想化したものであり,だから言語は話者の頭の中にある.
  • これは認知的視点からの見方であり,多くの哲学者は日常的視点から考え言語を話者から独立した抽象的な存在物として扱っているので話が噛み合わないのだ.(またこの2つの視点の違いは脳神経学的視点に「還元」しても解決しないともコメントしている)

 
ジャッケンドフは「意味」に話を進める.

  • 語の意味も視点により変わってくる.語によっては単一の視点からしか意味を持たないものもある(「洗濯物」「がらくた」には日常的な意味しかないが,「微分可能」「c制御」には専門的な意味しかない).意味は視点に部分的に依存している.
  • 「語」は,物理的視点から見ると音響特性があるだけだが,認知的視点から見ると人々の頭の中にある体系の一部であり,それぞれ個人的な心的辞書に格納されていることになる.そしてこの視点から見ると「語の理解」とは,部分的にはその音と既に知っている音の最も良い合致を見つけることであり,部分的には話者が何について話しているのかを推測することだ.これらは無意識的に行われる.そしてどこまでが同じ語でどこからが同音異義語であるかも視点に依存する.
  • さらに「mean: 意味する」という語を分析すると極めて複雑な状況が現れる.これはまず客観的用法として翻訳,定義,実演,説明を表し,さらに連関を表すこともあり,その場合には因果,意図が表現される.文法フレームによっては影響を表すことができる.また登場人物の主観的なとらえ方,連関という用法もある.この上に「mean」には「意地悪な」「平均値」という意味もある.(ジャッケンドフはこの極めてゴテゴテした状況はごく普通なのだと強調している)

 
ここまでもかなりややこしいが,実は意味について考察するための準備段階だった.ジャッケンドフは「意味とは何か,どこにあるのか」に話を進める.代名詞「これ」や「文」の有意味性は何と関係しているのか.プラトンは語の意味についてイデアを持ち出した.一部の言語学はこれまで語や文の意味を抽象的な「深層構造」や「論理形式」から考察してきた.これらのアプローチの結論は「我々は意味を直接認識できない」ということだとジャッケンドフは言う.意味は(意識から)隠れているのだ.そして意味の性質を整理する.

  1. 意味は発音と結びついている(ソシュールの恣意性)
  2. 文の意味はその部分の意味から組み立てられている(フレーゲ流の構成性)
  3. 翻訳は意味を保持しなければならない
  4. 意味は言語と世界を結びつけなければならない(指示機能)
  5. 意味は相互につながっていなければならない(推論機能)
  6. 意味は隠れたものである

音と意味のペアの意味サイドは「それと結びついた音声が有意味であるという感覚」を生みだすことを除けば無意識のものだというのがジャッケンドフの主張になる.さらに意味が視覚イメージではあり得ないこと,語の意味は(認知的視点では)連続的であり離散的ではないこと(ウィトゲンシュタインの家族的類似性*1)を説明し,さらにフレーゲ流の構成性を語用論を用いて拡張する(推意と談話の接続,省略.指示転移.アスペクト共生が解説されている).
 
そしてジャッケンドフは言語と思考の関係に進む.

  • 語の意味が概念だとすると,文の意味はそれが表現する思考になる.しかしすべての概念や思考が語や文の意味だとは限らない.多くの概念や思考は言語でうまく表すことができないのだ(例として明暗パターンの詳細,楽器の音色などが挙げられている) 
  • 哲学者は「命題」について議論するが,それは話し手から独立して真か偽を決められるものであり,思考そのものではない.
  • 概念や思考は言語のようなものだとする議論もあるが,概念や思考自体は発音を持たず,発音と結びついているだけだ.このような議論は発音は単なる音に過ぎず非本質的だと考えているのだろうが,認知的視点に立って言語がどのように話者に機能するかを考えれば発音は極めて重要だ.

そしてジャッケンドフは最後にサピア-ウォーフ仮説にもコメントする.仮説支持者は様々な例(位置関係を山の斜面の上下で表すツェルタル語,ジェンダーを持つ言語の話者と持たない言語の話者に表れる連想の差など)を引き,それらは確かに違いを示しているが「大勢に影響はない」とする.そして人々の考え方の違いには,言語よりも文化や政治的立場の方があるかに大きな影響があると指摘する.思考の根本的な違いを生みだすのに言語の違いは必須ではないということだろう.
 

第2部 意識と知覚

 
ジェッケンドフは第1部で提示した「意味は隠れている」ということを深く掘り下げる.

  • プラトンのイデアは言語を外在的なものと捉える視点によるもので,人々が言語をどのように使うかを説明するには役に立たない.ある意味,プラトンは「意味は我々からあまりに隔たったものだ」と考えているといってもよい.
  • 認知的視点に立つなら意味は我々に近しいものであり,心のなかのアクセスできない部分(つまり無意識)にあるのだ.我々は発音のまとまりが有意味であるときも,その意味を直接知覚できない.我々が意味の存在を意識するのは発音が意味と結びついて知覚可能な「取っ手」として働くからだ.(これをジャッケンドフは意味の無意識仮説と呼んでいる)

 
ではこの仮説はどう検証されるのか.ジャッケンドフは仮説が支持できることを示すいくつかの現象をあげている.

  • 同じ意味を表す2つの文を前にその共通の意味は何なのかを述べるのは難しく,言い換えを繰り返すしかない.
  • アスペクト強制がどんな意味を付加しているかを説明するのも実は難しい.
  • 「考えが閃いたが,どう表せばいいかわからない」という状況は,意味が無意識にあるのだが発音の取っ手が提示されないために表に出てこられないという状況だと解釈できる.我々が思考の内容を意識できるのは発音と結びついているときだけなのだ.

 
ここからジャッケンドフは「意識とは何か」という問題に進む.意味の時と同じように「consciousness: 意識」「conscious: 意識している」という語の分析を行ったあと,哲学史的に解説を行う(デカルト,フロイト,行動主義,認知革命,ハードプロブレムまで扱われている).

  • 「意識とは何か」に答える良い方法は脳の視点,認知的視点(コンピュータ的視点)に立つことであり,そうすれば「ニューロン発火と情報処理のいかなるパターンが経験のいかなる側面と相関するのか」を問うことができる.
  • なぜそれが経験を成立させるのかを知るにはハードプロブレムが立ちふさがるが,それに答える前にも多くの進歩を期待できる.

 
ジャッケンドフはもう一度意味の無意識仮説に戻り,さらに掘り下げる.

  • 認知的視点からは言語表現は音韻論(発音),統語論(文法),意味論という3つのデータ構造からなっている.意味論は思考に関わるデータ構造ということになる.意味の無意識仮説からするとこの3つのデータ構造で思考の経験と最も近似するのは音韻論になる.
  • つまり発音が意識的思考の主要な認知相関物になる.この結びつきが発音の有意味性の感覚を生む.心/脳は音韻,文法,意味の構造を結びつけなければならず,結果的に音と意味が一体になる.
  • 外部からの音はまず無意識の聴覚入力で処理される.そして意識的な心のなかで既存の発音と結びつきがあるか調べられ(イメージモニター)イメージの存在感覚(特性タグ)を意識の認知的相関物として生む.さらに発音と思考の間に結びつきがあるかどうかが調べられ(有意味性モニター),「取っ手」のあるものは有意味性の感覚(特性タグ)を意識の認知的相関物として生む.それは無意識の思考につながる.この中間部分が意識的思考になる.

 
ここでジャッケンドフは意味の無意識仮説と対立する考え方を扱う.知性(思考)と意識を同一視する考え方,「意識はニューロンの一般的特性だ」という考え,「意識は1種の執行部だ」という考え,「意識はメタ認知だ」という考え,「意識は広域作業空間だ」という考えに,これらは人が頭の中で言語として「思考を聞く」という経験に注意を向けず,意味と発音にかかる2つの異なるデータ構造を分けて考えていないのだと批判している.
 
ここからジャッケンドフは言語の認知処理と視覚イメージの認知的処理の類似性を提示する.

  • この2つの認知処理には多くの平行現象が見られる.視覚認知処理で「発音」にあたるのは視覚表層になる.視覚認知において,多義的図形の認知,イメージの補完,矛盾した内容の表現が観察できる.視覚イメージが成立するには膨大な量の(無意識的)心的計算が関わっている.
  • それは言語の認知処理でも同じで,膨大な無意識の過程がある.
  • ではこの2つの認知処理は思考とどう関わるのか.「空間構造」にはより視覚的処理が相関し,「概念構造」にはより言語的処理が相関するだろう.そして空間構造と概念構造は無意識の中で結びついて思考を形成する.

ジャッケンドフはこの2つの認知処理と2つの構造がどう結びつくかを,さらにタイプ/トークンの概念構造の差をどう処理するのかという例を用いて詳細に論じている.また似たようなことはほかの感覚の認知処理でも生じていることにも触れている.
 
ジャッケンドフは「特性タグ」についても掘り下げる.

  • 特性タグは経験の全体的な性格を特徴付ける.
  • 視覚的認知の場合,外部世界の何かを見たとき,光が目に入り,脳は視覚表層を作る.これは視覚的意識の認知的相関物だ.
  • この時これは頭の中ではなく外部世界の現実だと認識する.(視覚的経験を鮮明にイメージしただけの時と比べてみて)それは視覚表層と目からの入力の間に結びつき(現実性の特性タグ)があるから現実と認識できると考えるべきだということになる.
  • 有意味性や現実性以外の特性タグとしては,親近性と新奇性,肯定性と否定性,聖なるもの,自己制御性と非自己制御性(自由意思と深く関わる)がある.(それぞれ詳細に議論されていて面白い)

 

第3部 指示と真理

 
第3部では意味のいくつかの特徴が掘り下げられていく.まず最初に「意味の指示機能:意味(の少なくともその一部)は世界と結びつくことができる」を取り上げる.ここは難解だ.

  • いかにして言語で表現されたものが外部世界と結びつくのか.言語使用者は知っている個物に対しそのトークン特徴を付与した概念構造をコード化する.それはすべての内容特徴と特性タグの両方が組み合わされており「指示参照ファイル」と呼ぶべきものになる.言語表現はこの支持参照ファイルに結びついていれば外部世界の何かを指示することになる.言語についてはただこれだけだが,認知的視点に立つと,問題は人が指示を行うために言語表現をどう使うかということになる.
  • 言語哲学はしばしば日常的視点に立っているために,人によって指示参照ファイルが異なる場合「『あのマティーニを飲んでいる男』が本当は水を飲んでいればどうなるのか」などの問題で身動きが取れなくなる.しかし認知的視点に立てば,話者と受け手が互いに理解するに至ったかどうかだけを考えればよいことになる.
  • メタ形而上学は,実在論「あるものは実在するのか」とデフレーション論「我々は実在をどう語るのか」の問題を分けるように発展してきているが,第3の視点認知的立場をまだ発見していない.この立場に立つと形而上学的な問いは「人の心はどのような種類の存在物を世界に登場させているか」になる.話し手は聞き手に対して代名詞を使って同じ視覚表層からあらゆる種類の解釈を引き出すことができる.これらは空間構造や概念構造にコード化され,指示参照ファイルを獲得する.(種類として物体,物体のタイプ,音,場所,動作,長さなどの例が解説される)これらは対象の存在ではなく,我々の理解に関わるものだ.

さらにジャッケンドフは,これらが対象そのものではなく対象についての絵画,お話し,話者の想像(思考)となったときの状況を解説し,画像について考えたり話したりするのと,思考について考えたり話したりするのはほぼ同じ方法によっていることを示し,思考についても指示参照ファイルがあるとする.また,我々は無生物,生物,人を異なる存在として理解し,「人には身体と魂があり(異なる存在として別々の特性タグがつきうる),社会関係,社会的役割,権利,義務,道徳的責任を持つ」と理解していることを認知的視点から見た言語の用法から解説している.さらに我々は「私という存在の重要性」「神聖という感覚」を持ち,それが日常的視点を形成し,大衆の科学への反発の底にあるのだろうとコメントしている.
 
ジャッケンドフは次に「真理」を扱う.ヒトの心は「真理には根底に何か純粋な本質がある」と考える誘惑に弱いがそれに負けるわけにはいかないのだとコメントされている.そして最初は「true(truth)」についての言語学的な分析だ.

  • 哲学者は平叙文について「true: 真」だとする用法を用いる(反対語は「false: 偽」になる).これは文が世界のあり方に対応していれば「真」だということになる.疑問文,命令文,提案,遂行文についてはこの用法で真であることはできない.平叙文であっても冗談であれば真であるという特徴付けをされない.
  • もう1つの用法は「Xについての真実」「Xについての真の原因」のような用法で,「false」が反対語にならず,隠れた意味論的要素を持ち,genuine, realで言い換え可能だ.この用法は緩やかに拡張可能で,家族的類似性を示す.
  • 第1の用法において,ある文が真かどうかはどう判定できるのか.哲学者はしばしば日常的視点に立ち「『XがYである』という文が真であるのは.XがYである場合,そしてその場合に限り真である」などという.しかしこのような理論は「現在のフランス王はハゲである」「ボストンからニューヨークまでの距離は200マイルだ」「シャーロック・ホームズは英国人だ」のような文の真偽判定には無力だ.つまり文の真偽判定には,それがどのような世界についてのことかという判断が必要なのだ.
  • 認知的視点に立つと,問題は「我々はある言明をどうやって真であると把握するようになるのか,そしてどうしてそれは不変であると感じられるようになるのか」となる.
  • 文を真あるいは偽と判断すると,文と連合している感覚(特性タグ)によって経験の中に刻印される.(ある絵についての言明がどう判断されるのかについて知覚経験,空間構造,概念構造を用いた認知メカニズムの詳しい説明がある)
  • 「真だ」「偽だ」とは異なる特性タグもある.例えば「何かおかしい」という特性タグは2つの情報源が矛盾しているときに生じる.「なじみ」「新奇」「実在」「イメージ」などもそうだ.

 

第4部 理性と直感

 
第4部では合理的思考と直感が取り扱われる.まずルイス・キャロルが「亀がアキレスに言ったこと」で提示した問題を扱う.

  • 我々はなぜ古典的三段論法を使うことができるのか.三段論法を使うためには,三段論法の論理の骨格と具体的な命題を対応させなければならない.これを知るには対応のルールが必要になる.そしてその対応のルールに従っているかどうかもそれを決めるルールが必要になる.こうして議論は無限後退する.これがキャロルの指摘した問題だ.
  • また三段論法をきちんと使うには,具体的命題が単に文の文法形式だけ三段論法に対応していてもダメで,特定の論理形式にしたがっている必要がある.これは問題が表面的な文法だけでは解決せずに,文の意味が問題になることを意味する.しかし意味は(意識から)隠れている.だからこれについて明示的な対応ルールを作るのは不可能なのだ.
  • そして我々が具体的命題が三段論法の論理形式に沿っていると判断するのは,結局「ああ,そうか」という直観的判断によって支えられている.
  • 結局いわゆる「合理的判断」という理想を実現するのは不可能だ.合理的思考として経験するものは究極的には自分の直感を基礎にするほかないからだ.合理的経験の認知的相関物は,前提と結論の発音,それらが有意味であるという感覚,結論が有効だという感覚だ.
  • 一般に合理的思考と呼ばれるものは直感的思考からなる膨大で複雑は背景なしでは生じ得ない.つまりいわゆるシステム2はシステム1と不可分なのだ.システム2とはおそらくシステム1プラス言語(といくつかの取っ手と結びついたその他の思考形式)だ.

 

  • そして我々の日常的判断のほとんどは直感的に行われている.直感的推論は(それがどのように動作しているか認識できないというだけで)決してでたらめではない.重要なことは,直観的判断力は進化の産物であり,多くの直感的方略は多くの場合かなりうまくいくということだ.
  • では合理的判断はどのように役に立つのだろうか.ポイントは発音という取っ手によって思考のそれ自体の指示参照ファイルを与えることができるというところだ.これにより,発音し終わったあとでも文は手の届くところに存在できる.それを別の形で感じたり思い出すことが可能になる.そしてそれを操作し,矛盾を感じたり,思考の背後にある理由や原因の探求を始めることができる.また文と文の関係を直観的に判断するという推論が可能になる.
  • こうした言語による操作は我々の思考にとって極めて重要だ.それは仮想世界を可能にし,さらに思考と思考の関係を考察することを可能にする.

 

  • しかし合理的判断には落とし穴もある.まず取っ手はあるかないかの離散的なものとして認知されやすいが,現実の世界は多くの場合連続的だということがある.またそれを表す語がないとその概念が認識されない可能性がある.無意味な文を作ることも可能だし,それに有意味性の「オーラ」を与えて相手を操作することも可能になる.さらに話し手は自己欺瞞的にこの操作に気づかないこともある.

 
ここでジャッケンドフはこれらのことを説明するのに室内管弦楽のメタファーを提示する.ブラームスの管弦楽の解釈を巡って楽団メンバー間で議論が行われるのだが,合理的思考の基礎に直感があること,特に共通の目的を追求するときには合理的思考が重要であること,相手への感受性,何かがおかしいという感覚の重要性が示されている.ジャッケンドフはこれらの合理的思考あるいは「クリティカルシンキング」は,言語化により取っ手を付けて記憶して操作できる能力を通じてのみ可能であり,科学もまたそうなのだと強調している.ここで芸術系の人文学の意義(それは論理的真を求めるのではなく,表層が持つ特性を楽しむところにある)にも踏み込んでいるのは面白い.そして最後に理性は言語化された直感だともう一度強調し,視点を俯瞰する視点(特定の視点に縛られないこと)の重要性を指摘して本書を終えている.
 
以上が本書のあらましになる.言語と思考について認知科学的に考え抜いてきたジャッケンドフの現在の到達点が示されているということになるのだろう.言語処理において膨大な無意識的過程があるというのは理解していたつもりだったが,意味についても無意識下に隠れていて,意識は発音と結びついた「有意味性」という取っ手しか持たないというのは衝撃的な議論だ.ジャッケンドフは言語分析,認知的な視点からの分析を駆使して,これを説得的に提示している.そしてこの「意味」は語の意味にとどまらず,文の意味(つまり思考)にも当てはまる.無意識下にある思考は様々な特性タグを通じてのみ意識されるということになる.この展開も衝撃的だ.そして最後に,しかし言語により取っ手を与えられ,文の意味を意識下で操作できることによりヒトの知性の地平線は大きく広がったのだと力強く主張されている.これは進化心理学的な「意識の報道官仮説」に対するジャッケンドフの意識の進化仮説ということなのかもしれない.認知,言語,意識,二重過程論に興味のある人には大変面白い本だと思う.


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A User's Guide to Thought and Meaning (English Edition)

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ジャッケンドフの本(邦訳のあるもの)

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心のパターン―言語の認知科学入門

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Patterns In The Mind: Language And Human Nature

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*1:どこまで薄くなったら「ハゲ」と言えるのかという例を用いている