From Darwin to Derrida その48

 
私たちは自分自身の中で意思決定についてコンフリクトを感じる.これは自然淘汰的にはどのように説明されるべきなのだろうか.ヘイグは適応制約説を説明し,現代環境における問題解決の際にモジュール間の統合プロセスがうまく働かないのは,それが新奇環境であるからではないかと示唆する.では(進化環境では)統合プロセスはどうなっていたのだろうか.進化環境ならうまく働く統合プロセスがあるのか,あるいは無い方がよかったのか.続いてヘイグは適応説を吟味する.
 

第6章 個体内コンフリクト その3

 
<適応仮説>

  • 個体内コンフリクトについての適応的な説明は,最良の行動を選ぶためには代替案を競争させることが最も良いメカニズムだとするものだ.(この仮説によれば)チータに追われているガゼルが前方に切り株を見つけ次に右にカットするか左にカットするかを決めなければならないとすると,ガゼルは最終判断地点に至るまで地形などの新しい情報をインプットしながら右選択肢と左選択肢のそれぞれの予想される結果を計算する.これらの計算は両プランの競合としてなされる.追いかけているチータも同様にガゼルが右にカットする場合と左にカットする場合のそれぞれの(フェイントに騙されないような)最良の追跡行動を計算し続ける.ガゼルが一旦どちらかに決めたら採用されなかった選択肢は完全に消え去る.しかしこのようなモデルは「悩ましい状況に追い込まれる」ようなことを説明するには不十分だろう.

 
この右か左か決定マシンは複数モジュールによる並列計算の有利性の最も単純なモデルということになるのだろう.確かにこれではヒトの意思決定の内的コンフリクトは説明できそうにない.ヘイグはここでヒトに現れるコンフリクトについて,より吟味する.
 

  • ジェイムズは衝動のコンフリクトについて2つのタイプを考察した.
  • 第1のものは,Oという状況にはAという対処を,Pという状況にはBという対処をするような衝動を持っているが,OはPの徴候であるという経験があるというものだ.この場合Oという状況に対して,直接的にはAの衝動を感じるが,間接的にBの衝動も感じることになる.
  • 第2のものは,様々な物事に対して相反するような衝動が生じ,状況のわずかな変化に応じてどれを選ぶかが変わってくるというものだ.
  • この両方のモデルにおいて,ジェイムズは,どちらを選ぶかは経験によって決まると考えた.その決断は部分的に理性から擁護可能になる.ジェイムズの考えによると理性で衝動を抑え込めるわけではないが,(ちょうど裁判官のように)どちらの衝動がより望ましいかは決められるということになる.ただジェイズムは何故このような決定を行うために感情的な努力を必要とするようになっているのかは説明できなかった.

 
このジェイムズの第1の例は通常私たちが自分の中の意思決定コンフリクトを感じるような典型例とは異なっているだろう.第2の例はまさにモジュール間のコンフリクトになるが,ヒトの日常生活に現れる典型的なコンフリクトは片方が短期的衝動的なもので片方が熟考による理性的なものということが多いだろう.ヘイグはそのタイプのコンフリクトについて考察を行う.
 

  • ヒトは,ハードワイヤードの本能の限界の補償のために汎用の問題解決メカニズム(理性)と学習能力を進化によって得た.私たちは理性的で文化的で本能的な存在なのだ.時にこれらの行動の代替的ガイドは異なる選択をする.
  • 本能は過去の自然淘汰の智恵を表し,似たような環境下でうまくいった方策を推奨する.文化も同じく過去の智恵を表し,遺伝子の淘汰よりはるかに素速く反応できるが,遺伝子的視点からは適応的でないものも推奨してしまうことがある.理性は現在の状況に対して,微弱な有利性にも反応できるが,歴史的な評価を持っているわけではない.

 
ここでおもしろいのはヘイグは理性的意思決定について汎用論理メカニズムとしての一般知性(理性)だけでなく学習と経験による文化的な決定プロセスも含めているところだ.ここから遺伝子の役割が考察に加わる.
 

  • 私たちの感情はポジティブなものもネガティブなものも遺伝子がその目的に私たちを沿わせるための飴と鞭だ.理性は感情の奴隷かもしれないが,理性は楽しみを目的のための手段として用いるのではなく,その楽しみ自体を目的とする.
  • 私たちの理性を用いる能力は本能の限界を補うための適応産物かもしれないが,その適応自体にも限界はある.例えば本能と理性がコンフリクトするとクラッシュしがちになってしまう.

 
理性は包括適応度上昇を目的とせずに,(包括適応度上昇のために遺伝子が用いる飴としての)快楽自体を目的にする.そのため脳のシステムはクラッシュという問題を抱えることになる.なぜ理性がこのように実装されているのか(最初から包括適応度を目的にするような理性は実装できないのか)というのは考えてみると面白い問題だがヘイグはそこには触れていない(これも1種の適応制約ということになるのかもしれない)
いずれにせよ理性がこうなっているので本能的衝動と理性の間でコンフリクトが生じてクラッシュするという問題が生じる.
  

  • しかし,もしそのようなクラッシュが不可避で繰り返されるのなら,ヒトはこれを解決するための(不完全かもしれないが)メカニズムを進化させているはずだ.良くデザインされた生命体は本能と理性の相克をどのように解決するだろうか? 
  • そのような生命体は十分な理由がある場合に限って理性で上書きするようになっているかもしれない.であれば理性が適応度と関わってくるような本能的な解決に異を唱えるには,強い動機が必要になり,そうでもない場合にはその動機の閾値は下げるようになっているだろう.こう考えると主観的な努力について適応的な説明ができそうだ.意思の力は適応産物ということになる.道徳家はこの筋肉的な説明を好むだろう.

 
ヘイグによると(理性が最初から包括適応度上昇するためのプロセスとしては進化できないとすると)1つの解決は基本的に衝動優先だが,特定条件下で理性が上書きするような解決になる.そしてこの特定条件が「強い動機」であるなら,ヒトは衝動を意思の力で克服でき,そのような意思の力は統合プロセスとしての適応産物ということになる.