From Darwin to Derrida その205

 
最終章「ダーウィニアン解釈学」.ヘイグは本書全体のまとめにはいる.本書の中心テーマは「進化の構造的な特徴は再帰性であり,それは意味と解釈をもたらし,進化生物学において目的因を語ることを排除すべきではない」ということになる.目的因を語ることは本来文理の学門間の溝を埋めることに役立つはずだが,しかしそれは各方面から攻撃されてきた.

   

第15章 ダーウィニアン解釈学 その13

   

自然と魂を超えて その3

 

  • 適応主義は非難される.なぜならそれは境界を越えるからだ.
  • 物理主義者からは,適応的物語叙述は作用因と質量因の純粋領域を乱雑な意味で汚すように見える.
  • 人文学者からは,ヒトの本性のダーウィン的説明は魂のないメカニズムの信奉者たちからの敵対的買収提案として拒絶される.
  • 物理主義者も人文学者も現在ある境界に満足なのだ(「我々は彼等とは別だ!」というわけだ).国境は連続した地面の移動に対する歴史的な偶然似よって生まれた障害だ.学術的な現実政治の用語でいうと,ダーウィニズムは自然と魂の国境地帯にあり,その両大国に挟まれた小さな主権国家ということになる.

 
なぜ目的因を語る適応主義は批判されるのか.ヘイグのあげる最初の要因はそれは学問の境界を侵犯していると自然科学者,人文科学者双方から受け取られるからだということになる.何となくグールドの科学と宗教の2つのマジェステリア論のようで面白い.
 

  • 多くの学者は心の底からダーウィニズムを嫌っている.彼等の反応はランダムな変異,適者生存,エージェンシー,決定主義の4つの様相と関連している.すなわち,偶然の役割(を認めること)は世界から意味を無くす;自然淘汰は無慈悲だ;目的をヒト以外の生物や遺伝子に用いることはヒトのエージェンシーのユニークさを無視している;自然的過程によるヒトの本性の説明は我々が世界を変える自由を持つことの否定だ,と受け取られるのだ.(このような言説は)自然淘汰は世界の意味を否定していると非難し,同時に本来意味のないところに意味を見いだしていると非難していることになると指摘しても,無駄なようだ.

 
そして適応主義は,世界から意味をなくす.自由をなくすと誤解され嫌われる.ヘイグは触れていないが,道徳についての深刻な脅威だと誤解されているという要因も大きいだろう.
 

  • 最も目立つ関心はヒトのユニークさについてだ.全ての生物はユニークだ.しかしヒトは文化と言語を持ち,他の種をはるかに凌駕している.私たちは遺伝子とミームの共生体で,遺伝的変化のペースよりはるかに速く変化する世界に適応できる.私はここまで,私たちが世界に意味を見いだしているために使っているヒトの脳の驚異的かつ精妙な複雑さや社会における心の弁証法については言及してこなかった.それはほかの人にまかせたい.

 
ヘイグは明確には指摘していないが,これは(多くの人の心の中にある)人間中心主義への脅威だからという要因だろう.
 

  • 私のここでの限定的なゴールは最も単純な解釈と最も複雑な解釈の間に非連続性ではなく連続性を見つけることだ.そして決定主義についての関心を減らせたらとも願っている.私たちは無限ではないにしても数え切れないほど多くの解釈と行動の自由を持っている.私たちは自ら動機付けを行うエージェントであり,外的要因に緩衝を受ける.そして今ここにある不動の動者として地面に立っているのだ.

 
ここからヘイグの反論となる.適応主義的説明は,決して決定論ではなく(無限ではないにしても)超天文数的な解釈の自由を持つのだ.最後はヘイグの魂の叫びになる.どのみち非難されるにしても,せめてダーウィニズムをきちんと理解してから批判してくれというところだろう.
 

  • 多くのダーウィニズムへの批判はいかにして方向性を持たない偶然が生物のような複雑なものを作り出すのかを理解することができていない.偶然だけでそうなるのではない.自然淘汰は幸運な偶然を持つ子孫を保存し,さらに偶然の幸運を積み重ねたその子孫を保存する.そして同時に不運な偶然を持つ子孫や幸運な偶然を持たない子孫を排除する.書写のエラーと幸運なペンの滑りの差は(つまり誤謬と成功の差は),幸運なエラーはそれが子孫にコピー,再コピーされた後に振り返ってみて意味を持っていることにある.だからそれはラチェットのように働く.これが自然淘汰の創造的な力だ.生命の意味はそれがそうでなかった軌跡の上にある.
  • もう1つの関心は偶然の役割が意味を削除するのではないかというところにある.私たちがここにいるのに理由はない.しかし偶然だけでそうなるのではない.自然淘汰は存在のための理由も持つ存在を作り出すのだ.ヒトに道徳的な判断や非道徳的な判断を行うことを可能にしているのは無道徳的なアーキテクトだ.「目的は手段を正当化する」というのは,「正当化」から道徳的な意味をはぎ取れば,自然淘汰の定義となりうる.
  • 自然淘汰には明と暗の側面がある.それは一枚のコインの裏表だ.明の面は生命世界で目にすることのできる美しく精妙な適応を反映している.暗の面はしばしば汚らしく,野蛮で,劣ったより適応的でない生命を淘汰的に刈り込んでいることだ.明るい面は暗い面から生まれ,暗い面によって維持されている.美と残酷の組み合わせは心を揺さぶる.光と闇の相互作用は生命のパトスだ.私たちは人生を自分の意思で切り開いていくのだ.

 
この最後の3段落は深く味わいがある.以上でヘイグの本書の中心部分は完結した.しかしこの後余韻を楽しむような部分が残っている.