From Darwin to Derrida その100

 

第10章 同じと違い その9

 
ヘイグによる「相同」の考察.相同を遺伝子のコピーから理解する道を示したのち,形態的相同を復権させようとするワグナー本の書評に入り,その観念的な議論を批判する.ワグナーは「相同」を自然種として定義して形態的相同を救おうとした.しかし進化によって変化する形態を定義することは基本的に難しい.ヘイグは脊椎動物の腎臓の例を説明し,ワグナーの試みがいかに空虚であるかを示した.批判はさらに続く.

  

新規性と適応 その1

 

  • ワグナーは「相同の起源は,自然淘汰による変化とは異なるものだ」と議論している.彼は「適応進化と新規性の起源は概念的に区別することが必要だ.なぜなら適応的プログラムではうまく説明できないような新奇性の特徴が数多くあるからだ」と書いている.特に新奇性を作り出す制御ネットワークの遺伝的な書き換えは,適応を作り出す既存の経路の微調整とは異なっているとする.この結果「イノベーションは適応とは異なる過程であり,適応は通常集団内のミクロ進化レベルで研究されているに過ぎない」という.彼によれば新奇性は稀で可能性に満ちているのだ.

 
これは昔のグールドの議論とドイツ的観念論の混合物のような奇怪な主張に見える.「適応的プログラムでうまく説明できない新奇性」ということになると突然変異が浮動によって固定されたようなものしか思い浮かばないが,そうだとするとそのようなもので何か重要なものがあるとは思えない.この奇怪さについてヘイグは以下のように解釈する.
 

  • 進化生物学を分解する方法はいくつもある.ワグナーは適応をミクロ進化レベルの集団遺伝学と同一視している.しかし多くの集団遺伝学者は自分たちが適応主義者だとラベル付けられることを否定するだろう.また私のような多くの適応主義者は,現在集団内にある変異が大進化イノベーションにかかる遺伝的変異として典型的ではないということについてワグナーに同意するだろう.
  • イラン・エシェルは集団遺伝学の短期的モデルは長期的適応モデルとは異なる平衡概念を持つし,「長期的過程の動態はよく定義された短期的過程の外挿により理解できる」という考えは数学的に間違っていると指摘している.ワグナーは(誤って)集団遺伝学のモデルを適応主義プログラムとラベル付けしたために彼の集団遺伝学への批判は相手先を間違ったようなことになったのだと私は思う.

 
つまりヘイグによればワグナーは「適応」とは何かという点についてそもそもずれているということになる.なかなか手厳しい.さらにワグナーのグールド的側面についてのヘイグの批判が続く.
 

  • ワグナーは新奇性の起源についての適応の役割を軽視することで適応主義者とたもとを分かっている.「新奇性についての特別なポテンシャルは,(新しい特質を生じさせた)自然淘汰から見通すことはできない」,そして「羽毛は飛翔を可能にするが体毛にはできないことを自然淘汰から説明できるとは思えない」と彼は書いている.しかし自然淘汰に未来の洞察があるかのように考えている適応主義者はいない.イノベーションの進化的なポテンシャル(変化のうちには後に重要になるものもそうでないものもあること)はあとになって初めてわかるものだ.

 
このあたりのワグナーの誤解もなかなか醜悪なところだ.ヘイグはただ自然淘汰が未来を見通すことはないとだけ指摘しているが,それを踏まえると羽毛は飛翔を可能にし体毛は可能にしなかったが,それも(未来を見通せない力である)自然淘汰で容易に説明できるということになるだろう.そして適応主義者にとっても新奇性のポテンシャルを自然淘汰から見通すことができないのは当然だということになる.
ここからヘイグはトランスポーザブルエレメントを用いたワグナーの議論の批判に移っていく.