From Darwin to Derrida その204

 
最終章「ダーウィニアン解釈学」.ヘイグは文理の学問の違いを扱い,物語というテーマに進む.そして進化生物学には歴史ナラティブの構築だというマイアの考察を紹介し,グールドのジャストソーストーリー批判を揶揄し,進化生物学における歴史的ナラティブの深さを語った.そしてまた文理の学問の違いに戻り,相互の意見の交換が重要だと示唆した.そしてここからは本書全体のまとめになる.
   

第15章 ダーウィニアン解釈学 その12

   

自然と魂を超えて その2

 

  • 本書の中心的な主張は形相因と目的因は作用因と質量因から歴史的なプロセスを経て生まれるというものだ.私は生物学者たちがその哲学的考察の中で目的論的考察をドグマ的に排除していることは科学の発展の障害になると信じている.そして生命体,時に物質遺伝子そのものは,世界を意味のあるやり方で解釈していると信じている.意味と価値は(人の意味や人の価値とは異なるが)生命の起源の時より存在していたと信じている.意味ある生命と単なる存在の境界は生命世界と非生命世界の間にあると信じている.

 
進化の再帰的な特徴は,そこに意味と解釈をもたらし,進化生物学において目的因を語ることを排除すべきではないというヘイグの本書の中心となる主張がここで高らかに繰り返される.
 

  • 自然主義化された目的論の科学的拒絶は科学的な理解と人文学的な理解の隔絶に貢献したと信じている.人文学と社会科学は意味,価値,解釈の問題について生物学に貢献する洞察を持っていると信じている.意味の起源についてのダーウィン的記述は,私たちが他の生物と共有している特徴からヒトのユニークな能力がどのように生まれたかについて人文学と社会科学に教えることがあると信じている.

 
そして進化生物学における目的因の排除は文理の学問の隔絶を深めたのだと主張する.進化生物学における目的因的な意味の記述(つまり適応主義的物語の提示)は人文学や社会学に示唆を与えることができるはずだというわけだ.
 

  • 私は意味と目的の問題についての自然淘汰のインプリケーションの完全な理解が自然科学と精神科学の間に文化的に構築された障壁を弱めることができると信じたい.しかし自然淘汰がミネルバとウルカヌスを和解させる見通しは,一見した限りでは難しそうだ.
  • ヒトの本性についてのダーウィン的な記述は,物理的な問題と意味の切り分けを維持しようとする全ての人にとっての避雷針であり続けている.

 
しかしそこには障壁がある.ヘイグは障壁を語る.「避雷針であり続けている(remain a lightning rod)」というのは,そこに雷が誘導されて落ちまくることからの比喩表現で,批判と攻撃に晒され続けているという意味になる.この辺はヘイグの被害者感がでている表現ということになるだろう.
 

  • 宗教的原理主義者からは,ダーウィニズムは導き手の知性なしに手段が目的に沿うと主張しているがために,それは魂のない科学から唯一敵として認定されている.創造論者にとってはダーウィニズムは「その全ての美点をなくした」目的論なのだ.他の科学も聖書的原理主義とは相いれないが,どれもダーウィニズムほど非難されることはない.

 
確かに創造論者は特に激しく進化学を攻撃する.これは基本的には聖書の説く道徳律にからむから(例えば地球が丸いかどうかはあまり道徳律とは絡まない)だというのが普通の理解だが,ヘイグはそれが聖書と構造を同じくする目的論であるがためにより攻撃が激しいのだと論じている.ちょっと面白い視点というべきだろう.
 

  • 精神科学からは,ヒトの本性に関するダーウィニズムの仮説は単純な科学が本来踏み込むべきでない領域まで侵入する不当で卑劣なものだと非難を受ける.
  • 進化生物学の内部からさえも,適応主義者の説明はジャストソーストーリーだと嘲りを受ける.そして中立的プロセスを重視する理論家たちは生存条件への適応に興味を持つ者たちより自分たちの方が厳密だと思っている.(私はこのことを同じ部局の同僚から聞いて知った)

 
中立論者からの攻撃(というか貶め)が扱われているのがなかなか面白い.中立論者がなお適応的な仮説に厳しいのは日本だけではないということになるのだろう.