From Darwin to Derrida その203

 
最終章「ダーウィニアン解釈学」.ヘイグは文理の学問の違いを扱い,物語というテーマに進む.そして進化生物学には歴史ナラティブの構築だというマイアの考察を紹介し,グールドのジャストソーストーリー批判を揶揄し,進化生物学における歴史的ナラティブの深さを語る.
   

第15章 ダーウィニアン解釈学 その11

   

自然と魂を超えて その1

 

  • 何かがその正反対のものから生まれ出るなどということがどのようにして起こりうるだろうか? 例えば誤謬から真実が? あるいは欺瞞の意思から真実の意思が? あるいは利己心から無私無欲の行いが? ・・・最高の価値のものは特別の起源を持つに違いないのだ.それはこの一時的で誘惑的で欺瞞的で下劣な世界から,この欺瞞と欲望の混乱から生まれるはずはないのだ.

フリードリヒ・ニーチェ

 
ヘイグの晦渋な本書もついに最終コーナーにさしかかった.この冒頭の引用はニーチェの「Jenseits von Gut und Böse(善悪の彼岸)」からのもの.
 

 

  • 科学と人文学を隔てる溝は深い.自然科学の側から見ると,人文学者たちの物質ではなく形への執着,事実ではなく価値への注目,物理的原因の無視は,人のウェルビーイングを改善する効果的介入への障害に見える.人文学の側から見ると,科学者たちの全体ではなく部分への執着,価値ではなく事実への注目,文化的原因の無視は,人のニーズの改善に対する魂のない障害に見える.
  • 作用因と質量因はダイダロスとウルカヌスの管轄であり,形相因と目的因はミネルバとミューズの扱うものだ.私たちはスコラ哲学の「何かを理解するためにはアリストテレスの4つの原因の全てに注目すべきだ」というコンセンサスからはるかに遠くに来てしまった.
  • しかし溝の反対側から何が見えるのかに敬意を表して,意見の交換を歓迎することは可能だ.ウルカヌスの重い手は,クレイオあるいはテルプシコラの軽快なタッチを必要とするのかもしれない.

 
ヘイグはここで文理の学問の間の溝をまた語る.そして意見の交換が有益だと示唆する.ここでミューズはギリシア神話の9人の女神たちで,クレイオとテルプシコラはその中でそれぞれ歴史,舞踏を司る女神になる.ここからはヘイグの本書全体のまとめと所感が語られることになる.