From Darwin to Derrida その99

 

第10章 同じと違い その8

 
ヘイグによる「相同」の考察.相同を遺伝子のコピーから理解する道を示したのち,形態的相同を復権させようとするワグナー本の書評に入り,その観念的な議論を批判する.まず具体的な例(眼のレンズ)で考えてみてワグナーの議論がなりたっていないことを示した.ヘイグは次に「自然種」を持ち出すワグナーの議論が哲学的にどう問題なのかに話を進める.

 

自然種と名目種

 

  • ワグナーは特徴の状態と特徴のアイデンティティが連続的なものであることを理解していた.しかしここに曖昧性があることが自分の議論を掘り崩すとは認めなかった.なぜならその両極端は明確に異なっていたからだ.より一般的に言うと,彼は「相対的な不変」から「進化的な瞬間」への連続性を認めたが,強く保存された性質は自然種を定義するのに十分安定的だという哲学的なポジションを擁護していたのだ.

 
ポイントは特徴のアイデンティティが自然種だとする部分だ.ヘイグは指摘していないが,ここはヒトの持つ本質主義的認知傾向が誤謬を導くところなのだろう.進化する生物に「本質」を持ち込もうとすることは不毛と誤謬への道であり,生物種や生物クレードを本質から定義することは(進化を考えるとそれが連続している以上)基本的に困難なのだ.ヘイグは「真核生物」の例を用いてそれを示す.
 

  • ワグナーが生物種を進化的個物ではなくクラスだと考えた主要な理由は,相同と分類群は不変の性質を持つと考えていたからだ.だから「真核生物であることの『本質』はその細胞が組織化され遺伝物質がパッケージされている態様にある」ということになる.しかしこの自然種の『本質』はほとんどの渦鞭毛虫を真核生物から除外してしまう.ほとんどの真核生物のDNAは,ヌクレオソームにパッケージされ,複雑なヒストンタンパク質の周りに二重らせんをコイルさせている.しかし渦鞭毛虫のDNAはヒストンのない液体クリスタリンからなる染色体に詰め込まれているのだ.それ以外の形態的分子的特徴は渦鞭毛虫がアルベオラータ真核生物のクレードから進化したことを明確に示している.だから渦鞭毛虫を真核生物に含められるように「定義的特徴」を書き換えることは簡単だ.しかしこの新しい定義は別の例外に対して脆弱になる.真核生物は,(本質的特徴で定義できるクラスとするよりも)ユニークな歴史を持つ進化的「個物」として定義する方がはるかに簡単に思える.

 
このあたりは「種は実在するか」という問題とも関連する.私が勉強したのはかなり前なのでなかなか懐かしい.ヘイグはこの議論を(ワグナーのもともとの議論のテーマである)発生における器官間の相同に当てはめる.
 

  • 脊椎動物の腎臓を考えてみよう.腎臓は内胚葉の腎形成索から発達する.胚の未発達な腎臓は腎形成策から頭蓋末端と分かれて形成され,前腎と呼ばれる.中腎は形成索のより尾端側から発達し,前腎に置き換わり,前腎は退化する.成熟した魚類や両生類の腎臓はこの中腎だと考えられている.しかし成熟した爬虫類や哺乳類の腎臓は.この中腎がさらに尾端側から発達した後腎に置き換わってできている(ただし中腎の一部も精巣上体への管として残っている).魚類や両生類は後腎を持た-ない.
  • 爬虫類と哺乳類のこの一連の腎臓(前腎,中腎,後腎)は連続相同に当たる.両生類の中腎と哺乳類の精巣上体への管は特殊相同だ.すべてのメンバーが相互に相同かつそれ以外の器官に相同がないようなクラスとして「腎臓」を定義できるだろうか? 精巣上体は腎臓の変装なのか? それとも精巣上体と腎臓は異なる特徴アイデンティティを持っているのか? 両生類の中腎と哺乳類の後腎は同じクラスなのか,異なるクラスなのか? 
  • これらの問いに対して,腎臓,あるいは中腎,後腎を自然種として(一時的に)救出する答えは存在するだろう.しかしそのような答えはそれぞれの相同ごとに変えなければならないし,新しい知見が得られるたびに見直しせざるを得なくなるだろう.

 

  • ワグナーは曖昧な概念に対して精密な定義を行うことを好み,相同を名目種とすることを拒絶した.しかし名目種を「単純な恣意的なサマリー」とか「人が便宜的につけた区別であり,無意味」とする彼の描写は唯名論をおとしめるものだ.唯名論者は「すべてのカテゴリーは人が作ったもので,恣意的さや有用さに差があるに過ぎない」と反論するだろう.実際,首尾一貫した唯名論者は有用なカテゴリーを自然種と呼ぶことに反対しないだろう.なぜなら彼女は自然種は(それについて言語コミュニティがどう意味付けしていようと)それ自体名目種の一種だと考えているからだ.

 

  • ワグナーは(拍子抜けすることに)本の中でこの本にある定義はどれもフォーマルなものと扱うべきではないと認めている.彼は自分の定義が,より発生メカニズムが理解できるためのより精密な定義に「進化」するためのモデルとなると見ていた.
  • むしろ逆だっただろう.より知見が得られるほど,多くの形態はどのような定義もうまく当てはまらないように見えてくる.唯名論者なら「相同概念は有用だが,異なる仕事には異なる道具が向いているのだ」と結論づけるだろう.このような概念的多元主義の元では異なる相同に対して異なるディシプリンが適用されることになる.それは異なる種概念に対して異なるディシプリンが当てはまるのと同じだ.

 
このあたりの畳み掛けには迫力がある.読んでいて楽しいところだ.
 

  • 異なる生物間における相同器官の確認はしばしばその両種が進化的に共通祖先を持つことの明白な証拠だと扱われる.しかしこのよくある議論には存在論的な問題が内在している.進化的思考は明確な定義,そして明確に定義されたカテゴリー概念と相いれない.なぜなら進化的思考はあるものが別のものに変わっていく過程に関心を持つが,相同概念を使うということはそのような形態や機能の変遷の中で不変なものを探すことになるからだ.より物事が変化するほど,相同はより不変に保たれる.

 
遺伝子コピーを用いずに形態的に相同を決めようとするのは,変化(進化)の中に不変を求めようとすることであり,個別に定義せずに一般化することは基本的に無理筋だというのがヘイグの主張になる.その通りというべきだろう.