Virtue Signaling その34


 

第7エッセイ 言論の自由に関する文化的多様性の擁護 その7


外国人学生のスピーチコードをめぐる苦難.ミラーはその結果の自国文化グループへの引きこもり現象についてもコメントする.
 

外国人学生グループが置かれる状況

 

  • アメリカのキャンパスに来て,奇妙な政治的正しさ規範に直面した外国人学生はどう反応するだろうか.多くは何とかその書かれていない規範を身につけようと苦労する.しかし多くは疎外感を味わうだろう.そして自国文化中心のグループに引っ込むことになる.(インドから来た学生が普段怯えたように控えめなのに,インド映画の夕べのような集まりではとてもリラックスして快活になる様子が描かれている)
  • 多くの大学では出身国ごとのグループが形成される.彼等にとってそこは不案内なイデオロギーの砂漠の中でのオアシスなのだ.このようなグループは一つの問題を提起する.ここでのスピーチについてもキャンパスのスピーチコードを適用すべきだろうか.自国出身の学生同士で自国では全く問題ない会話を制限すべきなのだろうか.ブラジルのデートエチケットで行われたブラジル出身学生同士のデートについてアファーマティブコンセントのアメリカ基準で裁くべきだろうか.このような外国人学生グループはコードのグレーエリアを形成し,コードについて重大な問題を提示する.このような場合についての適用基準を示した大学のスピーチコードは私の知る限りない.
  • 私は外国人学生たちに内部的に自分たちのスピーチ基準が適用されるグループを作る権利を認めるべきだと思う.そうすれば異国のイデオロジカルな規範から自由になってリラックスできる場所を得られるだろう.
  • もしこれを認めるなら,アメリカ人学生にも同じような(キャンパスのスピーチコードではない基準を持つ)グループを作る自由を認めない理由はないことになる.(モルモン教徒のグループ,Harvard College Munch*1のBDSMデートコードを利用するグループの仮想例が描かれている)
  • このような思考実験はスピーチコードの問題点を浮き彫りにする.それはまったく柔軟性に欠けているという点だ.それは単に外国の規範がアメリカと異なるというだけにはとどまらない.主流メディアが圧倒的に均一であっても.アメリカのすべてのサブカルチャーはそれぞれの文化を持っているのだ.そしてすべての大学のセミナーはそれぞれの学期ごとに異なる文化を持つのだ.真の文化的多様性(それには言論,視点,性的多様性の自由を含む)は単一のオフェンシブ規範の下では得られはしないのだ.

 
この部分のミラーの議論はなかなか巧妙だ.外国文化で育った学生グループ内で,自国基準のスピーチコードを否定してアメリカ基準を押しつけることは正しい対応といえるのか.この点については議論はあり得る.それが普遍的人権と認めらるようなことと関連するならそれは適用されるべきだという立論はあり得るだろう.しかしミラーが特に強調しているのは,このアメリカのスピーチコード基準がグローバルな視点から見ると特定イデオロギーに傾いた奇矯なものだということだ.であれは同じ文化圏に属する人々のグループがその自国文化基準とコードを適用される権利は認められるべきだということになる.そしてもしそうならそれはアメリカの(キャンパスの主流であるイデオロジカルな文化以外の)様々なサブカルチャーの人々に対しても同じように認められるべきことになるのだ.
 

*1:よくわからないがハーバードに作られたSMセックス愛好家のグループらしい