書評 「モノ申す人類学」

モノ申す人類学

モノ申す人類学

 
本書は長谷川眞理子による毎日新聞の「時代の嵐」コラムをまとめたエッセイ集になる.ある程度トピックごとに章をたててまとめ,一部書き足りなかったところについての補足も収められている.進化環境に適応して形成されたヒトの心のあり方と現代社会・現代文化のミスマッチというのが全編を通じて流れる通奏低音的テーマになる.著者はまえがきで2016年にこのコラムを執筆し始めたときには,ヒトの心理について狩猟採集民としての生活に適応した進化心理をメインに考えていたが,現在は文化進化の変容の速さがヒト心理に与える影響がずっと重要だと見積もっているとコメントしている.なかなか興味深い.
 

第1章 進化からヒトを見る

 
第1章は現代の科学技術がいかに人類進化史的に見て新しい次元の大変化であるかがテーマになる.ヒトの脳や心理は過去20万年で形成されてきたこと,典型的な現代環境とのミスマッチの例としてダイエットの難しさがあること,進化環境では食材の調達や下ごしらえが大変であったため食事は基本的に皆で集まって行う社会行動だったこと,ヒトのみが全世界に広がっていることを可能にしたのは文化の力だが,そもそも広がっていったのは好奇心の要因が大きかっただろうことなどが語られている.
ここで「ジェンダーについて思うこと」という一節があり,著者の世代のフェミニストはボーヴォワールの「第二の性」を聖典としてきており,そこには共感できる論点があるにしても(行動生態を研究するものとしては)なんともぬぐい去れない違和感があったことが書かれている.オスとメスは基本的に最適戦略が異なり,ヒトの男性と女性も10億年以上の有性生殖の進化史を背負っている.それを無視してここ数百年の文化的なジェンダー概念だけで男女差別を論じることには違和感が残るということだ.そして生物学的な性差とその理由を理解することが男女の平等や働き方や子育て支援政策を考える上での基本ではないかと主張している.おそらくこれが新聞のコラムになったときにはいろいろな反論や批判があったのだろう.ここで補遺が収録されている.自身女性でもある行動生態学者である著者のフェミニズムに関してのよく練られた説明なので簡単に紹介しておこう.

  • 進化生物学は生物学的な性差とその進化的な理由を明らかにしてきた.だから私はヒトの性差についても単に文化的な社会的概念が作った副産物に過ぎないとは思っていない.
  • しかしそれは「性差は生物学的に決定されている」とか「性差別は当然」と主張するものではない.
  • 生物学的な性差は栄養を持たず莫大な数の精子を生産するオスと栄養をつけて数が限定される卵を作るメスが繁殖成功度を上げるために採る戦略が異なっていることに由来する.
  • 哺乳類はメスが卵の栄養だけ投資するわけでなく,子を胎内で育て,出産後一定期間授乳するので,より両性間の戦略の差は大きくなる.
  • ここで「戦略の差」といっている意味は,これは条件依存的であり性差が固定されているわけではないということだ.ヒトの女性が果たしてきた妊娠,出産,授乳という仕事が人工的なプロセスに置き換えられれば女性が採ることのできる戦略の幅は増大するに違いない.そしてこれまでの社会と技術はある程度そのような女性の負担を軽減するように進展してきた.もちろん完全に人工的に置き換えらるようにはなっていないし,それが好ましいことかどうかはよく考える必要がある.
  • 男性は繁殖にかけるコストが小さかったので,繁殖以外の行動にエネルギーをよりつぎ込んできた.そして社会において権力を握ってきたので,歴史的経緯から基本的に社会は(現代であっても)男性の都合の良いように作られている.暮らし方,働き方そのものが繁殖コストの少ない個体がやることを基本に設計されているのだ.
  • 女性が妊娠,出産,授乳をより負担することがヒトにとって重要だと考えるならば,その違いを認識した上で男女の平等を実現する方策を考えねばならない.ヒトとしての繁殖コストを社会でどのように分担するのかを技術の発展も含めて考え直す必要がある.

 

第2章 少子化は止められるか?

 
第2章は少子化がテーマで,ここでは少子化の議論に際して「人類が進化環境において協同繁殖種であったこと」を理解することの重要性が繰り返し説かれている.
通常の動物は資源が豊かになると産む子どもの数が増える.なぜ現代の産業社会のヒトがそうならないかについて,資源が増えただけではなく子ども一人あたりの投資量が増えたことが重要であることがまず指摘される.次にヒトが協同繁殖種であるということは,子育て支援が特別な1種の「贅沢」ではなく,両親以外の多くの人が関わらないと子育てできないという制約があるということで,現代社会でその協同繁殖体制が崩れたのならそれに変わる公共サービスを考えるべきであることが主張され,また(個人的な経験もふまえて)子犬が可愛いと感じることが共同子育て感情のトリガーになり得るのは1つの希望であるとも書かれている.
 

第3章 進化でつくられたヒトの心

 
第3章は進化心理学の内容に絡むコラムが集められている.
まず児童虐待の問題が取り上げられ,(最近の報告件数の増加については,実態の悪化というより,人々の意識の向上により通報が増えたということらしいことを踏まえた上で)血縁のない親子関係が(相対的に)難しいことには理由があること,それでも協同繁殖種であるヒトは多くの場合血縁のない子どもにも愛着がもてること,親が(無意識も含めて)次の繁殖の方がチャンスが高いと感じるとき(特に現在共同体からのサポートが受けられないと感じるとき)に虐待が生じやすいことが説明され,この問題について周囲のサポートの重要性が強調されている.
そのほか,思春期のはちゃめちゃさは自分なりの生き方を探す「お試し期間」と考えられ,過度の安全志向が問題になり得ること,現代の科学技術が自己認知・自意識に(進化環境になかった)フォーカスを与えていること,「心の理論」により相手の意図を読むことの度合いには個人差や文化差があってそれぞれの場面で適切なバランスをとるのは難しいこと,現代社会が「人の評価」について定量的な基準に偏っている可能性があることなどが論じられている.
 

第4章 科学技術のゆくえ

 
第4章は科学技術が生む新奇環境がテーマになっている.
技術の開発の際にそれがヒトや環境に与える長期的な影響(とくにAI,SNS.仮想現実,ビッグデータなどがヒトの行動選択のもとになる環境認知に与える影響)が軽視されがちであること,AIに囲まれて暮らす生活への否定的感情がまず取り上げられている.また科学という営みがよりチームワーク制,分業体制が進み,「産業革命」を迎えており,科学者の生産と雇用の形態,評価基準(そしてノーベル賞のあり方)根本的に考え直す必要があると主張や沖縄に国立自然史博物館を作ろうというコラムもここに含められている.
前段の議論は現代の新奇技術への不安が前面に出ていて(毎日新聞のコラムであり,さらに紙面が限られているということもあるのだろうが)やや違和感がある.著者はコンパニオンのように世話してくれるAIに囲まれて暮らすのは嫌だと書いているが,私などは快適なら是非そうやって暮らしたいとも思ってしまう.新奇技術は有害な影響を持つかもしれないが,巨大な利益をもたらす福音という面も大きい.メリットを享受しつつ,どのように弊害を避けるかという視点をより前面に出した方が良かったのではないかと思う.
 

第5章 大学の不条理

 
第5章は行動生態学者としての著者ではなく,総合研究大学院大学学長としての著者の本音コラムが集められていてちょっと異色な(そしてなかなか面白い)章になっている.
大学という組織に関しては教授達,学生達,(卒業生を雇用する)企業達というプレイヤーがそれぞれ他のプレイヤーの動向を見ながら行動しているため,どうあるべきかを論じるにはゲーム理論的な分析が必要であることをまず踏まえた上で,現在の大学改革議論の問題点を次々に指摘している.いくつか論点を紹介しておこう.

  • そもそも大学がどのように生まれて継続してきたかという基本的な認識が共有されないまま大学改革の議論が行われている.大学の歴史は12世紀以降自由な研究と教育を求める学者たちとそのあり方をコントロールしようとする諸勢力との戦いの歴史であった.自由な知識追求の欲求とそれを学びたいという若者の欲求はヒトの本性だともいえる.現在の議論は経済的価値をめぐってなされるが,それは本来の知識追求のそもそもの目的ではないのだ.
  • 大学政策にかかる有識者会議は「日本には大学が多すぎ,経営努力が足りない」と指摘する.しかし彼等の議論は多角的に国際比較した結果であるようには見えない.きちんとデータを見るなら「日本は研究開発にはそれなりに財政支出しているが高等教育に出し渋る国だ」「日本には高等教育のレールが一本しかない」という実態が浮かび上がる.後者の問題への対処には大学改革だけでは解決できず,大幅な働き方改革,企業の採用慣行改革が不可避である.
  • 日本の財務省は国立大学の予算を削るために「削る判断が正しい」ということを示すデータなるもの(政府の科学技術支出と論文生産性の関係の国際比較など)をたくさん出している.そのデータは「日本の国立大学は多くの公的支出を受けている割には論文生産性が低い」という仮説の検証するためのデータなのだろう,しかし仮にその仮説が立証されてもそれは事実の問題であり,「支出を削る方がいい」という価値判断を不可避的に導くわけではない*1.価値判断には別の理由が必要だ.
  • 大学の最も重要な意義は次世代の人材育成ではないか.しかし現在の大学改革の議論においてはこの目的が軽視されている.それはこれまでの企業の採用が,学生が大学で何を身につけたかではなく,大学の入試の難しさというブランドのみを基準にしてきたことと深くつながっている.日本の社会全体が大学教育の価値を見る目を持たなければ世界の中で取り残されてしまうだろう

 

第6章 成熟した市民社会へ

 
第6章では文化進化による社会システムの変化により,ヒトが快・不快に感じる対象が変わって,行動が変わっていったことに関わる問題がいくつか取り上げられている.具体的には貨幣の発明が「抽象的で無限の欲望対象」という進化環境になかったものを生みだしていること,現代文明による快適で安全な生活環境がリスク判断を(進化環境よりも)極端にリスク回避的にしていること,情報があふれるようになった中で(多くの情報を分析して結果を出す認知的負荷を不快に感じるために)単純な二分法の誘惑に弱くなっていることが扱われる.
ここから現代日本の文化や制度についての苦言コラムが並ぶ.人々の行動基準が「自分の意見を言わない」「意見を言う人間を不快に感じる」方向に向かっていることへの苦言があり,なお大きく残る男女差別的制度改善のためには女性議員や女性管理職の比率を増やすべきであること,それにはインクルージョンの考え方が重要であることなどがコメントされている.
最後に,たしかに世の中は良くなってきているのに「信じてきた価値観や社会の常識が変わるのでないか」「文明は転換点にあるのではないか」という不安が拭い去れないことについてのコラムが収められている.
 
 
本書は元々単発のコラムを集めたものなので,特定のストーリーがあるわけではなく,その時々の著者の本音が綴られるというエッセイ集となっている.進化心理について,そして現代環境とのミスマッチについては長年の研究のバックグラウンドがにじみ出るいいコラムになっているし,性差別や大学改革の不条理については,日頃の不満と強い思いが伝わってくる.長谷川眞理子ファンにとっては嬉しい一冊ということになるだろう.
 
 

*1:というより,論文生産性を上げることが望ましいなら,普通は「支出のあり方を改善して論文生産性を上げることを試みよう」となるのではないかということだろう