From Darwin to Derrida その200

 
最終章「ダーウィニアン解釈学」.文理の学問の違いを議論し,人文学には直感的経験的把握という要素があることを指摘し,ヘイグは「意識」の問題に入る.そして自動的行動においては無意識下でも世界の入力が解釈され続けていることを指摘し,自由意思をめぐる哲学のハードプロブレムにも言及し,その考察については進化適応的な視点が重要だとコメントする.そして次に「客観的事実」はあるのかという哲学の問題に移り,進化の視点をとれば,生物の外界の認識は有用性というアンカーにより世界についてのある程度信頼できる解釈であることを指摘する.
   

第15章 ダーウィニアン解釈学 その8

 

客観的現象 その2

  

  • 私たちが非生物と相互作用するとき,私たちは世界をそのまま見ることにより最も効率的に行動できる.私たちは知覚を信頼できる.それは非生物は目的を持たないからだ.
  • 生物との相互作用においてはそうはいかない.私たちは見たままを常に信頼できるわけではない.相手は私たちと異なる目的を持っているかもしれない.ちょうど自分たちが自分たちの意図を隠し相手を出し抜こうとしているように,相手もその意図を隠し私たちを出し抜こうとしているかもしれない.私たちの知覚の進化は彼等の騙しの進化を生じさせる.私たちは相手の計略を見抜くことによりうまく知覚できる.私たちは自分たちの動機を隠すことによってうまく相手を欺くことができる.そしてもし自己欺瞞が相手の欺き探知能力をごまかせるなら,動機は自分自身からも隠した方がより効率的だろう.

 
この進化視点から理解することができる「世界についてのある程度信頼できる解釈」は,非生物的な物事についてはそのまま成り立つが,別の生物との相互作用においては相手からの操作,騙しがある可能性があるので,それほど単純には成り立たない.ここでヘイグは騙しと騙しを見抜くことのアームレース,その中での自己欺瞞の問題にまで触れている.
 

  • 主観性は生物個体の客観的属性だ.この理由により,私たちを含む生物個体の客観的理解は主観性と結合している必要がある.私たちは相手,そして第3者への客観的共感能力を進化させた.それは他者の主観的視点をモデル化し,彼等が私たちの行動にどう反応するかを予想する.そしてこれらの共感能力は,自分自身を客観的に理解するのにも役立つ.

 
なかなか難しい言い回しだ.生物個体の外界の解釈は完全に客観的にはなりえず,どこまでもその生物個体の主観性の中にあるのはある意味当たり前だ.そして他者への共感はその他者の主観的視点を持ってなされることになる.ここでヘイグは心の理論には言及していないが,心の理論の当然の内容の1つということになるだろう.
 

  • しかし私たちは他者の客観性を信頼しない.なぜならヒトは証拠についてのゲームを行うからだ.同じように自分自身の客観性も信頼すべきではない,自分も他者と同じように不正を行うからだ.私たちの自分の動機についての知覚や何が「フェア」であるかの感覚は自分たちの目的のためにバイアスがかかっているのかもしれない.私たちは自分たちの選好を隠す利己的なインセンティブを持つ.明示的に理性的であり,他者の議論にも価値を見いだすようなヒトは,利己的に振る舞う相手に対して交渉的に弱くなる.私は自分自身の中に,様々な客観的判断を.「客観的な」証拠は自分を支持しているという情熱的な信念から隔離するような能力があることに気づいている.

 
そしてここでもう一度自己欺瞞の問題に戻っている.このあたりはトリヴァースが深く考察しているところだ.
 
トリヴァースの自己欺瞞本.残念ながら邦訳はない.

私の書評は
shorebird.hatenablog.com

 

  • 最後に,私たちの知覚は,誰かに手段として利用されているために歪んでいるかもしれない.その歪みは内部的なものも外部的なものもある.私たちがどのように「客観的」世界を知覚しているかは,ソーシャルメディアを使う外部のアクターからも,感情的な内部のアクターからも操作的な影響を受けている.

 
つまり生物が他個体と相互作用する以上「世界についてのある程度信頼できる解釈」は自己欺瞞,他者からの操作により歪んでいる可能性が常にあるということになる.
 

  • 私たちが利益として自己認知しているものは,自己が公称している目的につながらないかもしれない.私たちの希望,喜び,恐れ,憎悪は遺伝子の複製効率に向けて進化したものだ.私たちは,真の満足を得ることなく常に何かを求め続けるように進化した.私たちは現在の栄光に満足しない.幸福追求は戦いへ向かう中毒だ.欲しているものを得られたなら満足が手に入るという約束はしばしば虚偽広告なのだ.

 
ここでヘイグが言っているのは,平たくいうとヒトの動機や行動傾向はその個人の包括適応度最大化に向かって進化し,それは必ずしもその個人の主観的幸福に結びつくとは限らない,さらに個人的幸福と認識されるものも自己欺瞞や他者からの操作によって歪んでいる可能性があるということだ.これも進化心理学ではよく指摘されるところになる.
 

  • 多くの科学者は「科学は客観的だ」という修辞を抱きしめている.人文学者は彼等自身の証拠の基準を持ち,競合する解釈の価値を判断している.そして科学者のこの修辞のなかにハードな学問とソフトな学問の価値を区別する不公正な比較があることに気づく.科学者と人文学者はそれぞれの主観性と客観性を持つ,そして私はこれに関する議論に深入りするつもりはない.そうではなく,私は生物学者は生物の客観的理解の中に主観性を包摂すればいいのに,そして主観性について人文学者から何かを学べばいいのにと願っているのだ.

 
ここでヘイグは文理の学問の違いという当初のテーマに戻る.生物学は全体と部分が再帰的につながり,生物個体の主観性という視点を持たざるを得ない.そのため生物学者にとっては人文学の手法に目を向ける価値があるということになる.