War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その7

  

「帝国の基礎は辺境に始まる」則がローマ帝国滅亡後の様々な国家の興隆に当てはまるかを扱う第3章.ターチンはライン川の国境沿いの辺境で,メタエスニック断層線が形成され,そこではゲルマン側に「オーディン信仰ゲルマンvsキリスト教ローマ」の「我々対あいつら」アイデンティティが作られ,侵入略奪(奢侈材の入手)のための軍事的に強大になる動機が形成され,規律や効果的組織作りの文化が流れ込み,強国が作られる基礎が生まれたことを見てきた.次にドナウ川沿いの辺境,特にビザンチンの興隆が取り上げられる

 

第3章 森での虐殺:ローマ帝国の辺境(The Limites) その3

 

  • ライン川辺境は国家興隆(ethnogenesis),帝国興隆(imperiogenesis)の明瞭なケースを提供してくれる.そこでは全く異なる文明が衝突し,互いに影響を与えあった.
  • ドナウ川辺境では物事はやや複雑に進行した.帝国領域においてはもともとラテン語文化とギリシア語文化が併存していた.蛮族サイドではヨーロッパの森林に源を持つゲルマンやスラブがいて,そこにステップ地帯のさまざまな遊牧民(サルマティア,フン,アヴァール,ブルガル)が侵入していた.これらの2種類の人々は複雑に混じり合った.東ゴートは遊牧民要素を多く取り入れローマからはスキタイと呼ばれることもあった.5世紀のフンは完全に両要素を合わせ持っていた(アッティラ大王のアッティラはゴート語の「父」を意味する).
  • ドナウ川の中下流域はその民俗的な歴史が非常に複雑だ.遊牧民たちの動きにはさらにその東の中華圏からの影響もある.この部分は第7章で取り扱うことにしよう.

 
ドナウ川辺境では事情が非常に複雑だったということだ.日本で教わる世界史ではゲルマンはドナウ川国境からも侵入したが,結局彼等は西帝国領域に進み,東ローマ帝国は残ったとされる.そして時にフンなどの遊牧民が西ヨーロッパに侵入してくるが,その後バルカン半島にはいつの間にかさまざまなスラブ国家が興隆しているという流れになっていることが多い.ここでターチンはビザンチン帝国に焦点を絞って叙述する.
 

  • ここでは東ローマ帝国の問題を考えよう.よく問われるのは「なぜ東ローマ帝国は西ローマ帝国の滅亡後1000年も生き残ったのか」という問いだ.しかしこの問いは設問の仕方が間違っている.ビザンチン帝国の歴史は教養ある西洋人にとってもあまりよく知られていない.よくあるイメージは「腐敗し続ける東洋的な専制国家」というものだ.しかしこのような悪いイメージは(イスラムではなくビザンチンに侵攻した)第4回十字軍時代以降のものだ.
  • そしてインテリにとってのビザンチンのイメージはエドワード・ギボンの「ローマ帝国衰亡史」によって形成された.ギボンは五賢帝時代からビザンチンの滅亡までを衰退し続ける歴史として描いた.これによりビザンチンはローマ帝国の(衰退し続ける)後継国家と認識されることが多い.確かにビザンチンの歴史の最初と最後の1/3は衰亡期と見ることが出来る.しかし真ん中の1/3の時期においてビザンチンは結合力のある軍事強国であり,領域を拡大させている(ギボンはこの時期をたった1章に縮めている).

 
ギボンのローマ帝国衰亡史ははるか昔に全巻通読したことがある.ローマ帝国華やかなりし五賢帝時代から始まり,コンスタンチノープルの陥落まで延々と語られていて大作だが,かなり物語的な記述も多く意外と読みやすい.確かにヘラクレイオスの「シリアよさらば」の後の興隆期の記述の印象はあまりないような気がする.
 

 
原書は当然著作権切れで,Kindleだと全6巻が199円で読める

 

  • 問われるべき問いは「なぜローマの一部分が1000年も永らえたのか」ではなく,「なぜバルカン・アナトリア地域で新しい強国が興ったのか」なのだ.
  • ビザンチンは(確かに彼等はローマ人を自称した*1が)古代ローマ人と異なる人々からなる国家であり,言語も宗教も政治体制も文化も異なる.ビザンチンはバルカン・アナトリア地域に成立した新しい国家と考える方がよいのだ.

 
ここは自称だけではなく,法制度的にも東ローマ帝国とビザンチン帝国は完全に連続しているという事情が大きいと思う.ともあれ,その中で中身が変遷していったというのはその通りだろう.
 

  • ではどのようにビザンチンは興ったのか.
  • ローマ帝国は1世紀にバルカン半島のドナウ川下流地域(イリリア,ダルマキア,モエシア,トラキア)を領域に組み込んだ.そこは辺境となり,要塞化され,軍隊が常駐した.1世紀の時点では軍隊はイタリアから派遣されていたが,3世紀時点では駐留軍人の9割がバルカン出身の人々になり,軍隊はバルカン式になり,実質的権力は中央(イタリア)から現地に移った.
  • 3世紀の危機には度重なる内戦とゴートの侵入により辺境州は自衛するほかない状況になった.軍事指導者は皇帝を自称し,そこで団結心が育まれた.ディオクレチアヌスやコンスタンティヌスを含む軍人皇帝時代以降のほとんどの皇帝はこの地域出身の軍人だ.コンスタンティヌスはキリスト教を国教化し,都をコンスタンティノープルに遷した.
  • キリスト教国教化の影響は大きい.それはこの辺境地域のさまざまな民族出身者を結びつける糊になった.コンスタンチノープルは皇帝や軍人たちの出身地に近く,交易の要衝であり難攻不落の首都となった.
  • 4〜6世紀の地中海世界を理解するキーファクターはローマの帝国病(imperiopathosis)とドナウ川下流の新しい(まだ帝国とまではいえない)強国への入れ替わりだ.この期間はローマからビザンチンへの転換期と捉えることが出来る.そしてビザンチンが完全に成立するのはアラブによる(シリア以南の)征服によるショックの後だ.
  • この転換期は不安定だった.それはビザンチンがまだ完全に成立しておらず,帝国領域内では北ガリアやシリアの興隆勢力との内乱が多発し,帝国領域外からのフランクやゴートによる侵入が相次いだからだ.

 

  • コンスタンティヌスの築いた安定はアドリアノープルの敗戦で消え失せた.これ以降西ローマ帝国は崩壊の道を歩むことになる.476年に最後の西ローマ皇帝が廃帝となった後,西ローマ帝国領域内ではシアグリウスの北ガリアのみがローマ人の手に残った.シアグリウス王国が新たな強国,そしてガリア帝国になる可能性はあったが,結局フランクのクロービス王に征服された.
  • 東ローマ帝国は蛮族のプレッシャーに(時に彼等に服従しながら)耐え抜き,西ローマの崩壊を生き延びた.そしてユスティニアヌスによる国土復興,キリスト教の教義論争(これは帝国内に分断要素をもたらし,最終的に北アフリカとシリアを失う要因となる),そしてアラブの興隆による領域縮小(これによりビザンチンはバルカンとアナトリアのまとまった領域国家になり,国土すべてが実質的に辺境となった)を経てビザンチンはローマ帝国とは全く別の国家となった.これらの辺境の軍事的脅威にもまれてビザンチンは9世紀におけるヨーロッパの強国となったのだ.

 
このあたりの歴史叙述も非常に楽しい.ビザンチンが辺境国家だというのは通常そうは捉えられていないところなので,ちょっと驚く.とはいえ確かに彼等はゲルマンや遊牧民(そして7世紀以降はアラブ)の侵入に常に晒されており,防衛のための軍事強化の動機や団結心が芽生えるというターチンの主張にも頷けるところがある.
とはいえライン辺境ではローマの外側に団結心が生まれ,ドナウ川ではローマの内側に団結心が生まれたというのはなぜなのかという疑問は残る.ライン川の内側にもシアグリウスの北ガリアには団結心が芽生えたが,不幸なことにフランクの方が強かったというだけということかもしれないが,ややチェリーピッキング的な説明のような印象もあるところだ.

*1:自称から考えるべきではない例として,現代のルーマニアがローマを自称していること,フランスがフランクを自称していること,ロシアがキエフルースの直系を自称していることなどが挙げられている